女王の戴冠
リコーダーの音がホールの中で鳴り響く。
『
山梨県吹奏楽コンクール。
その本番で、
もっとも、今その手に指揮棒はない。
棒でなく手で振った方がいいと、この部分は判断したのだ。素朴でシンプルなリコーダーアンサンブル。その魅力を十分に引き出すには、直に手で振った方が良い。
四本のリコーダーがメロディを奏でる。その四声が、城山には山梨に来てから多く関わった、四人の女性たちのように思えた。
緑豊かな草原の中で、羊と共に生きるようなささやかな調べ。
だったらなおさら、棒越しではなく直接語り合うべきなのだ。
タンバリンのシャラシャラした音が、何事もなく笑い合った日々を思い出させる。
それに薄く微笑みながら、城山は指揮を振り進めていった。
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いつか部長が言っていたように、『モンタニャールの詩』は山で暮らす人々と歴史を描いたものである。
厳しい自然の中で生きる強い人々――それらを率いたのが、領主の、カトリーン・ドゥ・シャランという女性であるといわれる。
絵は残っているものの、かなり古いものなので使われた赤い色彩しか分からない。
だが、紀元前からある街にはこう伝えられている――『彼女は領民を慕い、そして慕われた』。
今まで城山の中でも確たる像を結ばなかった、カトリーン・ドゥ・シャランであるが、ここに来てようやく彼女は姿を現していた。
山梨に来てから、引っ込み思案ながらも周囲から慕われ、慕ってきた。
もっともそれは、一緒にぶどうを踏むようなまだまだ幼いものであったのだが。領主と呼ぶにはいささか遠い印象だけれども、それでも舞が山の民の一員になってくれたことには変わりなかった。
高山に生きる人々にしてみれば、ぶどうを踏む少女というのは馴染み深いものだろう。
ただそんな彼女も、表に立って吹かなければならないときがやってくる。
クラリネットだけでやらなければならないシーン。三年生でトップ奏者でもある舞は、率先して吹かねばならない。
自信がない音、と言われた彼女。
だけども、それよりもこちらの指揮を信じると言ってくれた彼女。
そんな舞は、いつかソロを吹いたときと同じ強い眼差しで、自らの音を吹いてのけた。
その風格は、もはや頼りないいち奏者のものではない。
コンサートミストレス――吹奏楽の一番クラリネット奏者は、指揮者に次ぐ集団の代表者といわれる。
その役割を見事に果たし、ほんのわずかの間の主旋律でありながら、彼女はこの演奏を率いる領主となった。
校舎の窓からよく見えていた、南アルプスの山を思い出す。
雪の冠を戴いていたあの山に、今は白い輝きはない。夏の盛りに行われる吹奏楽コンクールの時期には、いかに高山といえども雪は解けてなくなっている。
しかし舞の頭上には、光り輝く雪の冠が乗せられていた。
領主の証。自信の形。
それを抱いて、彼女は進む。
一緒にこの地に馴染んでいきましょうね、と言った姿。
こちらに靴を差し出してきた姿が、そこに重なる。
思えば、全部がここに至るまでの道程だったのだ。舞がひとりでも歩いて行けるまでの過程。それに指揮者たる城山も、
だとしたら、こちらも負けていられない。
指揮者として、音楽家として独り立ちするためにここまでやってきたのだ。お仕事が上手くいきますように――そう願いを込められて贈られた靴は、今でもこの足にある。
指揮台をしっかり踏みしめて。
築き上げてきた山の頂上で。
再び取り戻した棒を振るう。最後の部分となる、これまでの全てが統合された箇所。
この山梨に来てから、見たもの、聞いたもの全て。
もらったもの全て――照れずに受け止めて、返していこう。
吹き付ける冷たくて、澄んだ空気も。
凍えそうになったときに手を差し伸べられたことも。
なんの気負いもなく、ただ素朴に日々の営みを糧にしたことも。
山びこのように、返していこう――そう思って振った指揮は大振りで、まるで初めて指揮を振ったときのようで笑ってしまった。
