まだ見ぬ星の川

「最近、気合い入ってますね城山しろやまさん」


 ハンドルを握りつつ、吹奏楽部顧問の勝沼綾子かつぬまあやこ城山匠しろやまたくみに言った。


「指導にも熱が入っているようで。ありがたい限りです」

「コンクールも近くなってきましたしね。僕もそうですけど、生徒さんたちも気合いが入ってますよ」


 勝沼の言葉に、城山もうなずく。

 夏の吹奏楽コンクールに向けて、本格的に練習が始まった。

モンタニャールうた』を、今日も合奏してきたばかりだ。汗だくになりながら指揮をして――車のシートに身を預ける城山を見て、勝沼は微笑ましく思ったらしい。

 初めてこの山梨にやってきたときと、ほとんど変わらない。

 けれども、熱量の方向性だけは決まった。目標ができると、人の歩みは早くなる。

 頂を目指し、上り詰める日々――城山が車の外に見える南アルプスをぼんやりと見ていると、勝沼が言う。


「あの子たちも、今年こそはーって言ってましたからねえ。城山さんが来たこともあって、よりやる気になったのかと」

「それはまあ、いいんですけどね。ただ、間違えたら罰金というのはどうかと……」


 数週間ぶりに学校に行ったら、いつの間にか罰金システムが作られていた。

 といっても、間違えたと思ったら百円、という可愛いものなのだが。自己申告制な上に金額も金額なので容認したものの、ミスに罰、という考え方が城山としては悩みどころである。

 子ぶた型の貯金箱の中に、ちゃりん、ちゃりんと小銭が入れられていく様を思い出してうなっていると、勝沼が笑う。


「あれは、私も許可したものなので気にしないでください。貯まったお金は、部活のために使うと生徒たちと約束しましたから」

「そうですか? なら、いいですけど」


 顧問の先生も容認しているのなら、別にいいだろう。

 使い道も決まっているのなら、そこまで目くじらを立てることもない。ひと息ついて城山が改めてシートにもたれると、勝沼はハンドルをきった。


「金賞を取らせてあげたいですねえ。せっかく城山さんみたいな外部の方をお呼びしてるわけですし」

「……そのことなんですけど、勝沼先生」


 外部の方、という言葉に城山は、ある人物を思い出していた。

 城山の大学の先輩。同じ楽器の奏者。

 そして、同じ外部講師――先日見てきた、他校の練習の様子を思い出して密かに拳を握りつつ、城山は言う。


「……谷田貝やたがいせんぱ……いえ、谷田貝さんと連絡って取ってます? いや、取ってないのなら別にいいんですけど」


 城山にこの山梨鳴沢女子高を紹介した人物は、勝沼の連絡先を知っているはずだった。

 事の始まりは、勝沼が吹奏楽の専門講師を探して、谷田貝に行き当たったことなのだから。二人は確実につながっている。

 何か話が違えば、あの先輩がこの学校の指導に来ていたのだ。そうならなくてよかった――と城山が思っていると。

 勝沼は答える。


「いえ、そういえば最近は連絡取ってないですね」

「それならそれで。むしろ、今後は連絡を取らないでほしいんです」

「あ、もしかして城山さん、谷田貝さんにお仕事取られちゃうって思ってます?」


 そんなわけないじゃないですかー、と呑気に言ってくる勝沼は、本気で今は谷田貝とは没交渉なのだろう。

 あの人の本性を知っていたら、ここまで能天気な態度を取れるはずがない。そして、知らなくてもいいのだ、こんなことは――と沈黙を貫くことにして、城山は顔を伏せた。


 もし全てが上手くいって、あの外部講師を糾弾するときは勝沼の耳に入らないようにしよう、と思う。

 少しでも関わった人が陰で恐ろしい行いをしていた、と聞くのは気持ちのいいものではない。まあ、そこにたどり着くまでにまだまだやることはあるのだが。


「……課題はいっぱいあるなあ」


 大体、指導の現場については目にしているものの、最後の部分は憶測で証拠がないのだ。

 追求しても以前のように、のらりくらりとかわされるだけだろう。谷田貝の周囲の状況を見るに、下手に訴えてもかえって周りの生徒はかばいにいくだろうし――何か確たる証がないと、お互いの立場上握りつぶされるだけだ。


