越えてはならない一線

『というわけで今度の本番も、よろしくなたくみ

「分かりました、谷田貝やたがい先輩」


 電話の向こうの、音大時代からの先輩に。

 城山匠しろやまたくみはうなずいて応えていた。今回、先輩である谷田貝慊人やたがいあきとから頼まれたのは、トロンボーン四重奏の本番だ。

 ツアーのように各地を回る公演のメンバーに入れてもらった。しがないフリーの音楽家である城山には、貴重な収入源である。

 仕事を回してくれる先輩には、本当に頭が上がらない。

 すると谷田貝は先日城山に回した、他の仕事のことを訊いてくる。


『そういえば山梨鳴沢なるさわ女子高はどうだ。上手くやってんのか?』

「ええ、それなりに」


 専門の先生に教えに来てほしい――その声に応えて生徒たちの前で指揮をしてから、一か月。

 部員たちの様子はどうかと聞きながら、顧問の先生と練習計画を練る。ここ最近はそういった日々を送っていた。

 明日また、指導に行く予定だ。自分以外の誰かの役に立てると思うと、少し心が弾んでくる。

 そんな城山の心情を、声色から察したのだろう。谷田貝が笑って言ってくる。


『顧問の先生と連絡先交換したって言ってたもんなあ。仕事のためにもマメに連絡入れとけよ。女っていうのは少し返事しねえとすぐに不機嫌になるからな』

「先輩は、またそういう言い方を……」

『冗談だって、冗談。でも密に連絡を取った方がいいっていうのは本当だぞ。最初のうちはそれだけで、信用できるって印象になるしな』


 音楽の腕もそうだが、そういうところでもポイント稼いどけよ――という先輩の物言いに、若干の違和感を覚えつつ城山は「はあ」と言った。

 どうも谷田貝は、こちらのあまりの世渡り下手を心配しているらしい。

 いや、どうもそれだけではない気がするのだが――無闇にその違和感の正体に、触れてはならない気もした。

 昔からそうだったが、谷田貝慊人という先輩には、独特の圧がある。

 

 そういう危機感というか不安、警戒心をどこかに抱かせるのだ。

 ただ、黙っていればこちらの世話を焼いてくれるいい先輩でもあった。

 すると谷田貝はそんな後輩の反応に、『なんだよなんだよ、ぼさっとした声出しやがって』と言う。


『ま、上手くいってるんならそれでいいや。明日また行ってくるんだろ? 女子高生たちとよろしくやってこい』

「なんかその言い方だと、僕がすごいいかがわしいことをしに行っているように聞こえるんですが……」

『まともに捉えるなよ、おまえ本当に真面目だなあ。ま、俺たちみたいなフリーランスにとっては、一回一回が勝負だ。何かあったら即切られてもおかしくないからな。気合い入れて行ってこい』

