第3話 女はつらいよ
現在、私は助産師をしている。
因果なことにあの母体保護法の関与する範囲にまた出くわしただけでなく、いやというほど女性と密接した毎日を送っている。
女性という性別のせいで一度は挫折を経験した覚えがあるというのに、女性しかできない助産師になるとは。実に事実は小説より奇なりだと笑いが出る。
結婚していないことが、出産していないことが出来損ないの扱いを受けがちな流れの中で、くしくも出産の場を職場にしている私の宿命を笑えば良い。
夢を見て生きているわけではない。
ひょっとしたら、むしろ現実的になりすぎているのかもしれない。
この程度の男のために妊娠をして、出産をして、育児をして生きていくことができるのだろうかって。
妊娠も出産も育児も、ただ楽しい、うれしいだけではない。
妊娠出産は或る意味で女の戦争だ。その戦争をなぜのりこえていけるのか。
私はその核心にあるものを直視してしまっている。
適齢期。
結婚、妊娠、出産、育児。
女の幸せだといわれる無言の圧力の中、私は生きている。
「面倒くさいことばかり……」
ザッツ女の職場は女子校以上の未知の世界だ。
誰が誰の味方で、誰が敵なのか判別不能のシュミレーションバトルが日常茶飯事。
『仲良し』の定義にもいささか不明な点あり。
お互いの邪魔にならなければ、仲良しの範囲内という実に合理的かつ曖昧ラインの中に仕事とプライベートが共存しているのだから、恐ろしい。
女は女でしかないのだけど、面倒かつある意味で有能な生き物だ。
男は同時にいくつものことを行えないときくが、女は実に多くのことを同時に行うことができる。
頭の中で、同時多発テロが起きていても平然と笑うことができる生き物なのだから、我ながらその種族に属しているだけで、たまにたくましくも、怖くもある。
一、 仕事は仕事だから笑えと言われたら笑うことができる。
一、 どれだけ腹が立とうとも、仕事であれば頭を下げることができる。
一、 やめてしまえ!と思っても、偽装の優しさで指導ができる。
一、 緊急事態で大混乱していても仕事後の予定を忘れてはいない。
一、 5分足らずの休憩でも、恋人・家族のことを考えると同時に残務をどうやってまくかをシミュレートしている。
一、 同僚とバカ騒ぎしていても、本当は恋人との関係でどん底のこともある。
私的あるあるをならべるだけで、自分がいかにとんでもない生き物か思い知る。
だからこそというべきか、プライベートの本当の部分を存分にさらせる相手は実はそれほどの数もいない。
知り合い、仲良し、友達、親友。
男性はこの区分をどうとらえるだろうか。
少なくとも、微妙なニュアンスをもった響きであるこの区分を女性は理解できるはずだ。
私の場合をあげてみると、親友という区分をのぞけば皆同じだ。
可もなく、不可もなく。
私をさほど傷つけはしないもの。それが、知り合い、仲良し、友達の区分。
あくまでも、これは私の区分であり、私は自分自身が一般論にはまっている人間ではないということを十二分に自覚している。
ゆえに、ひん曲がっていることに関してはあしからず。
「男に生まれたかった!」
純粋にやりたいことをしても、男性と女性においての年齢という圧迫感は違うだろう。反論はあろうけれども。あくまで一般論で私は語っている。
「男が無理なら、可愛げのある女子にうまれかわりたいわ!」
ベッドにねそべりながら、天井をみあげる。
肉体労働の疲れをベッドのスプリングは無言で受け止めてくれる。
「お姫様女子はある意味で地球上最強生物だ」
女を余すことなく発揮して生きる術を教えてほしい。
世間一般的に語るのならば、女性はか弱いもの。
だがしかしながら、実は女であることは別段弱いわけではない。
それでも、ある意味で感情的弱者となりやすい。
男がハード面を求める半面、女性はソフト面を守ろうとする。
きっと合理的ではないのだろうが、女性はより人間らしく、より根性論が炸裂する思考過程にあるのだろう。
男性が行動理念の中枢におく『生きていくための仕事』『生きていくための家』といった項目を最優先と口にするとき、女は当たり前のことをいちいち言ってどうするとなる。
