暗闇の命綱
一面の雲が空を覆う、晴れ間のない日。
部活の指導の参考に、と言われたため、ここに来ている。
指揮者稼業一年目の城山である。先輩の仕事を見るのはいい機会ではある。
だが、どうにも嫌な予感がする――光の差し込まない空を見上げて城山がそう思っていると、谷田貝がやってきた。
「よう、匠。早いな」
「……この業界は時間厳守ですから。最低でも十分は早く着くようにしています」
「吹奏楽部は十分前行動、ってか? いいねえ、やるじゃねえか」
抑えた口調でしゃべる城山に、谷田貝はいつもの砕けた調子で応じた。
吹奏楽部は十分前行動、とは学生時代からよく聞かされていた言葉だ。
プロになっても無論、口を酸っぱくして言われている。それを後輩が守っていることが、先輩としては嬉しいらしい。
谷田貝は機嫌がいいようだった。それこそ城山が出会ったときから見ていた、人懐っこい笑顔のまま――
しかしその裏に、隠れた闇があることを、もう城山は知っている。
彼が自分の生徒に何をしたのか。何を言ったのか。
実際に自分の目で見たわけではないから、未だに確証をはっきりとは持てていない。だが城山の直感が告げている――
進んではいけない。触れてはいけない。
だが、知らなければ自分の生徒も救えない――かつて谷田貝に指導をされたことがあるという部員のことを思い出し、城山は言う。
「……じゃあ、行きましょうか。よろしくお願いします、谷田貝先輩」
「おう。おまえのそういう律儀なところ、俺は好きだぜ」
くしゃりと笑う先輩の様子に、城山はひょっとしたら自分の考えていることは何かの間違いなのではないか、とふと思った。
どうも自分はこの先輩に、本当に好かれているらしいのだ。そう感じさせるほど谷田貝の笑顔には邪気がなく、声音にも悪意はない。
今までずっとそうだった。
たくさん世話になった。仕事を紹介してもらった。
だからこそ、信じたかったというのはある。
日が射していないからだろうか。
校内は薄暗く、洞窟のようにひんやりとしていた。
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「こんにちは!」「こんにちは!」と。
音楽室で生徒たちに挨拶される。これもまた、吹奏楽部のよくある光景である。
挨拶はきちんとしなさい、だっけか――と思いながら、城山は部員たちの声に応えていた。そういう点では、谷田貝の教育はよく行き届いているのかもしれない。
そういうところは案外ときっちりしている人なのだ。筋は通すというか常道は守るというか。押さえるべきポイントは必ず押さえている。谷田貝慊人というのは演奏を見ていてもそういう人物だった。
今日の城山は、見学に来た谷田貝の後輩という扱いだ。
生徒に椅子を用意され、城山は音楽室の端に座っていた。ここ数年金賞県代表になっている学校の練習がどんなものか。興味がないわけではなかった。
というか、ぜひとも参考にしたいというのが本音である。一応、紙とペンも持ってきて――まるで学生の頃に戻ったように、城山は生徒たちの脇で谷田貝の声を聞くことになった。
周囲では、部員たちが合奏の準備をして座っている。
しかしその表情はどこか硬いというか、こわばったものだった。緊張しているのか――まあ、講師の先生が来ているのだから、緊張もするよなと城山が思っていると。
谷田貝が言う。
「よーし、準備はできたか? じゃあ始めよう」
ちらりと近くにいた生徒の譜面を見れば、これから演奏するのは今年の課題曲のようだった。
城山も商売柄、楽譜はひととおり目を通している。造りがちゃんとしており、吹いていて勉強になる曲だという印象だ。
選曲も悪くない。進行も滞りない。
ならば別に、何も悪くない――疑ってかかってしまったがゆえに、なんでもないところまで警戒すべき対象に見えてしまったのだろうか。
首を傾げる城山は、しかしあるものを目にした。
譜面台に紐で括りつけられたシャープペンシル。
自分の時代は鉛筆だったものだが、だいぶ久しぶりに見た気がする。
懐かしい、と思ったすぐ後に、嫌な予感が吹きあがる。わざわざビニール紐でシャープペンシルを譜面台に括りつけるのはどうしてか。
