モンタニャールの詩
意外なことに、大学の先輩からの妨害はなかった。
もっとも、会場に来ているかどうか定かでないものを、警戒してもしょうがないのだが。すんなり進んできたホールの舞台裏で、
肩透かしというか少々不気味な感はあるが、ここまで来たらそんなことを気にしている余裕はない。
自分たちの本番を、力の限りやるだけである。
初めての指揮者としての本番――指揮棒と楽譜を持って深呼吸していると、顧問の
「城山先生、緊張してます?」
「してます」
こればっかりは誤魔化しようがなく、城山は正直なところを答えた。
今からやるのは自分ひとりだけの本番ではない。生徒、保護者、そして顧問の勝沼――全てが関係している、大きな舞台なのである。
奏者としてソロで参加しているのとは、わけが違う。プレッシャーを感じないはずがない。
以前だったら、意地を張って緊張していない、と答えていたかもしれないが。そんなちっぽけな見栄など、もう張っている余裕もないのだ。
するとそんな城山の返答に、勝沼はくすりと笑って言う。
「大丈夫ですよ。城山さんならできますから」
「……勝沼先生」
「私が見込んだ方なので。クリスマスコンサートのときみたいに、がつんといっちゃってください!」
がつん、とパンチをしてくる勝沼の拳を受ける。
もちろん本気で殴ってきているわけではない。ぽすん、と軽い衝撃だけが身体に走って――その感触に自分以外の存在を感じて、改めてひとりではないことを思い知る。
自分以外の誰かと、作り上げてきたこの半年。
もらったたくさんの野菜。かけられた言葉。
そのひとつひとつを思い出すと、プレッシャーに感じていたはずの圧が、いつの間にか力に変わっていくのが分かった。
締まっていた喉が開いて、ちゃんと息ができるようになる。ゆっくりと酸素が身体を巡っていく――視界がクリアになったのを自覚し、城山は勝沼に言う。
「ありがとうございます。おかげで肩の力が抜けました」
「えっ、あれで緊張が解けるとか、城山さんてやっぱり天才なんじゃないですか?」
驚いたように言う顧問の先生に、「そんなわけがない」と城山は苦笑して返す。
自分は人間である。
些細なことで動揺し、この山梨の地で少しだけマシに歩けるようになった。
ただの、音楽家である――そうこうしているうちにアナウンスがあって、舞台に行くように促された。
あとはもう、思い切りやるだけだ。じっと見つめてくる勝沼にうなずいて、城山は笑顔で言った。
「じゃ――いってきます!」
ここに来るまでに、もらった多くの感情と記憶と共に。
『
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『――山梨県立、山梨鳴沢女子高等学校吹奏楽部』
学校名と曲名が告げられ、明るくなったステージで城山は礼をする。
指揮者として。多くの視線を受け止め。
それでも立っていられるのは、生徒たちがくれたこの靴があるからだ。頭を下げたときに目に入ってきた靴を少しの間見つめて、顔を上げる。
お仕事、たくさん見つかりますように。
そう言ってくれた生徒は、自作のウインドマシーンの隣にいた。チラリと眼差しを向けてくる
初めて彼女と出会ったときも、こんな風に目が合ったものだ。
あのときは、ほとばしる感情に任せて指揮棒を振ったものだが、今は違う。
怒りではなくそれ以外の感情で動いている――指揮台の上にあがって、部員たちを見渡して。
城山は、指揮棒を構えた。
ぴん、と張り詰めた空気が流れる。
『モンタニャールの詩』。
そのモデルになった、険しくも美しい山の風がごとき――背筋の伸びる雰囲気。圧倒される威容。
それを前に、城山はゆっくりと息を吸って、棒を振り始めた。
静かな風が吹き、舞う雪が光を受けてキラキラと輝く。
夜明け直前のような山の麓の景色。
忘れられない、南アルプスの白い雪の冠。最初に山梨に来た日、印象的だった山々の中でもひときわ、その白さは目を引いた。
夏になった今は、さすがに山頂に雪は積もっていないが――その代わりに。
気高き強さは、今ここにある。
いつどんなときも真っすぐだった、
誰の支配も受けず、己の足で歩いていく。
誇り高き奏者たちの声は、ここにある――山の民たちが。
自分の道を、教えてくれた。
一緒に歩いて、聞かせてくれた。
厳しくも険しい道を、足跡を残して進んでいく。
彼女たちの詩を。魂に根付いた『山の音』を。
最大限、その声を引き出せるように指揮棒を振りながら――城山は吐いた息が後ろに流れていくのを感じていた。
風が吹く。頂きに近づくに従って、より空気の流れは強くなり、冷たくもなっていく。
空が近くなって、光も増していく。いつの間にか夜は明けて、あたりは一面の銀世界。
孤独に歩いていたときに、部屋の隅で見た天使の梯子。
それに導かれて、より高い方へ高い方へと進んだ。傾斜がきつくて何度か息が切れそうになったけれど、その度に歯を食いしばって上を見つめた。
頂上には、何かがあると知っていたから。
白い息を流して、進んでいく。大きな景色の中で自分はちっぽけだけど、それでも歩かずにはいられないのだ。
傷だらけだった足は、与えられた靴が守ってくれた。
その感触だけを頼りに、歩き続ける。進め、進め、進め。
かじかむ手は棒を振る熱に。
前に出る足は大地を踏みしめて。
降り注ぐ光が強くなる。雪が反射してまぶしくて、目も開けていられなくなる。
そのとき、
あなたの行く道が。
輝かしいものでありますように――。
その言葉のとおりに。
爆発的に膨れ上がった光が、辺りを包む。
見上げるだけだった山頂が、いつしか間近にやってきていた。『山の音』――『モンタニャールの詩』の頂点が、その音になって現れる。
形のあるものではないけれど。
どんな気持ちも、行いも大自然の前では無力かもしれないけれど――その足跡は。
自分たちがやってきたことの成果だった。
登り切った。あの山を――南アルプス。あの急勾配のマッターホルンを。
棒を振りながら、城山は写真で何度も見た山々を振り返った。次いでクラリネットを吹く舞を見るが――彼女は嵐のような指回しに必死で、こちらのことなど見てもいない。
それでいい、と城山は思う。
自分のことなんていいから、舞は舞のことに集中してほしい。
『山の音』になれたことに。
彼女が山梨の日々を信じてくれたことに、嬉しさがこみあげてくる。
余裕もなく、ただ懸命に歩くしかないけれど。
今聞こえるこの歌は、彼女が誰かと一緒にいたことの、なによりの証なのだから。
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