天使の梯子
「
「なんだか、元気がないように見えますけど……。わたし何か、変な音出してましたか?」
「いいや。そうじゃないんだよ」
不安そうに言ってくる舞に、城山は心配かけまいとすぐに首を振った。
城山の浮かない顔の原因は、舞にあるのではない。
彼女のかつていた学校、転校する前の学校に関連するものだ。先日、大学の先輩に誘われて見学に行ったその学校では、
外部講師による部活の支配。
ひとことで言ってしまえば、そういうことになる。
高圧的な言動と圧倒的な知識量による、人間関係の掌握。心をコントロールする、半ば洗脳に近い教え方。
さらには、部員との個人的な交友関係――決して、人には言えないような類の。
大学の先輩とその部員の様子を思い出し、城山は思わず口元に手をやった。そういった雰囲気を醸し出す女子生徒の風体は、少しだけ舞に似ていたのだ。
彼女が転校せずにあのまま部活に居続けていたらと思うと、血の気が引く。
もしかしたらあの場にいたのは、舞だったかもしれない。
きみが前に通っていた学校に行ってきた、と言いかけて城山は口をつぐんだ。余計なことを言うべきではないし、下手なことを言ってこれ以上この生徒の傷を広げたくはない。
代わりに、城山は舞にそれとなく気になったことを訊いてみる。
「……茅ヶ岳さんが前にいた学校って、どんな感じだった?」
「前にいた学校、ですか? ええと、少し……厳しいところでしたけど、なんとかやっていました。教えられることがたくさんあって、でも多すぎて吸収しきれなくて。一年生のコンクールの前に転校することになってしまったので、それきり……ですね」
「……そうか。そこまで深くは入り込んでなかったんだね」
「でも、どうして今さらそんなことを?」
先輩と舞にはほとんど、直接の関係はなかった――確認して、城山はこっそりと安堵の息をついた。
あの先輩自身が言っていたとおり、いなくなった人間のことなど、彼はどうでもいいのだろう。傷を与えるだけ与えて、放り出した。あの学校の有り様を見るに、それはそれでよかったのだ。
あとにはただ、音に自信をなくした女の子だけが残った。
未だにその現象に苦しむ舞に、城山は無理やりにでも笑って声をかける。
「なんかね。ちょっと自信をなくしちゃってさ。指揮者として外部講師として、このままでいいのか――って」
先輩のこと、生徒たちのこと、そして自分自身のことで。
考えてもいなかった光景を見せつけられて、少し疲れてしまったのだ。
自分が食べるために、必要とされる人間になれ。
たとえ周りの人間を踏み台にしてでも。そうしなければ生きてなどいけない――そんなことを言われれば、誰だってひどく困惑する。
『山梨鳴沢女子高の人間も、こんな風に痛めつけて思いどおりにしてしまえ』。
『そうすればおまえは安泰だ。昔のように仕事にも困らず食うのにも困らず、外部講師としてやっていける』――と。
人としてそんなやり方には反対だった。だが、じゃあ他にどうするのか――と訊かれれば、方法が浮かばないのも事実なのだ。
この学校に来るようになってから多少は仕事がもらえるようになったとはいえ、依然生活は厳しい。
もっとがんばりたい、という気持ちは当然ある。そんな中で、先輩に自信満々に言いきられてしまえば、現状を見て落ち込んだりもする。
ある意味では、舞と同じ悩みといえた。自信がなくなった――演奏上のことではないけれど。人として、プロとして。
なんの実績もない自分が、これからどうしていけばいいのか。
ショックが大きすぎて思考が麻痺してしまったのはある。そしてそれを、生徒にも見破られている――態度に出てしまうあたり、自分もまだまだだなあ、と城山が考えていると。
舞がきょとんとした顔で言った。
「城山先生でも、そんなことあるんですか」
「僕だって人の子ですよ。誰かと比べて落ち込んだりもします」
「わたしからすれば、先生ほどすごい人はいないんですけど……」
首を傾げた彼女は、周囲を見回す。
