必要とされる人
「
生徒たちを置いて、音楽室を去っていった大学の先輩に。
城山たちがいるのは、学校の自動販売機の前だ。
音楽室で指揮を振っていたときとは違う、呑気にお茶をすすっている先輩に城山は腹を立てていた。部員たちの怯えようは半端なかったのだ。
できないのならできるまで練習していろ――そう言って音楽室から出ていった
「やりすぎじゃねえよ。今に分かる。それよりもどうだ、一本飲むか?」
「結構です」
「つれねえなあ」
自動販売機を指差して言ってくる先輩に、城山はにべもなく答える。
本気で残念そうに肩をすくめて言ってくる谷田貝に、先ほど合奏の際に見せた高圧的な態度は微塵もなかった。
まるで別人のように穏やかになっている。いつも城山が見ていたのは、こちらの谷田貝だった。
だからこそ、さっきの指導者としての谷田貝慊人に絶句したのだ。高校生相手にあそこまで怒鳴る人だとは思わなかった。
一方の谷田貝は、城山に対して余裕の笑みで言う。
「珍しいんだぜ、俺が誰かに心の底からおごってやろうと思うなんて。
で、どうだ。参考になったか?」
「なるわけないじゃないですか!」
指導の参考にすればいい、と言われて行って、見せつけられたのが恫喝まがいの光景だったのだ。
参考になど、なるわけがなかった。一体アレのどこが、指導者として見習う点になるというのだろうか。
声を荒げる城山に、谷田貝は言う。
「外部講師の立場として、っていう話だよ。俺たちはしょせん雇われ指揮者だからな。必要とされなくなったら終わりなんだよ。だったら
「……どういうことですか?」
どうにも含んだ物言いに、城山は眉をひそめた。
その言い方はまるで、音楽のこと以外にも外部講師にはやることがある、と言っているように思える。
コンクールで成果を出す。
他に、外部講師としてやることなどあるのか。疑問に思っていると、先輩は言ってくる。
「結果を出すのは最低条件として、それ以外にも部員との信頼関係との構築。保護者や顧問へのバックアップの要請。その他にも感動を与えたりとまあ、色々あるな」
「……そりゃあ、そうですけど」
谷田貝の列挙したものは、城山も意図せずやっているものでもあった。
吹奏楽部という大人数の部活の活動には、どうしても大勢の人間の協力が必要になってくる。
だからこそ、努力が実ったときの達成感は大きい。結果を出すためにも誰かとのつながりは重要になってくる。
そして、それに伴い金銭も動く――そうしなければ自分たちは食べていけないのだから、もらえるものはもらっておかなくてはならない。
そうすることで次もまた本番に乗ることができて、日々の生活が続いていく。その仕組みを前に、谷田貝は告げる。
「要は必要だと思ってもらおうってこった――音楽上も、人間関係上もな。その立ち回りこそが俺たちを救うものであり、また助けるものでもある。そうだろ?」
「……嫌な言い方をしてしまえば、必要とされるために立ち回れ、ということですか」
「そのとおりだよ。察しが良くて助かるぜ」
おまえくらい出来るやつばっかりなら、俺も苦労しないんだがなあ――と、先輩は楽しそうな顔で手にした缶を傾けた。
その様子からも、谷田貝が本気で今のセリフを口にしたことが分かる。『必要とされるために立ち回れ』――外部講師というのは用がなければ、確かにいらない存在ではある。
ひょっとしたら、知らないだけで谷田貝も過去に首を切られたことがあるのかもしれない。
けれども、それは。
「……わざと、それをやるってことは」
先ほどの、合奏で見た生徒たちの様子が頭をよぎる。
震える手と、こわばった表情。
さらには、『自信のない音だね』と言われた生徒の悲しげな微笑みが――。
「……卑怯では、ありませんか。わざと人を斬りつけて、薬を売って恩に着せるようなものです。不安を与えて人を動かすような真似、僕はしたくない」
不安があるから人は動く。
満足しないから努力をする。晴れない霧を晴らそうと、もがき続ける。
だが意図的に欠損を与えて解決法を提示する、というのは、半ば詐欺なのではないか。