 なら、あの人を上回る成果を突きつけて、そのやり方は間違いなんだと言いに行くしかない。

 彼を止める方法があるとしたらそのくらいだ。

 良くも悪くも実力の世界。結果がものをいうのなら、その結果で相手を黙らせればいいのである。


 幸いにというか因果なことにというか、谷田貝が切り捨てた生徒が、こちらの学校にいる。

 その生徒が今回の演奏の鍵だ。取るに足らないと思った存在が、結果を出す。それほど、谷田貝の方針を否定する証はあるまい。

 自分の行いに報いを受けろ。心の中で城山が対抗心を燃やしていると、勝沼が言う。


「なんだか、ライバルって感じでいいですね。先輩と後輩っていう枠を超えて、外部講師同士としてお互いに独立してやっていってる感じがします」

「ライバル?」


 自分ではそう思ってなかったので、城山はその単語に目をぱちくりさせた。

 ライバル。外部講師としての。

 ああ、そういえばそうなるのか、と現状を振り返って城山は理解した。無我夢中でやっていたため気づかなかったが、確かに自分と谷田貝は今や独立した同業者同士だ。

 隙を見せれば仕事は奪われるし、お互いの学校の成果で競い合っている仲といえる。


「……そうですか。そう見えますか」


 しかし、他人からしてもそう見えるとは考えてもいなかった。

 どちらかというとプロ奏者を目指してやってきた側なので、講師として今自分がどのくらいの位置にいるのか、いまいち分からない。尺度を測る物差しがないからだ。

 ただ、誰かにそう言われることが嬉しいのは事実で――いつの間にかそんなところにまで来ていたんだなと、城山は静かに笑った。

 評価されたい分野とは少し違ったけれど、それでも音楽という外枠は外れていないので良しとしよう。


 ただ、それで満足してはいけないのも事実ではある。

 同業者ライバルとして認められるようになったということは、もうあの先輩に仕事を融通してもらうことはできなくなったということだ。

 あなたの行いは絶対に許さない、と思いつつも、それでもどこか、逃げ道を切り捨てるのは怖いというか――人としてはどうかと思うけれども、仕事上の付き合いを完全に切ってしまうのはどうか、と考えてしまう自分もいるのだ。