そこには、城山がこの学校に来てから関わってきた人たちの姿があった。
顧問の
同じ楽器で部長の
そして舞も――初めて会ったときはうつむいていた彼女も、前を向いて素直に笑った。
「先生が来てから、みんな前より元気になったんです。部員だけじゃなくて、体育館で演奏を聞いてくれた人たちもみんな。だからそんなに、落ち込むことはないと思いますよ」
「……茅ヶ岳さん」
「大丈夫です。わたしたちは先生を応援してますから」
ただ無邪気に言ってくる生徒を、城山は見返した。
次いで周りの、この山梨で出会った人々を。誰もかれもが楽しそうで、つられて少し笑ってしまった。
「――ああ」
あまりの衝撃で目に入らなくなっていた、ほんの些細な幸せを思い出す。
勝沼は
金賞を取りたいと心の底から言えなかった千里は、今では部長として凛とした立ち振る舞いを見せている。
「――そうだね」
舞も傷つき怖がりながらも、一生懸命不安と戦っている。
だったら、そんな彼女たちの力になりたいと思った。
先輩だとか後輩だとか、誰かに言われたことなど関係なく。
それが城山のただひとつの願いだった。
先生、と呼ばれるようになってできた、自分の居場所。
そこを守りたいと思った。そびえる山々から吹き付ける澄んだ風が、
思えば、自分がこんな思考に陥っていることこそが、谷田貝の手口のひとつなのだ。不安を与えて他に道はないと思い込ませ、行動をコントロールする。
真っ暗な中で少しでも光が見えれば、そちらに行くしかないように――わざと閉じ込めて光をちらつかせ、狙った方向に進むよう仕向けるのだ。
生徒たちにやっていたのと同じ方法だ。危うく呑み込まれるところだった――もうひとつの光条があることに、舞が気づかせてくれた。
雲の切れ間から差し込む
寒い冬の日、部屋から見えるひだまりに、動かなかった身体を動かしたことを今でも覚えている。
億劫だった布団干しをして、その
あれほど静かに深いところから、誰かのために動きたいと思ったことは、なかった。
「動かなくちゃ」
ショックを受けて落ち込んでいる暇などない。
今すぐ彼女たちのために行動しなくては。手を差し伸べてくれた人がいた。友達を守るために振り切ったイタズラを仕掛けてきた部員がいた。
形に残る証が欲しいと、今もそこで努力をする部長がいた。
なら――こちらも行動を起こさなくては。
自分にできること。
彼女たちのためになること。
形に残ること――それを考えて、城山は鋭く息を呑む。
「どうかしましたか、城山先生?」
「ああ……いや」
目の前にいる舞が、不思議そうに首を傾げる。
その顔を見て、城山は冷たい汗を流した。彼女を見てもこんな方法を思いつくなんて、最初から自分は、狂っていたのだろうか。
けれども、この天使の梯子に手をかけるしか、他に道は――
「……茅ヶ岳さん。僕と一緒に、自信をつけるためにがんばってみないかい?」
この子と自分が生きるための道は、ないのだから。
利用してるんじゃない。
この子を汚そうという意思など、全くない。
むしろ彼女のためになる。なら、これは正しい行いのはずだ――そんな風に思いながら。
返事を待っていると、舞は目を輝かせて城山の言葉に応じてきた。
「はい、がんばりたいです! なんですか先生、そんな方法あるんですか?」
「……もちろん。僕にとっても、きみにとっても、たぶんこれが唯一無二の方法だ」
彼女のあまりの無邪気さに、「やっぱりやめた」と言いそうになりながらも、そう答える。
何かの巡り合わせか、自分の周りに集まったものたちは、黙殺してしまうにはあまりに惜しいものばかりだったからだ。
山の音がする部員たち。
様々な協力の下に作られたウインドマシーン。
そして谷田貝慊人が取りこぼした、『取るに足りない』と言われた生徒。
彼女がいれば。
彼女が鍵となれば――
「一緒に、金賞を取ろう」
こちらの全てを出し切って形ある証を残すことも、不可能ではない。
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