いざ、コンクール

 コンクールの会場は、もちろん山梨県の中心地・甲府だった。

 いかに東京よりは涼しいといえど、盆地である甲府の夏は暑い。なので会場で城山匠しろやまたくみが本番の衣装に着替えてくると、それを見て部員の鰍沢瑠美かじかざわるみが言った。


「あ、城山先生。こないだあげた靴、履いてくれたんですね」

「うん。こんなときこそ履かないとだろう」


 先日、生徒たちからもらった革靴を、城山は本番のこの日に履いていた。

 仕事が上手くいきますように――そんな願いを込めて渡された靴を、今日履かないわけにはいかないだろう。

 逆に、今でなくていつ履くというのか。

 仕立ての良いちゃんとしたものだけあって、靴はちゃんと足にフィットしている。履き心地も良い。もらった日から少しずつ慣らしてきたからだ。

 城山がそう言うと、瑠美は笑ってうなずく。


「靴ってその日いきなり履くんじゃなくて、ちょっとずつ慣らしていった方がいいっていいますもんねえ。だから本番の直前でもなく、直後でもなく、少し前に渡そうって話になったんです」

「ありがとう、そこまで配慮してくれて。改めてお礼を言わないと――」

「ところで靴をもらったとき先生、泣いちゃったんですって? いやあ、見たかったなー」

「と思ったけど鰍沢さんには必要ないみたいですね! プラスマイナスゼロです!」


 感謝をしかけたところでからかってくる瑠美へと、照れ隠しに城山は叫ぶ。

 靴をもらったときにあまりに感極まって泣いてしまったわけだが、今思い返すとただただ照れ臭い。

 しかも、生徒にそれをダシにからかわれるなんて。「冗談じょーだん! じゃ、出演者証ももらったしボクは搬入に行きますねー!」と飛び出していく瑠美を、城山はやれやれと苦笑いして見送った。


 打楽器は搬入経路が異なるため、演奏者用のリボンをもらったらそこからは別行動になる。

 次に会うときは舞台の上なのだ――と城山が少しの緊張を帯びた息を吐くと、その隣で部長の甲斐千里かいちさとが言う。


「瑠美のアレはアレで、照れ隠しですからね。城山先生もあんまり真に受けなくていいと思いますよ」

「え、そうなの?」

「はい。きっと相当嬉しかったんでしょう。ダッシュで逃げたぐらいですもん」

「へえ……」


 おかしげに言ってくる千里に、城山は改めて瑠美の去っていった方を見た。

 今いる場所は、学校の楽器置き場だ。そのスペースの出入り口の人ごみに紛れて、瑠美はあっという間に見えなくなっていた。


 コンクールの県大会ということもあってか、会場にはそれなりの人が行き交っている。

 初めてのホールってやっぱりドキドキするなあと辺りを見回しつつ、城山は千里に言う。


「甲斐さんはこのホール、何度も来たことあるの?」

「そりゃあもちろん。中学から今まで、コンクールといえばいつもここでしたよ。でも、たまには違うホールで吹いてみたいですねえ」


 山梨県大会の定番であるこの会場は、千里もだいぶ馴染みであるらしい。

 たまには違うホールで吹いてみたい、というのは、県大会を越えて西関東大会で吹いてみたいということか。

 部長である彼女のことである、そういった意味も含んでいるだろう。ただ、このホールもいいところだと思うけどな――と、城山は建物の中に入る前に見た、会場の周りの景色を思い出していた。


 学校の窓から見えていた南アルプスは、このホールからも見ることができる。

 さすが標高の高い山々だ。かの山に見守られて、これから『モンタニャールの詩』を披露するのである。

 ぜひいい結果を持ち帰りたい。荷物の中にあるスコアと指揮棒を意識して、城山は軽く息をついた。


 練習もしてきた。手ごたえもある。

 自信がある――なら、あとはこの緊張を力に変えるだけだ。

 少しリラックスしてこよう。この靴で、少し歩いて――と、城山は千里に言う。


「じゃあ、僕は時間まで散歩がてら、会場を見て回って来るよ。ホールの中の反響とかもチェックしてくる」

「了解です。あ、じゃあ舞、先生を案内してあげて」

「えっ、わ、わたし⁉」


 急に話を振られて驚く茅ヶ岳舞かやがたけまいに、千里は「なに言ってんの。当たり前じゃん」とコンクールのプログラムなどを整理しながら言った。


「あたし、ちょっとまだ手が離せないからさ。舞なら大丈夫でしょ。よろしく頼むよー」

「で、でもわたし、そんなことができる身分じゃないというか……」

「僕より慣れてると思うなあ。茅ヶ岳さん、このホール来たの何回目?」

「さ、三回目です……」


 ごねる舞に、城山は試しに質問をしてみた。

 彼女は確か高校一年のコンクールの前に転校してきたというから、何度かここにも足を運んだことがあるはずだ。

 そう予想して訊いてみれば、案の定舞は正直なところを答えてくる。


「ほら、僕より絶対詳しいじゃないか。ホールの構造ってさ、微妙に場所によって異なるから迷いやすいんだよね。お願いできないかな」

「わ、分かりました……」

『よろしくねー』


 観念してうなずく舞に、城山と千里は声をそろえて言う。

 同じ楽器同士で息が合ったのがおかしかったのか、二人の様子を見て舞はぷっと噴き出した。

 それにつられて城山と千里も笑い出し、その場には和やかな空気が流れる。

 と――


「……え?」


 、城山は振り向いた。

 楽器置き場の入り口。

 今そこに、見知った影があったような――


「どうしたんですか? 先生」

「……いや。気のせいだと思う、たぶん」


 が、改めて見回してもそこには知っている人間はいなかった。

 本番が近くて神経質になっているのかもしれない。そもそもあの人が、わざわざ山梨まで足を運ぶわけがない――と思いつつも。


「……甲斐さん。ここを頼んだよ。部外者が来たら変にひとりで応対せずに、必ず勝沼かつぬま先生を呼ぶように。いいね?」


 念のため部長にはそう指示して、城山は舞と歩き出した。

 彼女たちのことは絶対に守る。心の中で改めてそう決意して――。


「茅ヶ岳さん、大ホールの入り口ってどっちだっけ。あと自動販売機ってどこかな?」

「あ、こっちです!」


 初めてのホールを部員と往く。

 ちゃんと案内をしてくれる舞に、なんだ、やっぱり大丈夫じゃないかと城山は笑った。

 考えてみれば彼女が以前の学校にいたのは、たった数ヶ月なのだ。

 高校生活のトータルで考えれば、山梨で暮らした時間の方がはるかに長い。

 その事実を、日々を信じると言ってくれた生徒の後について、城山は歩いていく。


「……僕はあなたには、絶対に負けない」


 たとえ本当に、あの先輩がここに来ていたとしても。

 自分たちが過ごしてきた日々を、否定などさせはしない――そんな強い気持ちで。

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