女性は心のよりどころ、心のあるべき位置を優先する。
己の根幹、突き動かすべき動力源がないことにはすべてに意義を見いだせない。
簡潔にいうのならば、それさえあればどれだけ苦労しようとも問題にならないのだ。実に直観的、環境の変化にありえないくらいの適応能力を持っている。
アイデンティティを保つ基準がそもそも別次元で設定されている以上、仕方のない性差だと受け入れる度量が女には求められるのではないだろうか。
男は女から生まれる。だから、女は男を内包できる。
反論は多々あろうけれど、男にすべてを求めすぎるのは最初からステージ違いなのではないかと女は自覚して生きるべきなのだ。
だがしかし、それをわかってはいても、できていないのが実情なので切ないところではある。
『わかってよ!』
こういう感情的な部分をぶつけるしかない衝動を消し去れないのが女の悲しい性。
だから、愛されるのかもしれないのだけれど。
理屈ではないのが恋であり、理屈を超越した先にあるのが愛なのだろうと思う。
求めるのが恋であり、与えるのが愛。自己犠牲を自己欺瞞にかえるのではない。
一方通行だとわかっていたとしても、与えることで自分が幸せになれるもの。
それがいつかかえってくるかもしれないけれど、期待しないで待てるもの。
関係性はさまざまだろう。
そんな中で、相手の心が見えず、耳にする言葉も目にする文章も、相手の表情もその行動にも、いちいち混乱する。
疲れすぎて眠気なのか何なのかもうわからない。毛布を引き上げてみて、ベッドにくの字になってみる。
「なんでこんなに大好きなんだ……」
瞼を閉じても、簡単に思い出してしまう憎たらしい笑顔。
すでにわかっていることが一つある。
惚れた方が負けなのだろうということだ。
※
遡ること数十年前。
私が惚れぬいた男と出会ったのは偶然だった。
別段、彼を欲して彼を見つけたわけではない。
体調不良をおして、強引に曾祖父にくっついてでかけた小松基地航空祭。
そこにはどうしても見たかった303飛行隊があった。
エンブレムは龍。マニアさんたちからはFighting Dragonと言われて愛されている部隊がいる。
曾祖父は招待客のいる格納庫から呆れた顔でこちらをみている。
戦闘機好きの私が戦闘機に興味を示すのは今に始まったことではないので、そのあきれ顔には無視をした。
「空の女神に選ばれた人たちか……」
目の前にいる戦闘機パイロットは皆、いつ何が起こってもおかしくない命運を背負って生きている。
ひょうひょうとした顔で機体からおりてくるが、実はとんでもない負荷と緊張感の中で生きている。
私がなりたかったものになっている人間。
私がつかめなかった物を手にしている人間。
神様から選ばれた人たちだ。
その大好きなものに載ることを許されている人に対しての感情は恋ではなく、尊敬の情だ。
「この体じゃなければなぁ……」
心では負けるつもりは毛頭なかったという怖いもの知らずの私はこの体の奥底にくやしさを隠して、爆音をあげて飛び立っていくイーグルをみあげる。
腹の底に響くようなそれは、日本の空の誇りそのもの。
うらやましい。
載りたかった。
「やっぱりすごい」
灰色一色の駐機場で、鼻をかすめるエンジンオイルの匂い、雄たけびを上げて最終チェックに臨んでいるイーグル達。
ランウェイに2機ずつ並びたち、離陸の許可を待っている姿にドキドキする。
滑走して、一気に舞い上がっていく姿に目を細めてしまう。
これが日本を護っている鉄の翼。
一握りしかなれないイーグルドライバーが今目の前にいる。
こんなことを考えながら、見上げている人が何人いるのかはわからない。
「空が狭いな」
一年前に美保基地航空祭にゲストで来ていた303飛行隊のイーグル。
肝を冷やすほどのド派手なロックウィングを決めてくれ、会場を沸かせたイーグルがいた。ロックウィングというのはまるでバイバイするように機体を大きく傾かせてする技だ。バンクを大きく切るのが格好良いのだけれど、それを規定以上のレベルでやってみせた。それを見た時の感激は今も忘れていない。
