第6話 見てくれている人はいるってことよ

「おめでとうございます!」

 

 日本に住んでいる人間の中で、この言葉を口にする回数の多い人間を探したら、助産師は間違いなく上位にランクインするのではないかと思う。

 助産師が働く場所として一番多いのは産科なのだから当たり前といえばその通りなのだが、『おめでとうございます』が棒読みの場合だってある。

 『助産師の川村さん』という私がふいに『川村泰子』に戻る瞬間、大きな声で叫びたくなる。

 助産師は相手を選んだりはしないが、仏さまのような心理には至れないこともある。修業が足りないのだろうが事実だ。


『こんなに痛いんなら赤ちゃんなんていらない!もう赤ちゃん引きずり出してよ!』

『赤ちゃんいらないから、もう終わりにして!』

『だいたいあんたの子どもなんていらなかったのよ!』

『私がいらないって言ってんのよ!赤ちゃんをなんとかしてよ、もういらないんだから』


 今夜、分娩台で、私と先輩が耳にした言葉は私たちが最もききたくないものだ。

 陣痛の痛みは本能をむき出しにしてしまうほどの痛みというが、多くの女性は陣痛に文句を言うことはあっても、お腹の赤ちゃんに対してこれほどまでに暴言を吐くことはない。

 どんな妊婦であっても差別するなんてことは助産師のプライドにかけてないと断言はできるが、納得できないこともある。

 私たちも人間なのだ。

「せっかく出産までこぎつけたってのに何でバカなんだろう」

 助産師をしていると出産に至るまでがいかに難しいかがわかる。

 妊娠したら出産できるというのは大きな誤解だ。

 実に、妊娠を継続していけるのは奇跡の連続のようなもので、意外と知られていないのだが多くの妊娠経験者たちは陰で泣いていることも多いのだ。

 妊娠するために苦労した家族、妊娠継続していくために苦労した家族、危機的状況で出産に臨んだ家族、現実を直視できないような死産を経験する家族、難産をのりこえてくれた家族、多くの形があって、それを支えていく時にふと立ち止まることがある。

「ほんと、幸せってなんなんだろ」

 良きにつけ、悪しきにつけ、助産師は家族の本当の姿を見てしまうことが多い。

 この人の子どもを産みたいと思える相手に出逢う人はよほどの幸せ者だなとさえおもってしまう。

 結婚、妊娠、出産といえば女性なら夢見ることが多いものだろうに助産師をするとひどく現実的なとらえ方になる。

 うらやましいなと、ほほえましいなと思える場面とはうってかわって、愕然とする場面も少なくはないからだ。

 そんな場面に出くわすときに、助産師の自分とは違う自分が悲鳴をあげる。

 行き場のないどうしようもない汚い感情が積もり積もってしまった時は、こっそりと先輩に愚痴ることにしている。

「結婚ってなんやねん」

 どす黒いもやもやした気持ちが口から出ていく。

 結婚していない私は時々この闇によく飲まれそうになる。

 どんな人であっても結婚していればライフステージとしては私より上だろうし、と。

「あんな人でも結婚してるんですよね」

 一回り年上の先輩もまったくだという顔をしながら、深いため息を漏らす。

「でもさ、ちっともうらやましくないじゃない。 あの夫よ?」

「まぁ、そうなんですけど。 あの女性と結婚したいって思ったんですよね、夫がいるんだから。 赤ちゃんもきて。 こんなことあると、たまにすごく考えるんですよ。 あんな女性でも、私より女という生き物として格段に優れているってことだよなって」

 女性としての自分の価値が著しく暴落しているように思える瞬間がある。

 比べるべきことではないのだとわかっているのに、比べてしまう悲しさ。

「そりゃ、違うわ。 あんたは、あんたで良いのよ。 妊娠・出産がすべてではないし、結婚も赤ちゃんも来るべき時が来たら来るわよ。 頑張っていることは絶対に無駄にはならない。 あんたはちょっと真面目すぎる! でもよう言うた。 よしよし! ……ところで、私はあんたのあの言葉、好きだったわよ」

 家事育児をしっかりとこなしながら助産師をしている先輩の手は働き者の手をしている。そして、何より安心する。

 先輩はハンドクリームを一生懸命ぬりこみながら、こちらに目をやり、優しく笑ってくれる。そして、口角を釣り上げて、別の意味で笑いなおした。

 これより少し前にあった出来事のことを面白がっているのだろう。

「『ちょっと落ち着いてください。 今のあなたの言葉、赤ちゃんには全部きこえてますけど、よろしいですか? 赤ちゃんがすねてしまったら、もっともっと陣痛が続くかもしれませんよ? それでも良いですか? どうしますか?』あの時のあの妊婦ちゃんの顔、しばらく忘れられそうにないわ」

