洞窟の中へ
『よう。そろそろ連絡が来るんじゃないかと思ってたぜ』
プロのトロンボーン奏者であり、指揮者。
城山にとっては大学の先輩。谷田貝は、後輩からの連絡にいつもの調子で言う。
『なにしろ学校の指揮者を始めて、一年目なんだ。コンクールに向けてどんな風に指導したらいいか、困りだした時期なんじゃないか?』
「とぼけないでください。谷田貝先輩」
先輩のセリフに、城山は怒りを込めて応じた。
先日、指導している生徒のうちのひとりが、かつて谷田貝に心無い言葉をかけられたと告げたのだ。
彼女自身は谷田貝は悪くないと言っていたが、城山にとってはその発言は許せないものだった。「自信のない音だね」――その言葉は今も、あの生徒の心を縛っている。
身内として、いや身内だからこそ、名前を聞いたときに城山の怒りは燃え上がった。何かある人だとは思っていた。けれど触れてはいけないと、今までずっと見て見ぬふりをしてきた。
その結果がこのザマだ。ある意味では、分かっていて放置していた自分への怒りだったのかもしれないが――
同じ外部講師として、谷田貝の行為が見過ごせないのも事実である。先輩へ、そして同業者へと城山は問いかける。
「自分の生徒たちに何を言ってるんですか。谷田貝先輩が教えてる学校から転校してきた子が、前に先輩から妙なことを言われたって言ってるんですけど」
『へえ、なんて言ってたって?』
「『自信のない音だね』って――先輩、本当なんですか? 本当にそんなことを言ったんですか」
かすかに笑いすら含んだ口調で返してくる谷田貝に、苛立って城山は問いを重ねた。
何かの間違いであってほしい気持ちはあった。あの生徒の記憶違いではないかとも思った。
だから、確認したかったのだ。ひとさじの希望を込めて――
しかし返ってきたのは、谷田貝からの掴みどころのない答えだった。
『さて。そんなことも言ったかねえ。辞めてくやつも大量にいるから分からねえな。だがまあ俺がそう言ったってことは、その程度のやつだったってことだろ』
「先輩……!」
本気で心当たりがない、といった発言に、城山は携帯を握りしめる。
みしり、という音が聞こえたのかどうなのか。
谷田貝は電話の向こうから、いつもの口調で言ってくる。
『何をそんなに怒ってるんだ? 誰かの音に関しての俺の評価は割と正しいってっこと、おまえは知ってるだろう』
「それは……そうですけど」
大学時代からこれまで、谷田貝の音から来る人物への指摘は、ほとんど間違ったことがなかった。
城山自身、近くにいて見てきたのでよく知っている。谷田貝慊人の観察眼は本物だ。音楽に絡めた発言は的確で、だからこそ彼は外部講師としてやっていけている。
皮肉なことに二人の音への見解はほぼ一致しており、あとはそこからどう解釈をしていくかだけの違いがあるだけだった。
確かに、あの生徒は自信のない音をしている。
元からそういった要素はあったかもしれない。けれど、自覚させて大きな穴にまで広げたのは間違いなく谷田貝だ。
外部講師なら、そんなことはせずにちゃんと導いてやればよかったのではないか。そう言いかけた城山に、谷田貝は告げた。
『まあいいや。
「そんなこと、って……」
『教えてる学校に金賞取らせたいんだろ? だったら、さ』
先輩の発言に再び激昂しかける城山だったが、そう言われれば飲み込まざるを得ない。
過程はどうあれ、結果として金賞にまで教えている学校を持ち上げるのが、外部講師としての使命だ。
そうでなければわざわざお金を払って外から人間を呼んだりはしない。目的があり、需要と供給があって音楽のビジネスは成り立っている。
言葉にすると難しく、またやりきれない気持ちにもなるがシステム自体は悪くない。
城山だって、それで生きていっている人間だ。谷田貝ほどではないが――。
この辺りの問題は、深く突き詰めれば突き詰めるほどドツボにハマる。結局は仕組み自体は悪ではなく、それを運用する人間次第になるのだから。
その点において、谷田貝の方針は間違いなく城山とは相反するといえた。
ただ、成果だけは確実に一級品だった。谷田貝の指導している学校は名の知れたところだったし、ここ数年の大会の成績もかなりのものだ。
参考にしないか――そう誘われて、断る理由はなかった。
反面教師でもなんでも、経験値にすればいい。実際、指揮者としては一年目で不安がないわけではなかったのだ。
取れる手段は全部取っておくに越したことはなかった。城山が「……分かりました」と言うと谷田貝はいつもの調子で笑って応える。
『そうか。じゃあ次に、俺が学校に行くときにな』
だがその声は。
深い穴の底から聞こえてきたように、城山には思えた。
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