人道的にはとても許せたものではなかった。するとケラケラと笑って谷田貝は言う。
「そうかあ? 案外有効なもんだぜ。面白いくらいこっちの思うとおりに動いてくれるからよ――それしかないと思うから練習するし、その分だけ成績は上がるし。もちろん俺の仕事も安泰だし。万々歳だ」
「……あの合奏で、まともにコンクールができるんですか」
「おうよ。今日は特別、おまえが来るからああやったけどな。普段は俺、もっと優しく教えてるぜ? だから最後には、結果を残す。楽典とかもちゃんと教えるし、できたやつは褒める。成長できるやつはどんな環境下でも成長するんだよ。おまえみたいに」
まあ、その過程でいなくなるやつもいるけどな――と、先輩は肩をすくめた。
いつか言っていたように、谷田貝は途中でいなくなった部員など気にも留めないのだろう。
なぜなら、その時点でその人物は、彼の商売の対象から外れるからだ。
興味があるのは、目の前の自分に関係あることだけ。
そんな谷田貝は、外部講師として指揮者として、そして先輩として城山に言う。
「相手は望む結果が出せて、こっちは継続して仕事がもらえる。ウィンウィンの関係だよ。何も悪いことなんかねえさ。おまえもやればいいんだよ」
「それは……違うと思います」
「違わねえさ。おまえも仕事ほしいんだろ?」
谷田貝の言葉に、城山は少し前の自分の生活を思い出していた。
食べるものにも事欠く懐事情。電車代すら払えない手持ちの残高。
キセルをしようとしたことが脳裏をよぎる。顧問の先生が来なかったら、確実に一線を越えていただろう。
踏み出しかけた自分自身がいるのは、何より城山が知っていた。葛藤はあったとはいえ、結果的にあのときの自分はそれでも進もうとしたのだ。
だから谷田貝の言葉を、否定も肯定もできなかった。このままで終わるつもりはない――そう叫ぶ心の奥底の誰かのことを、この先輩は知っている。
「僕は」
音楽を。
「誰かを」
演奏を。
「踏み台にして――」
生きることなど。
考えたくなかったのだ。
谷田貝にしてみればそれは、逃げているだけだったのかもしれない。切れ切れに言葉を紡ぐ後輩を、先輩は静かに聞いていた。
と――。
「……先生! ここにいたんですか!」
そこに、ひとりの女子生徒が割り込んできた。
見ればセミロングほどの髪の、色白の生徒が走ってきている。谷田貝を先生と呼ぶということは、吹奏楽部の部員だろう。
音楽室から出ていった外部講師を、探して呼び戻しにくるくらいの生徒――部長か、副部長か。
いずれにしても音楽室で、何かの動きがあったということだ。谷田貝が出ていってから、シンとしていた部員たちは今どうなっているのか――想像もつかない城山を前に、女子生徒は谷田貝に頭を下げる。
「先ほどは失礼な合奏をしてしまい、申し訳ありませんでした。個人練習もパート練習もしましたので、今度こそは合奏を見ていただければと思います」
「しょうがねえやつらだなあ、まったくよ。分かった、今度こそはがっかりさせんなよ」
「はい!」
生徒の言葉に谷田貝は笑って、缶の中身を飲み干した。
次いで先輩は、女子生徒の頭をわしゃわしゃ撫でる。そうして顔を上げた彼女は――
「――え?」
どうにも、先生と生徒以上の色をたたえているように見えて、城山は声をあげた。
そんな。まさか。
あり得ない。それだけは――やってはいけない。
吐き気以上にゾッとして、城山は先輩を見やる。
「――そういうことだよ。城山匠」
谷田貝のその言葉が、事実を雄弁に物語っていた。
手を出してはいけない対象。越えてはならない一線。
そんなものを、谷田貝慊人はとっくにいくつも越えていた。
今度こそ、まともに声を出すことができず城山は呆然と先輩を見る。
対して谷田貝は、いつものように笑って後輩に言う。
「じゃあな城山。おまえがこの先どんな決断をするか、楽しみにしてるぜ」
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