第10話 延長戦が認められまして

 大移動を完遂した私はこれでもかというくらいの深いため息しか出なかった。

 吐き出したため息でこの空の色が変わればよいのにと行儀悪い舌打ちだ。

 最後くらい青空にできませんかねとやや八つ当たりに近い想いで空をにらんだ。

 悔しすぎるではないか。

「晴天祈願届かず」

 見上げれば、低く垂れこめた厚い雲。

 暖かいはずの予報は見事に外れ、ぽろぽろと時折おちてくる滴と、これまた思った以上に真正面からくる強烈な向かい風に体温を見事に奪われた。

「なんでやねん!」

 指先が震えるほどに寒くなった私は、麻のロングワンピースの上から悔しいなと思いながらもグレーのパーカーを着込んだ。

 ちょっと肌寒いだけじゃない、昨日の余波が確実に残っているのがわかってはいるが新田原基地のエプロンにある戦闘機を目で追う。

「こんな時に!」

 そもそも自衛隊のイベントで可愛くあり続ける方が難しいのだが、今回ばかりはどうにも可愛く居続けたかった。

 でもすぐに、女子の事情をコロッと忘れてしまう私がいる。

「きっと、天気にうんざりしてるだろうな。 飛ぶのも気を遣うだろうに……」

 航空機の安全に天気は重大要件だ。

 飛行前の気象レポートをきき、仏頂面なままブリーフィングをしていそうな津島を簡単に想像できる。

 かわいらしい笑顔は商売用、全く笑っていない目をして、腕を組んだまま仁王様のような顔をしているのだろうと一部偏見をはさんで想像してみる。

 一度舞い上がってしまえば、空で何かが起こってしまえば逃げ場などない。

 日々当たり前のように空を飛んでいても、一回一回の事前準備は絶対に気を抜いたりしない性格だろうし、オンとオフがはっきりしている津島の雰囲気は今頃怖いくらいだろう。

「津島さんを御護りください」

 飛ぶ姿を見るのは大好きだけど、何よりも大切なのは事故がないこと。

 訓練やイベントとはいえ、絶対安全なんてことはない。

 数秒前までにらみつけていた空に、今度は手を合わせる現金さ。

 第一線のパイロットがこれをきいたら鼻で笑われてしまうだろうけど、万分の一の運の悪い籤を誰が引くかなんて後になってみないとわからない。

 こんな思考回路になってしまう自分が切ない限りだ。

「あのさ、その前に逢っても良い状態かどうか心配したら?」

 加絵がふいにため息まじりにつぶやいた。

「加絵ちゃん、どうしよ! 私、これで大丈夫?」

 急に現実に引き戻され、加絵に向き直り、身だしなみのチェックを開始する。

 可愛くいなければとついさっきまで思っていたのに、その乙女な自分を忘れてしまう愚かさ。

「あんたらしいけどさ……」

 あきれ顔の加絵は風で乱れた私の髪をそっと整えながらまたもや息を吐く。

「そういう所を神様が見ている気がするよ。 ほれ、あの龍神さんが助けてくれそうじゃない?」

 加絵の指さす先には303飛行隊のマークのイーグルがいる。

「あれ? どうして303がいるの?」

 ここは宮崎の新田原基地だ。303飛行隊は石川の小松基地所属のはずだ。

 この特別公開のゲストなのだろうかと、まじまじと眺めてしまう。

 私の最も好きな飛行隊は303なのだ。今は305も好きなんだけれど。

「303の龍神様、どうか御護りください」

 加絵は私の頭を下げさせてから、隣で手を合わせている。

「どっちを御護りください?」

「泰子に決まっているだろうが! 津島の野郎を護る気はない! 津島の野郎は泰子が護るのだから、泰子は龍神さんと私が護る。 文句あるか?」   

「303龍神は津島さんを護るんだから忙しいでしょうが!」

「だからといって、私は津島のためには祈らん。 趣味じゃない」

「祈ってよ!」

「イケメンのためなら祈る」

「イケメンでしょうが!」

「それは趣味の問題だ。 大多数が泰子の今の発言を否定するとは思うけどね」

「津島さんに謝れ!」


「あいかわらず、面白いことで」


