山に挑む

 もらう野菜が、トマトやきゅうりなどの夏野菜になった頃。

 城山匠しろやまたくみは、携帯に表示された情報を見ていた。


「埼玉県吹奏楽コンクール……」


 先日行われた、吹奏楽コンクール埼玉県大会。

 そこで大学の先輩の指揮する学校は、金賞を取った。ただ、県代表にはならず――いわゆる『ダメ金』という、県代表でない上位入賞で終わった。


 ということは、こちらはそれを上回る、山梨県代表を取ればいいということである。

 カレンダーに丸をした大会の日を思い、城山は顔を上げた。我知らずため息が漏れる。緊張のせいか、呼吸が少し浅くなっているようだった。


 あの有り様でよく金賞までいったものだ、と城山は先輩の学校の生徒たちをむしろ尊敬した。怒鳴られ震えながらも、あの子たちはがんばったのだ。

 ただ、そうでない教え方であればもっとやれたのでは、とも思う。

 やはりあの先輩のやり方には、指導方法には賛同できない。だったらまるで逆の方向でやってきた、自分たちの演奏で成果を出せばいい。


 十分にこちらも、そして部員たちもがんばってきた。

 なら、自分たちにだってできるはずだ――と、城山は、『モンタニャールの詩』のモデルになったマッターホルンの写真を見た。


 ただ、切り立った崖のような山頂を持つその山は。

 あまりに挑むのには無謀なように、どうしても思えてしまうのだ。



 ###



「先生そろそろ、山梨こっちに住んだ方がいいんじゃないですか? 仕事的に」


 大会も近くなってきて城山が音楽室に行けば、甲斐千里かいちさとは呆れたようにそう言ってきた。

 彼女がそんな顔をしているのは、間違いなくこちらが両手のビニール袋いっぱいに野菜をぶら下げているからだろう。

 違うところで本番をやって、顧問の先生に迎えに来てもらって――ここ最近そんな日々を送っていた城山は、教室にどさりと野菜を置く。


「確かに、この頃は東京でより山梨でもらう仕事の方が多くなってるからね。場合によっては、考えなくもないかな」

「でしょ、でしょ? そしたらあたし、先生のところにレッスンに通いますよ」

「ただ、僕は車を持ってないからなあ……」


 田舎暮らしの必需品である。東京ならばなくても過ごせる自家用車であるが、こと地方に住むとなれば持っていないと困る品なのだ。

 都心の方がむしろ、歩けば駅に着くほど整備されているので過ごしやすいといえる。まあ、おかげで靴はボロボロであるが――。

 山梨は山梨で、夏は涼しくとても快適なのも事実だった。そう言うと千里は気を遣われたと思ったのか、「ふーん」と唇を尖らせて目を逸らす。


「あたしはここで育ったんでよく分かりませんけどー。先生が東京の方がいいっていうんなら、別にとめはしませんよ」

「だから、考えなくもないって言ったでしょう。空気は美味しいし野菜も美味しいし、条件がそろえば真面目に検討します」


 そう言って、城山は窓の外に見える南アルプスに目を向ける。この山の傍で暮らせたら、なんと幸せだろう。

 そのためには、今度の大会で結果を出さなければならない。成果に伴ってこちらで仕事が増えたら、もちろん拠点をこちらに移すことも視野に入れている。

 野菜が大量に詰まった袋を、電車内で抱えることもなくなる。未だにちょっと恥ずかしいのだ、アレは――ともらったトウモロコシの方を見れば、いつの間にかやってきていた鰍沢瑠美かじかざわるみが、ヒゲの部分をちょんちょんとつついていた。