それをやったパイロットが303飛行隊にいるはずだからと、私はどうしても小松に来たかったのだ。
ふと、背後から前方へものすごいスピードで一機のイーグルが翔けていく。
これより先にド派手に舞い上がっていった機体だ。
見ているだけでにやけてしまう。
あの時のパイロットはきっとこの機体を操っている人間だと確信できた。
イーグルがあがると本当に本当に空が狭く思える。
豪快に旋回し、こともなげに高度を下げたかと思いきやあっさりと着陸する。
「やっぱり、この人はすごい」
これまでもイーグルライダーのすごさはよくわかっていたけれど、何だろうか、この機体にのっているパイロットの飛び方は何か違って見える。うまく表現できないけれど、イーグルが自由な感じで飛んでるように見える。
あまりに派手なイーグルの着地に気を取られていたせいで、もう一機の着陸を見逃してしまった。
視線を前方に移すと、これまたさっさと駐機場に戻ってくる『すごいイーグルライダー』の機体。
後続機を待たないままにキャノピーが開き、エンジンカット。
何事も急いでやる主義のようなそのパイロットは早々に酸素マスクをはずし、ヘルメットを脱いだ。
予想外の顔だ。
イケメンというより、可愛らしいクマのぬいぐるみのような人。
怒ったら怖そうだけど、整備員に向けて笑っている時の八重歯がかわいい。
年上の男性にむかってなんて感想だと自分に突っ込んでいたら、3機のイーグルが前方から一気に背後に向かって頭上をかすめるようにして高度をあげて飛んでいく。
見上げすぎた私は生まれて初めてお笑い芸人よろしく真後ろに綺麗にぶったおれるという事態に直面した。
思った以上に、身体は弱っていたようで、まったく踏ん張りがきかなかった。
後頭部を思い切り打って、苦笑いするしかないのだろうと覚悟を決めたのに、私の体はコンクリートにたたきつけられることはなかった。
倒れこむ瞬間というのはスローモーション。これが走馬灯ってやつかと思った。
病をした私という人間は戦闘機から一番遠い人間だなんて自覚もした。
がっしりとつかまれた腕。
「あれ? こけてない?」
戻ってきていたらしいクマのようなあの例のパイロットがびっくりしたような顔でこちらをみている。
「おいおい、大丈夫?」
手にしていたヘルメットが足元でごろりと転がっている。
「すみません!」
緊張してなんだか声がうわずった。
足に力が入らず、その場で座り込んだ私に、クマのパイロットが手を差し出してくれた。
大丈夫ですと立ち上がろうとすると視界がゆがむ。
「顔色わるいぞ? 本当に大丈夫?」
とっさに差し出されていた手につかまるようにして立ち上がる。
近くで見ると意外に小柄なんだなとまじまじとみてしまう自分に驚いた。
濃い緑というか、カーキ色のフライトスーツを肘まで腕まくりして、日焼けした筋肉質の腕には黒色の腕時計が無造作につけられている。少し汗染みができているが、近くによっても全く汗のにおいが嫌に思えない不思議な感覚。
「ちょっと、医務室につれていってやって。 よろしく!」
そのクマさんはすぐそばにいた整備員に声をかけてくれた。
支えてもらっている腕が強烈にあたたかくて、どうにも胸が締め付けられた。
でも、お礼の一言すら許されなかった。
かなり急いでいる様子で、すぐにそのクマさんは隊舎へかけていってしまったのだ。あまりにもぞんざいにはなされた腕がひどく悲しく思えた。
なんだろう、この喪失感はと私はただその後ろ姿を見つめていた。
戦闘機乗りにしては、スマートさはなく、ちょっと恰幅の良い感じのクマさんだった。
だけど、確実に私の中の何かが目を覚ました。
「あの人はなんていう人ですか?」
次々と飛んでいくイーグルの爆音に、私の声はかき消された。
胸についていたパッチは間違いなく龍のマーク。
つい先刻、着陸したイーグルライダーで間違いない。
彼が降りてきた機体はまだ目の前にあった。
豪快に旋回していたかと思うと、ストンといとも簡単に着陸していた機体の操縦桿を握っていたクマさんだ。