 二人で振り返ると、腹をかかえたままで笑っている佐竹が立っている。

 305飛行隊の隊舎前でのやりとりを、実に数分前から聞き耳を立てていた佐竹はこらえきれず爆笑していた。


「早く声かけなよ!」


 私は恥ずかしさを覆い隠すように佐竹を軽くにらみつけた。

「その態度、津島さんにみせて~わ」

 佐竹は指さして笑いながら近づいてくる。

「見せるわけないでしょうが!」

「見せれば?」

「絶対せん!」

「面白いと思うよ?」

 エスコートに現れた佐竹は会場にむかって案内してくれながらなんだかんだと話してくれた。

 首からぶらさがっているゲスト用のパスはこの佐竹のおかげだ。

 私と加絵の人物保証は佐竹が担保している。

「ありがとうね」

「俺、神だから。 佐竹様と呼んで頂戴」

「佐竹様、ありがとうございます」

「うむ、素直で何よりです。 棒読みなのがいたたまれない気もしますがね」

 佐竹は満面の笑みだ。

 加絵曰く、佐竹の方がよっぽど男前らしいのだが、私にはよくわからない。

「今日、津島さんがのる機体、佐竹さんが機付き?」

「違うけど」

「よかったわ~」

「本気で言ってるな、それ!」

「安心安心」

「機付き長なめるなよ! 俺様のイーグルちゃんは出来の良い子なんだから! 津島さんは俺のにのりたかったことだろう。 そうに違いない!」

「はいはい」

 佐竹はずらりと並ぶイーグルの左から三番目の機体を指さして、『うちの子』と胸を張るように言った。機体には【A.SATAKE】と書かれてある。

 機付き長とはその機体の整備責任者だ。佐竹は左から三番目の機体の親みたいなものだ。

 丁寧に丁寧に、万分の一の悪運をパイロットにひかせないように頑張ってくれていることはよく知っていた。

「ブルーの機体に名前がくっついてた時も感動したけど、イーグルについてるのもすごいよ!」

 素直にすごいと思う。

 イーグルのお腹に堂々と自分の名前を付けて、『俺がこの子を責任もって護ってます』と言えるのだから。

「でしょうとも!」

 佐竹はにひひひひと笑っている。

 どこか自慢げで、自信に満ちた表情を私はうらやましく思った。

 こんなに自分の仕事に私は胸を張れる生き方をしてきたのだろうかと。

「佐竹さんはすごいよ。 うん、すごい!」

「でしょうとも! もっと褒めて、大好物よ」

「やっぱり、前言撤回する。 喜び過ぎは何だかむかつきます」

「撤回なしで!」

「絶対に津島さんをあの機体には近づかせないでね」

「明日にでも載せて差し上げるわ!」

 佐竹と実にどうでもよいやりとりを小一時間した後、佐竹は機体整備の確認へむかった。

 整備をする顔は普段のにやけたものではなく真剣そのもので本当に尊敬してしまう。

 点検項目を何度も何度も丁寧にチェックしていく根気のいる作業だ。

 佐竹のように丁寧な仕事を淡々としてくれる整備員がたくさんいてくれるから、どの機体にのりこんでも自信満々でパイロットは大空を羽ばたくことができる。

 戦闘機を、日本の翼をしっかりと護ってくれている人たちを見るのも好きなのだけれど、それを一瞬で超越してしまうものが今の私にはできてしまった。


「あ、来るな……」


 働く佐竹の後ろ姿に悪いとは思いながらもあっさりと別れを告げ、私は真後ろへ目をやる。

 例にもれず、津島が駐機場前に出てくるのがわかってしまったのだ。

 理由はないが、毎度おなじみの直感だ。

 豆粒くらい遠いところにいてもわかってしまう。

 私は人込みをかきわけて、その逢いたい豆粒を目指して歩く。

 後で気づいたのだが、どうやら私は無意識に加絵を置き去りにしたらしかった。

「我ながら、ある意味、才能でしかないな」

 しばらく歩くと、豆粒の正体が判明した。やっぱり津島だ。

 もはや苦笑い。どんだけ好きなのだと脱力してしまう。


「あれ? 来てるじゃんか」


 顔を合わせた開口一番の津島のこの発言に、私はびっくりして固まってしまった。