 けれど、こうなった以上はお互い独自にやっていかなくてはならない。

 音楽以外のやり取りや、お金の管理。練習場所の手配なども、全部自分でやらなくてはならない。

 なんと面倒くさいことなんだろう、とそれらを指折り数えて城山はうんざりした。こんなことを、あの先輩は涼しい顔でやっていたのか。それは周りから頼られるわけだ。


 逆にそういった小さなことを疎かにしていたから、今になってツケが回ってきているとも言える。億劫な『生きること』の地道な一歩。それを踏み出さないといけない。

 そうしなければ、また元のうらぶれた暮らしに逆戻りだ。それだけは嫌だった。


「……がんばりたいと思ったんです」


 決意だけはせめて明らかにしておこうと、城山は勝沼にぽつりと言った。

 自分はまだまだ外部講師としては駆け出しだが、それでも言わないわけにはいかなかった。


 ひとりでやっていくことに対して、恐怖がないわけではない。

 むしろ、とても怖い。

 だけど、ようやく人から一人前になったと言われるようになったのなら。

 ちゃんと自分の足で。

 歩いていきたい――そう思った城山は、勝沼に言う。


「……これまでの僕はですね。覚悟が決まってなかったと思うんですよ」


 自分の道の選択を、他人に委ねてきた。

 音楽で。演奏で。生きていくということを考えず、意図的に避けてきた節すらある。

 けれども、今は違う。


「……この間、衝撃的な光景を見ました。具体的にどう、とは言えませんが……だからその反動で気合いが入った、のかもしれません」


 覚悟を、決めたのだ。

 あまりにも受け入れられないものを見て、ああはなるまいとがむしゃらに動くようになった。

 結果的にそれで、外から見て気合いに満ちていると言われるようになった。

 たとえその足取りが、頼りないと言われても。

 もしその行為が、逃避かもしれなくても。


「僕はここに居続けたいと思った。そのために、できることをなんでもやろう思いました。今までより、さらに――だから、勝沼先生」

「なんです?」

「もっと仕事紹介してください」


 単刀直入に言うと、勝沼はぷっと笑った。

 人が真剣に話しているというのに、なぜ笑うのか。

 こうして口に出すのも、結構勇気がいったというのに。城山が怪訝な顔をしていると、勝沼は「失礼。でも、ギャップが、ギャップが……」とおかしそうに笑って言う。


「あまりにシリアスな雰囲気で言うので、プロポーズでもされるのかと思いました。でも、そうですね。城山さんはもっと即物的でした。よかった」

「はあ。どこをどうしたら、僕がプロポーズする流れになるのですか……?」

「密室で真面目な空気を出されれば、女の人だったらみんな警戒しますよ。特に、城山さんほどの人ともなれば」

「はあ……?」


 よく分からないことを言われて、頭の中に疑問符が飛び交う。

 やはり自分はまだ、人間的には成長しきっていないらしい。心の機微が分からない――特に女性の考えていることなど、まるで読めない。

 こんなので、女子高の指導とかやっていけるのだろうか。城山が若干不安に思っていると、勝沼はどんと胸を叩いて言ってくる。


「ええ、はい。任せてください。城山さんのその気合いに応えて、私もがんばってお仕事探してきちゃいますから」

「ありがとうございます。勝沼先生」

「いえいえ。城山さんがここでがんばると決めてくれたなら、私も力を尽くしませんと」


 来年も再来年も、その先もずっと。

 末永くよろしくお願いします――と、それこそプロポーズのようなことを言って、勝沼は笑う。

 なるほど、改めて言われると照れるものだな、と城山は顧問の先生の顔を見て思った。自分が意思を表明するのは慣れているが、されるのは慣れていない。

 しかも直球で投げられると。なんと返していいか分からずむにゃむにゃと口を動かしていると、勝沼は続ける。


「ああ、そうだ。城山先生、この前地元の人に合宿所を紹介してもらったんです。今年はもう無理ですが、来年あたり行きませんか?」

「合宿所、ですか?」

「ええ。ここから少し離れていますが、山の上にある宿泊施設です」


 音出しもできて、夜は中庭でバーベキューなんかもできちゃう、吹奏楽部にうってつけのところらしいですよ――と、勝沼は弾んだ口調で言う。

 想像するだけで楽しそうだ。もう三年生である千里ちさと瑠美るみまいとは一緒に行けないが、それでも彼女たちと火を囲む様を思い描いてみる。

「いいですね」と城山がうなずくと、顧問の先生は「でしょう?」と言った。


「山の上にあるので、空気も綺麗ですよ。きっと天の川とかも見えちゃいますね」

「天の川、ですか。ちゃんと見たことがないので、見てみたいです」

「ですよね。そのためにも、今年がんばりましょう」


 ちゃんと山の上に登って。

 頂上からの景色を、知ってから見に行きましょう――そう言って、勝沼はアクセルを踏み込み込んだ。


 日々にある小さな営みはいつか星になって、天に上がっていく。

 金賞を取ったら、空にある川が綺麗に見えるのだろうか。そう思いながら、城山はまだ見ぬ合宿所の景色を想像した。

 山頂から見上げる、輝く星の川を。


 自分の行く道は厳しいけれど。

 この先に待っているものがあるなら、もう少しだけがんばれそうな気がする。

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