「前から思ってたんですけど、意外と生活感ありますよね、城山先生って。このトウモロコシ、どうやって食べる気だったんですか?」

「ラップに包んでレンジでチンします。ゆでるよりも簡単で、栄養価も落ちませんよ」

「ほら……」


 若干引いたような反応をされたのは何故だろう。

 音楽と一緒で、自分は何かを作ることが好きなのである。その点に関しては、瑠美も理解できるはずだ。

 なにしろ楽器を自作したくらいなのだから。そう説明すると、彼女も一応は納得したようで、いつもの口調に戻って言ってくる。


「そうっすか。ま、なんにせよ楽しみにしててください先生。今日はちょっと、楽しいことが起こるかもしれませんよ?」

「お、新手の何か仕掛けてくるってことかい?」

「それはまだ秘密ってことで。じゃ、今日の練習もよろしくお願いしまーす」


 それだけ言って、瑠美はぴょんと跳ねて去っていった。

 彼女がああ言ったということは、今日の合奏は期待できそうだ。


「さて、今回もがんばりますか……っと」


 この頃の生徒たちは、なかなかに指導のし応えがあるようになってきている。

 もうひと踏ん張りだ。曲の完成まで――あと少し、足りないものを探しに行く。



 ###



モンタニャールの詩』は、その名のとおり『山の民たちの曲』だ。

 だから彼女たちに、とてもぴったり合うはずなのだ――そう城山が予測したとおり、山梨鳴沢女子高の演奏は見事なまでにはまっていた。


 瑠美の作ったウインドマシーンから吹き付ける風。

 寒々とした山から降りてくる空気は冷たく、城山が初めてこの地にやってきたときのようだった。

 雪の冠を戴く南アルプスに、風が吹いて白い粒が舞い、キラキラときらめく。

 厳しくも美しい自然が、迫ってくる――分厚いハーモニーはそのまま踏みしめる大地の感触になり。

 吐く息は白い煙となって、後方に流れていった。


 進むのだ、上り坂を。

 少し苦しくても、山頂に向かって――目指すと決めたのだから。


 その途中で、色々な声が聞こえる。人とは違う道だから。簡単なことではないから。無理をしなくてもいいから――心の中にあった逃げるための言い訳が、不安と共に足を掴んでくる。

 重くなる歩みを、城山は指揮棒を振って切り裂いていった。もはや音を止めることなどできない。自分ひとりの一存で、合奏を中断などできない。


 なぜなら、そこにがんばっている生徒がいるから。

 茅ヶ岳舞かやがたけまいの音は、よく響きながらも時々、ぬかるみに足を取られるように揺らぐことがあった。彼女の中で、二つが戦っている――「自信のない音」と言われたことと、この山梨で暮らした日々が。

 だったら、こっちも先生として気張らないわけにはいかない。

 前に立つ者として――舞と一緒に往く者として。


 ぎり、と頂上を見据える様は、ひょっとしたら怖いものであったかもしれない。

 けれど、彼女たちを引っ張っていくためにはこのくらいの熱量が必要だった。そして、抑えきれないくらいの音楽への情熱と狂気があることを、あの先輩は見抜いていた。

 少し方向を間違えれば、自分もあの人と同じようになってしまうことも知っている。

 だけど、今度こそ見誤らないと誓った。こちらのやっていることは、あの人とは違うと――この場所で生きる人たちのことを大事にしようと、険しい道のりの中でそれでも思った。


 崖のような断崖絶壁が迫る。


 どうやって登ればいいのか想像もつかない、ただ一面の白い壁。落ちれば死ぬ。ただそれだけの、自分の選んだ道。

 マッターホルンの切り立った山肌。道具無しでは絶対に登れない。

 登頂不可能と言われた山に挑む。手をかけ、次の足場を探す。それはもはや登山ではなく、ロッククライミングの域に等しい所業だった。

 ただ、登った先の景色だけは誰も見たことのない、素晴らしいものだという確信はあった。


 冷たい雪まみれの手足を動かし、壁を登る――と。

 足をかけた部分が、ふいに崩れた。

『山の音』でできた演奏が、少しだけ歪む。しかしそれでも、城山が足を滑らせるには十分だった。

 そうか、まだ足りないか――と、落下する感覚の中で思う。やはり徒手空拳で挑むには、この山は険しすぎる。

 ロープかピッケルか、またはアイゼンか――少なくともそれに相当する『何か』がないとこれ以上は行けないだろう。

 一緒に落ちて雪まみれになった舞に笑いかける。彼女も彼女で、不安定ながらもよくやっていた。

 あとは、お互いに足りないものを探すだけ――と、城山ははるか先にある山頂を見上げた。


 野菜も笑顔も、たくさんもらった。

 ならあと一歩、もう一歩を踏み出すために。

 自分が彼女たちに気持ちを返すために。必要なものは、なんだろう――そんなことを、考えながら。



 ###



「城山先生、ちょっといいですか?」


 合奏が終わった後、城山に舞が声をかけてきた。

 曲自体はだいぶ仕上がってきているが、あと少し、完成には足りていない。

 そのための技術的な課題を、いくつか出したところだ。追加で何か質問だろうか。

 そう思って城山が「なんだい?」と声をかければ、舞は恥ずかしそうに顔を伏せ、言ってくる。


「渡したいものが、ありまして。その、前から考えてたものなんですけど」

「僕に?」


 驚いて目を見開けば、生徒は小さくうなずいてくる。

 渡したいもの――しかも以前から、とは。

 一体なんだろうか。城山がきょとんとしていると、舞は百科事典をひと回り大きくしたくらいのサイズの、ラッピングされた箱を取り出してきた。


「本当はコンクールが終わった後、お世話になりましたって意味で渡そうと思ってたんですけど。その前に渡した方が、わたしもやりきった演奏ができるかなって」


 先生に、みんなに、託されたものを本番でお返しできるかなって――と言われて渡された箱を、城山はまじまじと見る。

 まるでクリスマスプレゼントのようなそれは、大人になってからは久しぶりにもらうものだった。


「開けても?」と訊くと、舞は即座にうなずく。リボンがかけられ、包装された箱を、城山はゆっくりと解いていった。

 持ってみた感じ、それほど重くない。

 というか、どこかでこの重量には覚えがある。

 これは――と城山が箱を開ければ、そこには。


「……靴」


 綺麗にそろえられた、一足の靴が収まっていた。

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