それは――と思ったところで。
谷田貝が、指揮棒を振った。
息を吸う鋭い音と共に、第一音が発せられる。
そういえば、先輩の指揮をする姿は初めて見た。演奏だったら何度も一緒にやっているが――彼自身が主導をする場面は、見たことがない。
初めて目にする指揮者としての先輩は、もちろんちゃんと棒を振っていた。
綺麗で淀みなく、とても見やすい。
細かくテンポ感も調整されていて、お手本のような指揮だった。だが一点――表情だけが、いつもと違う。
目は鋭く。眉間にしわを寄せ。
まるで奏者たちをにらみつけているかのようだった。十秒ほど演奏をし、谷田貝はいったん指揮を止める。
「もう一度」
どこがどう、とは言わず彼はそれだけを口にした。
今の演奏は、城山からしてもそこまで出来はよくないといった印象だった。まあ、うん――と部外者なので口出しできないまま、再開される演奏を聞く。
だがその次も。
「もう一度」
その次も。
「もう一度」
そしてその次も――谷田貝から出てきたのは、「もう一度」という言葉だった。
何がどうダメなのか。分からなくて、生徒たちが焦り出す。できかかった演奏が、噛み合わなくなり壊れだす――やるたびに上手くいかず、音が空回りし出す。
その緊張感に、城山も息を詰まらせた。この雰囲気は覚えがある。どんどんと逃げ道を塞がれ、前へ前へと追いやられていく焦燥。
一歩先が見えないのに、地面がないのかもしれないのに踏み出さなければならない不安。
もしかしたらこの先は崖なのではないか。正しい道などないのではないか――自分のやっていることにすら疑いを抱き、思考が削れていく過程。
それを二十分ほど繰り返した頃だろうか。
疲労で集中力が切れた段階で、谷田貝が怒号をあげた。
「違うっつってんだろうがよ、やる気あんのかおまえら!」
「……っ!」
突然の大音声に、耳と身体がバリバリと震える。
音楽室全体が、振動で揺れたように思えた。身体を通り越して、心にまでダメージを負うような。
我知らず、ペンを持つ手が細かく震える。ある程度耐性のある城山ですらそれなのだ。生徒たちは――と目を向ければ、近くにいた生徒は譜面にシャープペンシルで何かをメモして、そのまま台に置けず落としていた。
その光景を見て、思い出す。
あの紐はただ単に、落下防止のために付けているのではない。
ペンが地面に落ちた音で、自分が殺されそうな雰囲気になるから付けているのだ――薄氷の上を歩くがごとき緊張感の中で、わずかな音の衝撃が致命的にならないための安全策。本当の意味での命綱。
ほんの少しのミスでこの場所が壊れてしまわないように。
だけども命綱の価値はそれだけで、行きたい場所へ導いてくれるわけではない。こんな状態では、目標地点など探せない。
けれど『やる気』だけは見せるために、生徒たちは力を振り絞って楽器を吹く。
唯一その場所を知っている、谷田貝についていくため。
もっと言えば、見捨てられないため。
ボロボロになりながらも演奏を続けていく。それが青春、見る人が見れば頑張っている学生たちはすごいというのだろうが――
「う、ぐえっ……」
少なくとも、城山にはそうは思えなかった。
吐き気を催すほどの圧迫感でもって、合奏は続けられていく。
その最中でも「基本に忠実に、努力を無駄にすんじゃねえ! 要求を読め、何事にも耐えて対処しろ!」という谷田貝の怒声は響いていた。その度に生徒たちは命を懸け、音を出していく。
見ていられなかった。吹き荒れる嵐の中で、自分の持ったペンを落とさないようにするので精一杯だった。
やがて全員が疲れ果て、まともに吹けなくなった状態で――
「まったくおまえら、この前言ったこと全然できてねえじゃねえか。できるまで楽譜さらってろ。じゃあな」
谷田貝はそう言い捨て、指揮棒を置いて去っていく。
正直に言えば、それを見て安心した。
これで自由になった――命綱にがんじがらめにされた自分が、力を抜くのを感じたからだ。
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