「はい、分かりました」


 仕事としても先輩である谷田貝の言葉に、城山はやはりうなずく。

 時々首を傾げたくなることもあるが、先輩の言っていることは正しい。

 だからこそ、谷田貝についていっているというのは、ある。

 今回の高校の指導の件だって、彼がいなければ話が回ってこなかった。そういう意味では、谷田貝の存在は非常にありがたいのだ――。


『じゃ、

「……」


 こちらが返事をしないうちに、先輩からの電話はあっさりと切られた。

 携帯からは、どことなくざらざらした電子音が聞こえてくる。それを無言で切って、城山は携帯を床に置いた。


「……疑うなよ。恩のある先輩なんだろう?」


 心の中に広がる疑念を、押さえつけるようにつぶやく。

 今までも同じように、ざわついた感情を鎮めてきた。だったら今回も同じだ。

 生活が苦しくて疲れているだけ。将来の不安に押しつぶされそうなだけ。

 目をつぶってゆっくりと呼吸をして、頭の中で鳴り響く警告音アラートを収めようとする。

 と、そこで床に置いた携帯が、着信を知らせる光をともした。


「……おや。本町ほんまち先輩だ」


 画面に表示されたのは、本町瑞枝ほんまちみずえ――谷田貝と同じく、城山の二つ上の先輩の名前だった。

 確か彼女は卒業後は生まれ故郷の栃木に帰って、音楽の非常勤講師をしているはずだ。

 ヤンキーみたいな外見の姉御だったが、今は教職に就いたこともあって髪の色もオレンジよりは落ち着いている。

 そんな人が今になって、どうしたというのだろう。首を傾げつつ城山が電話を取ると、携帯の向こうから本町の声がする。


『よー、匠。元気か』

「まあまあ、です。本町先輩こそ、どうしたんですか?」


 これまで谷田貝から連絡が来ることはあっても、本町から連絡が来ることはあまりなかった。

 一体、どんな用件なのか。訊いてみると、二つ上の先輩は少し口ごもった後、歯切れの悪い口調で言ってくる。


『あー、元気ならいいんだけどさ。なんか風の噂で聞いたんだけど、おまえ今どっかの学校の指導に行ってるんだって?』

「はい。山梨の学校さんなんですけど、よくしてもらってます」

『相変わらず、谷田貝にくっついて歩ってんのか?』

「……まあ、そうですね」


 そこで今さっき考えていた人物の前を出されて、城山はワンテンポ置いて答える。

 ぎくりとした、というべきか。痛いところを指されたというか――

 言葉に詰まる後輩をよそに、本町は電話の向こうから重いため息をついて言ってきた。


『いや、あのな。これはあいつの同い年としての忠告なんだけど。あんまり谷田貝とは、関わらない方がいい』

「……」

『在学中からそうだったが、どうもあいつの周りはきな臭い。真偽は定かじゃねえが、変な噂も出回ってる。なあ匠、悪いことは言わないから谷田貝あいつとは手を切れ。直接なにかあってからじゃ遅い』

「……先輩、でも、僕仕事ないんです」


 本町が真剣にこちらのことを気遣ってくれているのは、よく分かった。

 谷田貝のことを疑ってかかる気持ちも。

 けれど――だからといって城山の生活が厳しいことは、変わりなかった。


「家賃を払うのにもいっぱいいっぱいで、満足にご飯も食べられない。谷田貝先輩が仕事を回してくれなかったら、それすらも危ういんです。楽団の席はどこも空きがなくて、オーディションすら受けられない」

『……匠。でもよ』

「だったら、先輩が雇ってくれますか。学校の吹奏楽部の顧問になって、僕を指導に呼んでくれますか」

『それは……』


 未だ非常勤講師で、特に部活を受け持っているわけでもない本町にこんなことを言っても、しょうがない。

 それは城山も分かっていた。こんなのはただの八つ当たりだ。

 優しい人を困らせて、甘えているだけだ。助けてくれ――たったそれだけが言えないだけで。

 こんなにも、やるせない気持ちがあふれてきてしまう。涙で震えそうになる声を必死で押さえて、城山は先輩に言う。


「僕の現状も知らずに、簡単に止めろとか言わないでください。他に何もないくせに、僕のやってることに口を出さないでください……!」

『……匠、おまえ』

「他に用がないのなら、失礼します!」


 ただ、悔しさだけは隠しようがなかっただろう。

 何か言いかけた本町をさえぎって、通話を切る。そのまま携帯を握りしめて、ひとしきり泣いて――

 ようやく落ち着いて城山は、深くため息をつく。


「……最低だ、僕」


 せっかく心配して電話をしてくれた先輩に、ひどいことを言ってしまった。

 後で謝ろう。うなだれたまま暗くなってきた部屋で、それだけを決める。

 今すぐに連絡を取ろうとは、さすがに思えなかった。

 図星を指されて逆上してしまったのもあったが、それ以上にこの先、どうするのか――話し合うにも言葉にできそうな展望が、思いつかなかったからだ。



 ###



 落ち込んだまま一晩を明かし、山梨へ向かった。

 予定どおり、高校生を教えにいくためだ。せめてそれまでには、マシな顔になっておかねば――このあいだ見た部員たちのキラキラした眼差しを思い出して、城山はマフラーに顔をうずめた。

