次の約束

城山しろやま先生ってカノジョいるんですか?」


 と、訊いてきたのは山梨鳴沢なるさわ女子高吹奏楽部の部長、甲斐千里かいちさとだった。

 長いストレートの黒髪に、凛とした目つき。

 淀みのない言動は、なるほど部長を任されるにふさわしいだろう。

 だが、今その言動は部活のことではなく、外部講師のプライベートに向けられている。

 カノジョがいるのか。その問いに対して、城山匠しろやまたくみは半眼で答えた。


「……いません」

「えっ、そんなにカッコイイのに? いるんじゃないですか、カノジョのひとりやふたり」

「ふたりいたらまずいでしょう」


 目を丸くする千里に、城山は反射的に突っ込みを入れた。

 高校生相手の誤魔化しのつもりではない。実際にいないからこその即答である。

 学生の頃ならいないこともなかったが、今は仕事にいっぱいいっぱいでそんな余裕もない。

 なにしろ自分が食べるのにも苦労しているくらいなのだから――とまでは生徒の手前言わなかったが、口にしたことが事実だというのは態度で伝わったらしい。

 千里はふぅんと不思議そうに言って、続けてくる。


「意外ですね。モテそうなのに」

「人間、容姿だけではないんですよ。キミももう少し大人になれば分かります」

「あ、分かった。そういうこと言うからモテないんですね先生」

「この話もう止めましょう⁉ 音楽の話をしましょう⁉」


 あっさりと言ってくる生徒に、城山はたまらず叫び返した。

 まるで教育実習にやってきた大学生のような扱いである。教壇に立って挨拶をした瞬間、彼女がいるかと根掘り葉掘り訊かれるような――まあ、大学を卒業して一年の若造など、千里たちにとっては教育実習生と大差ないのかもしれないが。

 改めて数えてみれば六歳しか離れていないのだ。彼女たちにしてみれば、年の離れた兄が教えに来たようなものなのだろう。

 そのくらい身近に感じてくれるのは、ある意味いいことなのかもしれなかった。興味を持ってもらえているということだし、であれば教える内容もちゃんと耳に入れてくれるということなのだから。