 ちょっと私の口真似をしながら、先輩は私が問題児妊婦にやや強めの口調で言ったセリフを再現する。ばっちり見ていたのかと思うと逃げてしまいたくなった。

「もうやだ。 きいてたんですか……」 

「ま、たまには必要。 ああいう叱咤激励。 愉快、愉快!」

 先輩は楽し気に腹を抱えて笑っている。

「『暴れたら、暴れただけエンドレスだよ! それでも良いならどうぞ』も意外とパンチ効いてましたけどね」

 今度は私が先輩の口真似をしてみせた。

 本当にお互い様だと思うやりとりだった。

 医療現場において助産師ほど人間臭いものはいないだろうなとほとほと思い至る日々だ。

「助産師、なめんなよ~」

「そうだ、そうだ」

 丑三つ時に、助産師二人、顔を見合わせながら笑う。

「助産師ってなんでこうなんですかね?」

「白衣の天使には程遠いからな。 笑ってしまうくらい肉体派」

「かわいくないね~」

「そうだね~」

「可愛いのはナースさんだね~」

「悲しいかな、仕方ないよね~」

 羊水の生臭さが髪に移っていても気にならない程度に慣れた今日この頃。

 お産が終わるまで身に着けていた汗びっしょりのスクラブを新しいものに取り換え、休憩室に置かれた古びたスプリングの悪いベンチに腰を下ろして悪態をつく。

 分娩が立て続くと定期の休憩時間なんかとれやしない。

 晩御飯用に買ったお弁当はもう時間がたちすぎて、下手に油が回ってしまい食べられそうになかった。

 こんな場合に備えてすばやく手早く片付くものを別途選ぶ癖もついた。栄養ドリンクを一気に流し込む。とにかく、エネルギーに変わればそれでいい。

 目の前にいる妊婦さんと赤ちゃんのため、家族のために必死に汗水を流すのが仕事。そんなことはわかっている。

 それでも、女性としての自分は何をしているんだろうかとどうしようもない想いにかられる瞬間があって、わけもなく涙がでそうになる。

「も~こんなに頑張ってるんだから逢いたいなぁ」

「チャンスはきっと来るぞ! 恋する乙女よ」

「何ですか、それ」

 先輩が差し出してくれたぷっちんプリンを受け取りながら、一つため息をもらして、口に放り込む。安価なコンビニプリンの味が高ぶった神経をおちつかせてくれる。

「たまには手を抜け。 どーんと遊びに行け」

「実は今頃なんですが、今月末、何か特別公開があるみたいで、彼が飛ぶみたいなんです」

「ありゃ、もう飛ばないって言ってなかった?」

「まさか、まさかですよ。 ラストラスト詐欺」

「でも、シフトでちまったやん」

「見事に、勤務どんぴしゃでいけないシフト」

「いじってやろうか?」

 先輩はにやりと微笑んだ。こういう時にベテランの存在は強い。

「いじるも何も、結構厳しいんですよ?」

 私はポケットから勤務表をとりだして、差し出した。

 先輩はそれを受け取り、口先を尖らせながら目を凝らした。

「いつだ、言ってみな」

 匠レベルの助産師の先輩には才能がある。

 シフトとにらめっこするだけで、変更のシミュレーションが成立しているのだ。

 約5分間の無言。その後に悦に入ったような得意げな笑み。

「川村、喜ぶがよい」

「なんか策はあるのですか?」

「この私が代わってやれるのだ!」

「本気ですか?」

 声が裏返ってしまった私を見て、先輩は親指を立てて見せた。

「実は地味に誰かに代わって欲しかったとこだし、明日、上に言ってあげるわ。 私の都合で川村さんと代わりますって!」

「私の都合ですよ!」

「あんたが逢いたい人のために行くとわかっていない人からしたら遊びのための勤務変更とおもわれるでしょうが!」

 言葉が出なかった。そして、不覚にもじわりと目頭が熱くなった。

「うまくいくもんだ。 これは、行って来いってことよ。 言ったでしょうが! 頑張っていることは絶対に無駄にはならない」

 言葉にならずに、私はうなずくことしかできなかった。

 看護師・助産師のシフトを組み替えるというのは実はパズルのようで、変更を願うときには下手をすれば数人のシフト変更を余儀なくされる場合があるのだ。

 その上、私は新人とコンビのシフトを組まれていることが多いために、代われる人員が誰でもよいというわけにはいかず、新人を管理できる限られたスタッフとの変更しか叶わないものだったため、諦めていた。

「奇跡すぎる」

 一度出たシフトの変更がこれほどまでにスムーズにできるなんてとぽかんとしていた。

 実に、この勤務変更が私の人生最大のビックチャンスを生むことになる。

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