 一か月経って山梨は、すっかり冬を迎えていた。

 ただ、こちらは前回と違って防寒装備をちゃんと整えてきている。ボックス席のシートに包まれるように座り、身を縮め――眠るように揺られていたら、いつの間にか目的の駅に着いていた。


「相変わらず、誰もいないな……」


 一か月前と変わらず寂しい景色を見て、つぶやく。

 そうして吐いた息さえも白く煙って、風に吹かれ散っていった。その様子を消えるまで見送って、歩き出す。

 駅舎は無人で、ホームにあるのは無機物ばかりだった。

 やはり駅員は配属されていないようで、出入り口にはぴょこんとそこだけ冗談のような、近代的な塔状の改札機が立っている。

 それにカードをタッチして、出ようとしたところで――ひときわ耳につく電子音が鳴って、城山はびっくりして足を止めた。


「……え、お金足りない?」


 赤く光るパネルに、血の気が引く。

 寒さとはまた別に震えが走った。料金不足。エラー音。点滅するパネル。そういったものが全部押し寄せてきて、視界が歪む。

 時間になれば顧問の先生が迎えにやって来て、どうして自分が駅前にいないのか不審に思うだろう。

 そうなる前に、なんとかしなくてはならない。追加のお金――ない。あるわけがない。あったらこんなことになってない。

 焦る心のままに、周囲を見回す。誰もいない駅舎。ホーム。

 監視カメラもなければとがめる者もいない、人気のない場所――


「……キセル」


 ならば別に、料金を払わず通過してしまっても罪に問われないのではないか。

 一瞬そんな考えが、頭をかすめる。これから高校生を教えに行く身分で。仮にも生徒たちに先生と呼ばれる、プロの奏者が。

 でも、ここを越えないと時間に間に合わないのも事実だった。時間厳守は業界の理だ。守れなければどんな理由があろうと、クビになるのが当たり前。

 そんな話を何度も聞いてきたし、実際にいなくなった人だって知っている。

 嫌だ――と、心の底から思う。せっかくちゃんと誰かの役に立てそうな仕事を見つけたのだ。今さら舞台の上から、降りたくなかった。

 けれど、そのためにはこの線を越えなくてはならない。

 それで自分は数十分後、彼女たちの前で笑顔で指揮を振れるのか。

 胸を張ってこれが正しいのだと、指導できるのか。

 ありがとうございますと澄ました顔で、謝礼をもらうことができるのか――たくさんの疑問符が、脳裏をよぎっていく。

 けれど、けれど。

 前に行かなきゃ。どこかに進まなきゃ。

 そうしなければ、どこにもきっとたどり着けない。何も見えないけれど、思い描ける未来もないけれど。

 足を動かさなきゃ、倒れるだけだ。

 そう思って城山が、一歩を踏み出そうとしたとき――。


「……城山さん?」

「……勝沼かつぬま先生?」


 いつの間にかやってきていた吹奏楽部顧問の勝沼綾子かつぬまあやこが、改札の外で不思議そうに首を傾げていた。


「どうしたんですか。そんなところでぼんやりしちゃって」

「あ……ええと、その……」


 なかなか自分が駅から出てこないので、様子を見に来たらしい。勝沼の後ろには車が止まっていて、エンジンはかけっぱなしのようだった。

 白い煙が巻き上がって、風に吹かれている。

 そんな景色をバックに、吹奏楽部の顧問は丸眼鏡の奥にある瞳をきょとんとさせていて――。

 彼女の純朴な様子に、城山の口は自然と開いていた。


「あの……勝沼先生」

「なんでしょう?」

「交通費の前払いって……してもらっても大丈夫でしょうか?」


 大丈夫ですよ、と答える顧問の先生に。

 城山は安堵のあまり脱力して、その場に崩れ落ちそうになった。

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