 ただ問題なのは、城山自身がこういった話を受け流す術を持っていないということだった。

 強引に話題を変える先生を生暖かい目で見つつ、千里は言う。


「分かりました、城山先生。この話はまた今度」

「……僕のこの反応を見てもそう言ってくるって、キミって案外意地が悪いって言われない?」

「部員のみんなが気にしてたんで、部長として代表して訊いてみただけです。で、音楽の話でしたっけ、ええ」

「まったく……」


 女子高生たちの奔放っぷりに呆れつつ、城山は息をついた。

 本当だったら千里とは、こうした他愛もない話より今日の合奏などについて話すべきなのである。

 彼女は部長なのだから。外部講師として指揮者として、城山には千里に訊きたいことがたくさんあった。

 たとえば、彼女の担当する楽器のことなども。千里が吹くのはトロンボーン。城山と同じ楽器だ。

 前で指揮を振っていると、彼女の上手さがよく分かる。それもまた、千里を部長たらしめたもののひとつなのだろうが――詳しくは聞いていない。

 この先、自分はどんな指導を彼女たちにしていけばいいものか。

 それを知るため、城山は千里に尋ねる。


「ええと、甲斐さん、すごく上手いよね。どこかの音楽教室とか行ってるの? それとも独学?」

「ああ、独学です。こっちは田舎ですし、通える範囲に音楽教室とかありませんし。なんとなく、ネットとかで。調べてみました」

「それであんなに吹けるんだ。すごいなあ……」


 お世辞ではなく本気で、城山は千里を称賛した。

 あとはインターネットに疎いので、使いこなせるのがすごいと思ったのもある。今どきの子はすごいなあ、と素直に城山が思っていると、千里は照れ笑いを浮かべた。


「今まで吹いてても、そんな風に指摘されたことなかったので。嬉しいですね。同じ楽器のプロの先生に言ってもらえると」

「ちゃんと努力してる人の音は、聞けばすぐ分かるさ。甲斐さん、なんでそこまでやってるの? やっぱりコンクールで金賞を取りたいから?」


 そこで城山は、かねてから聞きたかったことを訊いてみた。

 コンクール。

 吹奏楽部が出る、夏の大会のことである。人によっては吹奏楽の甲子園とも言う、全国の学校が参加する場だ。

 山梨鳴沢女子高ももちろん例外ではなく、毎年そこに参加している。そして城山は、コンクールで指揮を振るために呼ばれた外部講師なのである。

 半年以上先の舞台ではあるが、部員たちの意志を確認しておくに越したことはなかった。

 金賞を取りたいと言えばそういう指導をしていくつもりだし、楽しくやりたいと言えばそのつもりで指導する。

 まあ、上達したいと外から人を呼んだくらいなのだ。恐らく金賞を取りたいということなのだろうが――という、城山の予想に反して。

 千里は、ぴたりと動きを止めていた。

 つい先ほどまで淀みない強さをまとっていた彼女は、一切の動きを停止していた。

 面食らう城山を前に、ややあって部長は口を開く。


「……ええ、はい。そうですね。金賞を取りたいと思います。はい」

「……甲斐さん?」

「吹奏楽部にいる人なら、みんなそう思いますもんね。ましてや部長なら。うん」


 どこか硬い声に城山は首を傾げたが、千里は自分に言い聞かせるように言葉を重ねてきた。

 言っていることに間違いはなさそうである。吹奏楽部にいてコンクールに出る人間なら、誰しもが程度の差はあれ金賞を取りたいと思うものだし、目標にして練習する。

 ただ、千里はどこかその考え方に納得がいっていないようだった。

 つい先ほどまであった、彼女のしなやかな強さがなくなっている。

 今なら、カノジョがいると言っても「そうですか」なんて流されそうな雰囲気で――。


「あー……」


 そんな生徒を前に、城山は宙を見上げてうなり声をあげた。

 外部講師として言わねばならないセリフは分かっている。「がんばって金賞を取ろうね」だ。

 元よりそのために呼ばれたようなものなのだし、その方が都合がいいのだし、千里の反応など『仕事』という言葉に塗りこめてしまえばいいのかもしれなかった。

 けれどそれは、どこかが違うと思った。

 それではたぶん、彼女の音からも強さが消えるということなのだ。

 それは困る。非常に困る。

 では、どんな言葉をかけたものか――と城山は考え、彼は頭をガシガシとかいて、千里に言った。


「……あのね、甲斐さん。まず僕はキミを、とてもすごいと思っています」

「……」

「自分で勉強して吹いてるのもそうだし、勝沼先生に聞いたけど、『プスタ』を選んだのも甲斐さんなんでしょう。僕もあの曲は好きだし、キミもきっと好きなんだと思う。だから、何が言いたいかというと、その」


 慣れていない人間とのコミュニケーションに、なかなか上手いセリフが出てこない。

 やはり自分は、楽器を吹いているのが一番いい。

 そして千里も一緒に吹いてくれたら、もっといい――今度、この子とアンサンブルでもできたらいいなと思いつつ、城山は言う。


「そうまで音楽が好きなキミが考えてることは、きっと間違いじゃないんだと思う」

「……!」

「怒らないから、話してくれないかな。このまま進むのは、キミにとっても僕にとってもたぶん、よろしくない」

「……古今東西、そう言って怒らなかった人はいないと思いますがね」


 そう苦笑いでも言ったということは、話す気になったということか。

 顔を上げ、甲斐千里は観念したといった風に口を開いた。


「ええと、部長になってからですね。部の目標として『金賞を取ろう!』って言わなきゃいけなくなったんですけど、そう言うたびに何か違うな、って感じるようになったんです」

「というと?」

「あたし、本心からそう思ってないなーって。これ建前だな、あたしの本音じゃないなって思うようになって。でも部長だから言わなきゃいけないの、やだなーって思ってました」