「来れないって書いてたのに。 いつ来た? 昨日か?」

「昨日ですけども……あの、手紙とかってちゃんと読んでるんですか?」

「おう、読んでるぞ。 失礼な」

 屈託なく笑う彼を前に、まだ思考が混乱していた。

 この人はあの愛が凝縮している手紙をばっちり読んでいると言わなかったか。

 しかも、私は彼に一度しか名乗ったことはない。

 佐竹が絡んでいるとはいえ、ばっちりと顔と名前を一致して記憶している。

「なんだ? 言いたいことあるのか?」

「いや~読んでるんだな~と……」

「読んでますよ~、仕事が忙しいって書いてたじゃんか」

「何とかなったんですよ、先輩が行って来いって行かせてくれました」

「そうか。 それはそれは、ようこそ」

 あっけらかんと話す彼と並んで歩きながら、誰にも邪魔されない時間をすごす。

 まだ、誰も彼が隊舎から駐機場の端へ出てきていることに気づいていない。

「風、強いなぁ」

「今日、これで飛べます?」

 空を指さしてきくと、彼はやや渋い表情をうかべた。

 素直すぎると吹き出しそうになった。

「飛ぶしかなかろうよ」

「ははは……」

 予想通りの反応と晴天運のない津島を思うと、どこか哀れな気持ちになった。

「なんだ、その笑い方。 悪かったな、ほんと悪天候専門パイロットになりそうだ」

「悪天候専属パイロット……あははは。 あ、これ、お土産です。 私の友人が津島さんモデルに作ってくれた特製ベア」

「すげ~な、これ」

 テディベアにパイロットスーツを着せ、ヘルメットには名前入りだ。

「で、これ、津島さんと同じ名前のキャラクターグッズ」

 引き続き、お土産袋を差し出すと、ふいに足を止めた彼が袋の中を覗き込み、ため息を一つ漏らした。

「毎度、思うけどさ……こんなのどこで見つけんの?」

「それをきいちゃいます? 発表します……愛なのです!」

 あきれ顔の津島に胸を張るようにして言った。 

「なるほど、建設的にお答えできんわけね」

 聞いた俺が悪かったよと言わんばかりに笑い、しばらく平和な時間を過ごす。

「失礼な! 愛があるから見つけられるのです!」

「ほんとに……呆れるわ」

「失礼しちゃう。 そんなことより! すっごい風ですけど、ほんとに大丈夫なんですか?」

「それこそ、失礼しちゃうぞ。 この程度の天気で飛べん方が病気」

「あ~あ~、公式ラストでしょう? 泣いちゃうよ……」

「……これが終わっても、俺、まだ飛ぶし!」

「TACは最後でしょうが!」

「佐竹からきいたな……あの野郎! でもまだ飛行機乗るしな!」

「飛んだって年飛でしょう? そんなのみれないじゃん!」

「年飛まで知ってるんか……。 まったく、そんなこと言っても仕方がないだろうが。 でも、ま、結論! 泣くほどではない、大袈裟」

 頑として譲らない津島の横で、私はふくれっ面をするしかない。

 どれだけ貴重だと思っているのだろうと、横顔を見上げる。

 そこにあるのはイーグルドライバーの自信満々の笑みだけだ。

 大好きな人がたまたまパイロットで、その美しいと思ったフライトを目に焼き付けなくちゃならんという必死な私の心を知るまい。

 しばらくして、目ざとく彼の姿をみつけたマニアが集まりだす。

「津島さん、がんばってね!」

「はいはい」

 笑顔で、彼のそばを離れる。

 直接、生の言葉での告白はやはりできなかった。

 ぐっとこらえて、唇をかんだ。

「あんた、すごいな~。 顔も名前も一致しておりましたな」

 どこで見ていたんだというくらいふいにそばに来た加絵の顔を見上げた。

「ニヤニヤしてしまうな。 自然だったよ、会話。 手紙も読んでおりましたがな」

「でもさ、告白できんかった」

「あれじゃ仕方ない。 でも、勝負はまだ終わっていない。 だって、あれだけ多くの人に囲まれてる中で、あんたの顔と名前は一致しているんだから!」

「神対応の一種では?」

