澄んだ空に見える星々は、鮮やかに

夢の外のひだまり

「……っ」


 目が覚めると、そこは自宅だった。

 敷きっぱなしの布団から身を起こして、城山匠しろやまたくみは周囲を見回す。

 広がっているのはいつもの、四畳半の狭い景色だった。


「あ、れ、夢……⁉」


 指導を任された学校に行って、指揮を振った――あれは夢だったのだろうか。

 あまりにリアルな記憶と、目の前の光景に落差を覚え、慌てて携帯を手に取る。

 メールをチェックすれば――そこには、昨日教えに行った高校の顧問の先生からの、「今日はありがとうございました!」という文面があった。


「あ……夢じゃないや、よかった……」


 自分の覚えていることは夢ではなかった。

 そう確信し、城山は深い安堵の息をつく。メールを送ってきた顧問の先生の学校――山梨鳴沢なるさわ女子高の吹奏楽部に行ったのは、ほんの十何時間か前のことだ。

 初めて出会う生徒と初めての合奏で、思い切り指揮を振った。

 少々大人げないほどムキになってしまったが、結果的に部員たちも先生も、喜んで自分を迎え入れてくれた。

 合奏が終わった後、顧問の先生から「すごい!」を連発され、生徒たちからも良かったという声があがったのだ。

 初日としては大成功。彼女たちの信頼を得ることができて、上々の滑り出しといえる。


 そして自分も、なかなかに楽しんで指揮を振っていたらしい――と、夢の中まで指揮を振っていたことに城山は苦笑した。

 音大を卒業して、演奏者になりたくて今までやってきたけれども。

 指揮者というのも、悪くはないのかもしれない。

 部員たちの視線を浴びながら棒を振るのは、新鮮でやりがいのある体験だった。次にあの学校を訪れるのは約一か月後。本格的に冬になる頃合いである。

 今度は何をしようかな、と城山は生徒たちの顔を思い出して考えを巡らせた。

 タンバリンの子もトロンボーンの子も、そしてクラリネットの子もそれそれ個性が音に出た子たちだった。

 彼女たちをもっと上達させるには、どんな練習が必要かな――と、参考書を手にするべく布団から這い出る。今まで改めて見ることもなかったが、音楽関係の書籍が今こそ役に立つかもしれない。


 と――ぐぅ、と腹の虫が鳴った。


「う……」


 腹が減っては戦はできぬ、と関係ありそうな本を何冊か棚から出し、食事の準備を始める。

 ひとり暮らしを始めてから、それなりに料理はするようになった。フライパンに水を入れて沸騰させ、パスタをゆでる。

 それが料理か、とどこからか突っ込まれそうな気がするが、ソースは適当に自分で作っているため料理だと言い張ることにしている。それに麺類は米よりリーズナブルで家計の味方だ。

 安いときに大量に買ってきて、適当に一人分ずつ食べている。たまに無性に米が食べたくなるときもあるが、財布の中身を見て我慢をしていた。


「……なにやってんだろ、僕」


 フライパンの中でぐつぐつと煮立つ湯を見て、城山はつぶやく。

 大見得を切って東京に出て音大に入って、首席で卒業して。

 これからは有名になってたくさん稼いで、親に恩返しをするんだ――なんて考えていたのに、実際にはこの体たらくだ。

 未だに親には仕送りをしてもらっているし、住んでいるのは学生時代と変わらぬボロアパート。

 食うのにも困る貧乏暮らし――きのうの華々しい合奏と現実の落差に、思わずため息も出た。


 あいつは親孝行だなあ、と城山は、音大で同期だった友達のことを思う。

 実家が楽器屋だという彼は、プレイヤーとしての道を早々に諦めて家業を継いだ。

 偉いなあ、とその友達を見ていると思うのだ。本人に言ったら皮肉に取られそうで言っていないけれど、そういう切り替えの早さはきっと将来、彼の店の役に立つ。

 最も利益の得られるタイミングを、自分の感覚で判断する。

 あの楽器屋、修理屋リペアマンのそういうところは、非常に世の中を渡っていくのに優れた部分だ。少しうらやましい。


 それに比べて僕は、と適当に盛り付けたパスタを持って、城山は自分の部屋を振り返り見た。

 古びたたたみ、敷きっぱなしのせんべい布団。

 床に散乱した参考書――は、これから読むのだからさて置いて。

 日当たり最悪のこの物件を選んだのは、ひとえに家賃の安さに惹かれてである。どうせ帰って寝るだけなのだから、日照時間などくそくらえと思って決めた。

 結果として布団は敷きっぱなしでうらぶれた、男のひとり暮らし部屋ができあがっている。

 こうして昼間に家にいると、そこはかとない薄暗さと自分の生き方を考えてしまって、ひどく惨めになったりもした。

 だからなんとなく、窓際で食事をとることが多かった。

 少しでも明るい場所へ。少しでも温かい場所へ――と、そんなことを考えていたからだろうか。


「お……」


 アパートの駐車場の隅、日当たりのいい場所に設置されたフェンスが、目に入ってきた。

 窓の外にある景色の中で、そこだけが柔らかい光にあふれている。秋から冬にかけてたまに見る、そこはこの辺りで唯一の明るいスポットだ。

 あそこに布団を干せば、少しは気持ちよく眠れるだろうか――などと考えつつも、今まで一回も干したことのない場所。

 やらなかった理由は、ただ単に面倒くさかったから。玄関を出てからあのフェンスまで、布団を持っていくのは、いかにも億劫だ。

 だから今日も、家の中からそこを眺めるだけ――の、はずだった。

 うず、と心の奥底が動かなければ。


「……あったかいかな、あそこ」


 暗い雲の切れ間から、細く差し込む光のような光景に、声が出る。

 確かあれは、天使の梯子はしごというのだっけか。そんな大層なものじゃないのだろうけども。


「……」


 部屋の中。

 きのう行った学校の生徒たちのために出した本が、目に入る。

「次も楽しみにしていますね!」と言っていた、顧問の先生からのメッセージが送られてきた、携帯が目に入る。


「ああ……よし」


 そしてきのう、彼女たちに対して誇れる存在であろうとした、自分がここにはいた。

 食べ終わったパスタの皿を流しに投げ込んで、城山は布団を掴み外へと向かう。



 ###



 布団をかけたフェンスにもたれ、部屋から持ってきた参考書を読む。

 ふわふわと温かい風が、頬を撫でていく。ぽかぽかとした日差しが、視界を照らしていく。


「今夜はよく寝られそうかな、うん」


 その中で城山匠は、誰に言うでもなくつぶやいた。


 少しずつ、少しずつ。

 彼の中で、何かが音をたてて変わり始めていた。

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