「あの一等空尉の名前は?」
襟元にあった階級章は一本線に桜が三つだから、一等空尉なのはわかっていた。
整備の人はあまりに大きな声で私がきいたので、ちょっと驚いた顔をした。
「あ~、津島一尉ですよ」
「下の名前は?」
「なんだっけかな……」
頭を悩ます整備員の横で、私は必死に答えを待つ。
絶対に聞いておかねばならない名前だと心が叫んだのだ。
「思い出してよ! TACネームは?」
「なんだったけっか?」
私とそれほどに年齢の変わらない整備員の男性は首をかしげる。
よく見ると長身で、すっきりとした目鼻立ちの男前だ。
でも、目の前の男前より私にはクマさんの方が重要だ。
「思い出して! TACネームだけでもいいから!」
TACネームとは、パイロットの愛称のようなもので、空を飛んでいるときの彼らはその名前で呼ばれる。コードネームそのものだ。
必死に思い出そうと苦労してくれた整備員だったが、すぐに上官に呼びだされてしまった。
私の願いはむなしく、結局、津島一尉ということだけしかわからなかった。
この津島という男は私の人生を変えてしまうほどの何かを持っている男だと直感した。
汗びっしょりのはずなのに、良い匂いがしたあのひと。
男前かときかれたら好みの問題だと答えるしかないけれど。
だけど、ほんの数分、いや数秒の接点しかないその人を私はその後、数十年忘れられずにいることとなる。
当時、まだ生きていた曾祖父からは自力で頑張れと言われてしまったが、曾祖父が語ったあの恋物語が脳裏をよぎるほどの衝撃だった。
男に惚れるなど私の人生に起きようはずもないなどと内心思っていた私は大打撃。
触れられた腕がおかしい。まだ震えていた。
私が嫌になるほど毎年みてしまう夢の中の『中佐』の感覚と似ていた。
頭を何度も振ってみる。目を覚ませ、私と言ってみてもダメだった。
本当に夢見る乙女そのものの馬鹿さ加減。
地道な捜索の結果、その人の名前は津島潤史、階級は一等空尉だとわかった。
しかし、素人の私が追いかけられるのはそこまでだったのだ。
あっという間に、その彼は転属。
そして、ぞっとするくらいの年月がたち、嘘みたいな本当の事態に遭遇する。
人生において恋愛という要素は私には必要なかったのだなとあきらめた秋、そのWANTEDの彼が私の目の前に現れた。
土砂降りの航空祭の帰り道、ひょっこり反対側から歩いてくる何か。
笑い話だが、『何かが来る!』と感じて目を凝らしたのだ。
階級は数段ランクアップ。
二本線に桜二つ。
二等空佐。
左胸には『TSUSHIMA』。
「神様! 間違いないです!」
完全なる独り言だと笑えばよい。
探してやまなかった、その人だ。
10年だ。10年たっているのにわかる。
私も年を食っていたが、その人も年を取っているはずだった。
しかし、少し丸くなっているような、なんともいえない可愛らしさを身に着けているだけではなく、まだ若かった。
とっさに自分の視線が彼の薬指を目ざとく探しているのには驚いた。
「……ない」
そう、結婚指輪がない。薬指は空席のままだ。
「いや、待てよ。 つけていないってだけかも」
一気に額に汗が浮かび上がった。とても重要なポイントだった。
と、彼に声をかけようとした瞬間だった。
「津島さん!」
なにやら知り合いらしい下士官がかけよってきた。
そして、その下士官の一言で、私の脳裏は一気に桜が満開になった。
「いつになったら嫁もらうんすか!」
「うるせ~よ」
めんどくさそうに、でも、にっこりと笑って受け流している彼。
いくら惚れていても、誰かのものに手を出すのは私のポリシーではない。
つまり、結婚していない以上は可能性がゼロではないってことなのだから、チャンスはまだある。
非常に前向き、かつ、大胆な精神構造で私は少し離れたところから彼を見た。
それでも、この時はまだあわい恋心に尊敬の念がいりまじった程度の見ていることしかできないかわいらしい私だった。
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