 彼がにこやかに一般人に接していることを仲間内では『神対応』と評価されているようで、同じ隊の人間は不思議で仕方がないというのだ。

 にこやか、朗らか、豪快という評価の彼だが、身内の評価は違う。

 怖い、厳しい、豪快というのだ。佐竹曰くジャイアンそのものらしい。

「泰子、みよ、すごいだろ」

 加絵は彼と同じ隊の若手パイロットがお気に入りで、そのパイロットと写真をとったと自慢気にみせてきた。

「いつのまに……」

「腕を組んでみた!」

「あっぱれすぎますよ、加絵さん」

「あんたの方があっぱれだよ。 さすがですな、津島センサー。 忽然と消えるからびっくりしたわ。 で、毎度おなじみの二人並んで歩いてくるからさらにびっくり」

「愛ですからね~。 ……このくらいの風で飛べないのは病気だってさ」

「強気なことで」

 そして、数時間後、私は彼のフライトを万感の思いでみあげる。

 曇天を忘れるほどの迫力抜群なフライト。

 空が狭いんじゃないかというほどのやりたい放題。

 見ている人間の胸を躍らせるような、気合のはいりまくったフライトに、私は涙がこぼれた。

 機体が唸り声を上げるたびに、恐怖と感動がせめぎあうのだ。

『事故しないで!』という想いと『やってしまえ!』という期待が鬩ぎあうアンバランスさ。

 無事に着陸したのを確認した時に、自分の掌に爪の跡が残っていたことには驚きだった。

 機体からおりてくる彼にぶんぶんと手を振ったら、彼はあきれ顔を浮かべ、『もう手を振るな、わかったから!』というように大きくうなずきながら苦笑した。

「おかえり!」

 にっこり笑顔で、手を振ると、やめなさいと私を叱るような表情をしながら、しぶしぶ津島が歩み寄ってきた。

「涙出た」

「まだ飛ぶから! ……大袈裟だし。でも、ありがとな」

「最後を見れてよかった!」

「まだとぶっちゅうに!」

 ひたすらに暖かい瞬間だったが、その時間ははかなくも消え去った。

 あっけなく、もぎ取られるように、次々とマニアや関係者に囲まれていく彼を遠巻きにみるしかできなかった。

 結局、何も変えることはできなかった。

 私に残されたチャンスはここまでだったのだ。

 肩を落としたまま、私は加絵に励まされながらホテルへ戻ることとなった。

 雨風にまみれた自分を綺麗にするのだというのを口実に悔しい涙を隠すようにシャワーへ駆け込む。

 外にはたくさん美味しいものはあるだろうに、その日はもうホテルからでたくなかった。

 加絵に叱咤されて、ホテル内の中華に連れていかれることとなったのだが、すべてが終わったのだというようにもう生きた心地がしなかった。

「お腹すかない」

「つべこべいわないの!」

 加絵に引きずられるようにしておしこめられたエレベーターが1階にあるロビーについた。

 古めかしいエレベーターの扉が開いた瞬間、見覚えのある何かが目の前を通過した。

 隣では、加絵も同様に首をかしげている。

「ね、あの人、津島さんと同じ隊の人じゃないの?」

 加絵の言葉が私の沈み切った心を一気にひきあげる。

「ほら、ロビーにおるじゃん」

 ホテルのロビーには次々と305飛行隊のメンバーがバスから降りてきているではないか。

「加絵ちゃん、あのさ……今夜、どっかでレセプションあるとか話してなかったっけ?」

 佐竹の言葉を今頃思い出したのだ。ヒントをあっさりとくれていた佐竹に心の底から詫びたい気持ちになった。

 加絵と二人、顔を見合わせて、直後に二人とも言葉を失った。

「会場ってここ!?」

 奇しくも、チャンスに延長戦がセットされた瞬間だった。

 しかも、徹底的にプライベートなチャンスタイム。

「で……でもさ、どうやったら津島さんをつかまえられんの?」

 はたまた難題がふってわいた。

 そして、ホテルの1階にある中華料理店で作戦会議がとりおこなわれることとなった。


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