あなたの行く先に

「これは……」


 声を出して、城山匠しろやまたくみは手渡された箱の中を見た。

 立派な革靴。

 鈍く光る表面は綺麗で、パッと見ても良いものだと分かる。

 こんな高そうなものを、どうしたのか。城山が驚いていると、靴を渡してきた茅ヶ岳舞かやがたけまいが言う。


「前から、先生にあげようって話してたんです。合奏で間違ったら、貯金箱にお金を入れてたでしょう。それで」

「あの積み立て金、そういうことだったのか……」


 少し前から、合奏で音を間違ったと思ったら小ぶた貯金箱にお金を入れる、という取り組みが行われていた。

 あれは、この靴を買うためだったのだ。顧問の先生は部活に必要なものに使う、などと言っていたがあの態度を見るに、使い道は知っていたのだろう。

 初めて会った日に後でほうとうの店に行こう、などと言われたが、見事に一杯食わされた。内緒で、サプライズでと進められていた計画――驚きと戸惑いに城山が呆然としていると、舞が続けてくる。


「クリスマスコンサートのときに、先生の靴を見て。これは新しいのが必要じゃないかって、みんなで話し合ったんです」

「そういえば、そんなことも言ってたね……」


 山梨での初めての本番のとき、体育館でそんな話もした。

 確か、靴くらいはいいものを持っておかないととか、なんとか――ボロボロの靴を履き続けていた自分に、生徒たちは口々に言ってきたのだ。

 仕事のできる男は靴からだ、と。音楽家という、決して一般的ではない職業のためあまり意識はしてこなかったが、人に見られる仕事である以上、彼女たちの言うように身の回りのものは大切なのかもしれない。

 指揮者としても奏者としても、舞台にあがることは間違いないのだから――と、城山が思っていると。

 箱の中に小さなメッセージカードがあるのが目に入ってきた。


『お仕事、たくさん見つかりますように』


 鰍沢瑠美かじかざわるみ、と書いてある。

 初めて会ったときに変な先生だったら追い返してやろう、とまで考えていた生徒は。


「瑠美ちゃんは、こっそり先生の靴のサイズを見に行ってくれました。一回バレそうになっちゃって、すごく慌ててましたね」


 今ではこちらの行く末まで案じる、仲間思いの部員になっていた。

 舞の言うとおりだいぶ前、瑠美が職員玄関で靴を前に座り込んでいたことがある。

 何かイタズラを仕掛けているのかと思ったら、そうではなかった。むしろ彼女は、こんな先になって分かるような仕掛け好意の形を、あのとき仕込んで施していたのだ――そういえば、瑠美は練習の前に今日は何か楽しいことがあるかもしれないと、思わせぶりに言っていた。

 形、といえば他にも、箱の中にはメッセージが添えられている。


『がんばってきたことを、形として認めてもらえますように』


 あくまで成果としてこだわったことを書いているのは、部長の甲斐千里かいちさとだ。

 どうせだったら金賞を取りたい、と口に出して言えるようになった自分と同じ楽器の生徒は、今も熱心に音楽室で練習をしている。


「千里ちゃんは、わたしにこの靴を託してくれたんです。舞が言い出したことなんだから、舞が渡せばいいって」


 部長としても奏者としても、うらやましいほどしっかりした子。

 立場と心のズレを一致させて音を出す千里に、あんな風になりたい、と城山も思ったのだ。

 彼女は音に嘘を混ぜたくない、と言った。


 そして舞も。

 もちろんメッセージカードを入れていた。箱の隅にひっそりと隠れるように。けれどはっきりと、城山には書いてある文字が読み取れる。


『先生のこれからの道が、輝かしいものでありますように』――。


 靴を贈られた、ということもあって。

 この先の道行きが、未来が、祝福されたようでもあった。

 必死でやってきてボロボロの存在に、与えられた新しい靴。

 天使の梯子。風の吹くひだまり。穏やかな日常。

 それらの光景が、頭の中に一気に流れ込んでくるようで。厳しい山の一番上に、約束された未来が置いてあるような気がした。


 今まで歩いてきた道と、これから行く道。

 それら全てを肯定されて、嬉しさに視界が涙でにじむ。ずっとずっと、間違いなんじゃないかと思いながらやってきたこと。彼女たちを利用しているんじゃないかと怯えながら、指揮を振っていたこと。

 全部が洗い流されて、ちっぽけな淀みとなって消えていった。

 なんてくだらないことを考えていたのか、と笑い出したくなるくらいに。


「クリスマスコンサートのときに、いろんな人からプレゼントをもらう先生を見て、思ったんです。わたしも先生に何か送りたいなあって。怖がりで誰にもできなかった相談を、本気で受けてくれた先生に、恩返しがしたいなあって――」


 足元にうず高く積まれた野菜を見て、あのとき彼女は言ったのだ。

「その分だけ先生が、ここに受け入れてもらえたようで嬉しい」と――誰かに気にかけられているということを、どう受け止めて、気持ちを返していくかではないかと話した舞は。

『この先の未来』を形にすることを、選んだ。


 あなたがこの先も、自分の足で歩いていけますように。


 たったそれだけの願いを込めて、彼女はこの靴を差し出してきた。裏の事情は知らず、指揮者同士の争いに翻弄されるだけだった彼女は、しかし城山の姿を見て何かを悟ったのだろう。

 そして、決意したのだ。

 この人の力になりたいと。

 それが、何よりの恩返しなのだと――。


「わたしができるのは、せめてそのくらいですから。『山の音の完成』なんていう、大それた役目をもらったときも、すごく怖くて――でも」


 たくさん、誰かとお話して。

 たくさん、誰かと一緒にいて思いました。


「わたしは、『自信のない音』って言われたことよりも、先生たちと過ごした日々を信じたい」


 その決意表明のために。

 この靴を今日、渡すことにしました――と、本番間近になって言ってくる舞は。

 本当に、いい生徒だと、城山は思った。


「こうやって口に出して言うのがいいって、瑠美ちゃんにも千里ちゃんにも言われました。だから――って、先生。先生? なんで泣いてるんですか?」

「いや……僕は、すごく果報者だと思って……」


 大丈夫、とも平気だ、とも言えず。

 城山は、驚いた顔で言ってくる舞に、やっとのことでそれだけを返した。

 自分が踏み出せなかった一歩を、先に踏み出した生徒を抱きしめてやりたい。

 でもそれはできないので、涙に塗れる靴と指先でもって、彼女たちの思いに応えたいと思う。

 指揮を振ることで。金賞を取って。

 ちゃんと自分の足で立って――もらったこの気持ちを返していきたい。


 山梨に来てからの日々。そこのいる人たちと話したこと。

 舞はそれを信じると言った。ならばこちらもそれを信じて、今度こそ迷いなく振るのだ。

 この靴と共に。


「ありがとう……おかげで僕も、がんばれそうだ」


 あと一歩を、足りなかった何かを、埋めるものができた。

 本番の指揮も演奏も、これならできる。『モンタニャールうた』――その険しい山頂に、挑むことができる。

 この地に共に馴染んでいこう、と言い合った者同士で。


「一緒にがんばろう」


 両手にかかった、靴の重みをしっかりと意識する。


 山梨県吹奏楽コンクール。

 その本番の日が、近づいてきていた。

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