「……なるほど」


 千里は部の代表者なのだ。部員たちを引っ張っていかねばならない以上、考えていることとはまるで違うことも言わなければならなくなる。

 けれどもそれは、彼女には合っていなかった。立場に言わされる言葉は、真の強さにはなりえなかった――建前じゃないものを、千里は望んでいたのだから。


「あたしね。金賞云々じゃなくて、いい音楽をしたいなって思ったんです」

「――」


 ようやく出た部長の本音を、城山はやはり驚いて聞いていた。

 彼女自身も苦笑いしてしまうようなその望みは、たとえ正しくはなくとも、城山にとってとても印象的なものに聞こえた。


「そりゃあもちろん、県代表とか金賞になれるに越したことはないですよ。けど、どうにもそれを目的にすると意欲がわかなくて。反対に、みんなといい音楽したいと思うといい音が出たりして。でも、誰にもそういう話できなくて」


 すごく、困ってました――と、千里は自分の努力をようやく認めてくれた存在へと口にした。

 立場と本心に板挟みにあっていた部長。

 外から来た人間に、ようやく促されて考えていたことを言えた彼女は、苦笑いながらもスッキリした表情を浮かべる。


「このまま行ったらだろうなって、ぼんやり考えてました。言わせてくれて、ありがとうございます。変だなと思ったら忘れてください。おかしいと思ったなら――」

「いや、よく言ってくれたよ。甲斐さん」


 そんな部長に、城山は今度こそ心の底からの賛辞を投げる。

 いい音楽をしたい。

 金賞を取りたいというより、はるかに抽象的で難易度の高い話だろう。

 けれどもそんな願いを口にした千里のことは、先生として奏者として、応援してやらねばと思った。


「いい音楽がしたい。結構じゃないか。そういうことなら僕はいくらでも力を貸そう。立場的なもので自分の音楽ができないっていう気持ちは、よく分かるし」


 大学の先輩と一緒にいて仕事をもらいながらも、この生き方はどこか違うと思っていた自分にも、彼女の疑問は通じるものがあった。

 だからこそ、協力したいとも。まあ、千里の望みが叶ったとしても、城山の問題が解決するわけではないのだが――それはそれとして。


「そうだ、いい音楽はいい演奏を聞くことからだっていうし、今度僕が持ってるトロンボーン奏者のCDとか持ってこようか? いい勉強になると思うよ」

「いいんですか⁉」

「もちろん。ジョセフ・アレッシって知ってる? クリスチャン・リンドベルイとか。世界でたったひとりのフルタイムソロトロンボーン奏者って言われてるんだけど」


 次々と出てくる海外プロ奏者の名前に、千里は首を振る。

 それを見て、城山は久しぶりにあのボロアパートから、自分のコレクションを引っ張り出すことを決めた。

 仕事柄、その手の出費はかさむわけだが、捨てないでよかった。

 こうして誰かの役に立てて、よかった――知らない世界を知って、目を輝かせる千里を見ると。

 この学校に来てよかったと思えるのだ。また一か月後、CDを持ってくる約束をすると、この先の未来すら約束された気分になる。


「ありがとうございます先生! さっきはモテないなんて言ってすみませんでした! きっと先生を好きになる人が現れます!」

「すごいてのひら返しをありがとう。僕のカノジョが、キミみたいな子でないことを心の底から祈る」


 皮肉を言ったのだが、それすら気にならないほど千里は嬉しかったようた。他の部員たちの元へ駆け出し、彼女は今の出来事を嵐のようにしゃべり始める。

 ときおり「カノジョがいない」とか「大人っぽいのに子どもっぽい」とか聞こえてくるが、まあいいだろう。


「やれやれ……」


 そんな生徒たちの様子を見て、城山は笑って息をついた。

 きのう大学の先輩に言われても描けなかった未来の構図が、ようやく描けてきた気がする。

 ほんの少しの、他愛ないものだけれども。

 けれども今みたいな小さな約束が、真っ暗だった道にわずかにスポットライトを当ててくれているように思えるのだ。

 その先にあるのが、『いい音楽』なのか――と城山が思ったところで。


「あ、あの……」


 部員たちの輪から外れて、ひとりの生徒が彼に話しかけてきた。

 セミロングの髪に、控えめな態度。

 確か打楽器の部員には、舞っぴと呼ばれていた――クラリネットの、転校してきた生徒。


「……少しだけお伺いしても、いいですか?」


 茅ヶ岳舞かやがたけまい

 これが城山匠と彼女の、演奏を介さない初めての会話だった。

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