でも、いいのだ。これが今の自分の全力である。
指揮者一年目にして、ひとつの学校の大切な本番を任されるという大役を仰せつかった。未熟な自分に、生徒たちはよくついて来てくれた。
『モンタニャールの詩』、最後は戦いのテーマ。
汗だくで本番を振り続けてきて、もうひと踏ん張りの歩み。
少し休んだら、また次の戦いが待っている。まだまだ課題は山積みだが、彼女たちに言ってもらった。
あなたがこの先も、自分の足で歩いていけますように。
その言葉があれば、きっと大丈夫。
どこまでもいける――高くそびえた山の上。
もう一度、
足跡を刻んで――山の詩は幕を閉じた。
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「いやあ、がんばりましたがんばりました。こりゃもう自信どころじゃないですね」
本番が終わって、片付けも終えて。
閉会式前の会場でそう言ったのは、
自信をつけて、金賞を取ろう――そう事前に言っていた部員たちだったが、終わってみればやりきった感でいっぱいだったのだ。
不思議なくらい落ち着いた気持ちで、城山も結果発表の時間を迎えていた。あちこち取りこぼしたところは確かにあるが、それを補って余りある演奏だった。
ただ、まあ身体の方はボロボロであるが。若いからといって無理をし過ぎると後々大変なことになる。
リミッターを外して振り過ぎた。城山が客席に沈み込んでいると、反応がないのが寂しかったのか、瑠美が舞に話を振る。
「ね。舞っぴも自信ついたっしょ。これで金賞もらえたら確かに御の字だよね」
「そうだねえ。千里ちゃんの言うとおり、これで形ある証をもらえたら最高だよね」
十代の子はまだまだ元気なのか、同い年の呼びかけに舞も平気そうに答えた。
たった六歳しか離れていないのに、理不尽である。これからはもうちょっと健康に気を遣おう――などと城山はじじくさいことを考える。
舞が口にした部長の
今頃は緞帳の向こうで、学校別に並べと言われている頃だろう。金賞、県代表、西関東大会出場――それを目標にしてきたわけだが、頭が回らないのでとにかくぼんやりすることしかできなかった。
生徒たちの方は、きゃあきゃあと楽しそうにはしゃいでいるけれど。
くそう、帰ったらビールを飲むんだ――と、年齢的に部員たちには分からないような楽しみを想像して、城山は大人げなくふてくされた。
けれども、まあいいのだ。
舞があんな風に、吹けるようになったのだから――と、友達となんでもないことのように、笑って話す彼女を見ていると。
ホールの緞帳があがって、各学校の部長たちが姿を見せた。
もちろん、千里も真っすぐに舞台に立っている。あの子はどこまでも、かっこいいよなあ――とその佇まいを見て、城山は素直に思う。
彼女は彼女で、こちらの手を借りなくてももう歩いていけるのだろう。
そういえば、金賞を取って山梨での仕事が増えたら、こっちに引っ越すことも考えてたんだっけか――と、あっちこっちに飛ぶ思考が、千里と以前話したことを記憶から弾き出した。
ちゃんと計画は立てていなかったが、そうだ、今から聞く結果も仕事に大いに影響してくるのだ。
そういう意味では、ちゃんと聞かなくては。ボロボロの身体を引きずるようにして、城山は姿勢を正し、舞台に注目する。
ここまで来たら結果云々ではない気もするが、そうもいかない事情が最後に待っているからだ。
山の詩の戦い。
指揮者同士の争い――決着をつけなければならない最終決戦に向けて、武器を持つ必要がある。
本来ならば、そんなことしなくてもいいのに。
だがプロとしてのどこか冷静な部分が、この結論が大事だと告げていた。その声に
舞台上にいる部長のように。
そう思って城山が、結果発表を聞き続けていれば。
『――山梨鳴沢女子高等学校、吹奏楽部』
ホールのアナウンスは。
『――ゴールド、金賞』
銀嶺を越えた、金色の解答を打ち出してきた。
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