天才指揮者の大人げない全力

 凄絶な笑みを浮かべつつ、城山匠しろやまたくみは指揮棒を振り上げた。


 教えに来た学校での、初合奏。

 そこで――とあっては、本気を出さざるを得まい。


 指揮台に置かれた、『プスタ』のスコアはホッチキスで閉じられている。

 犯人はこちらを見てニヤニヤ笑っている、打楽器の髪の短い女の子。

 まだ彼女がやったと正確には判明していないが、部員の中で唯一、その子だけが状況を面白そうに見ているのだ。

 十中八九、彼女がイタズラを仕掛けたのだろう。もし、違っていてもこれからやる行動に変わりはない。


 自分はこの吹奏楽部に外部講師として呼ばれ、これから指揮を振るのだから。

 真剣にやるのは、義務のようなものである。もっとも、ここまで本性をむき出しにしてやるつもりはなかったのだが、こうなったら話は別だ。


 彼女たちが本気でぶつかってきたのだから、こっちも本気でぶつかるまでだ。


 大人げない、と思う向きもあるだろうが、城山匠、この時点でまだ二十三歳である。

 音大を卒業したての若造が、女子高生の挑発に乗ってしまうのも無理はなかった。

 しかも、彼が一番大切にしている音楽の分野でである。年下の女の子のイタズラと流すには、まだまだ経験が足りない。


 だからこそ、この時点の城山は――山梨鳴沢なるさわ高校吹奏楽部の指揮者は、振り上げた指揮棒を容赦なく振り下ろした。


 迷いなく、楽譜通りに。演奏曲は『プスタ』。

 作曲者、ヤン・ヴァンデルロースト。世界的にも高い知名度を誇る、吹奏楽の大作曲家である。

 そして、城山と同じ楽器を専攻する人間でもあった。トロンボーン。ハーモニーの美しさから『神の楽器』とも称され、聖歌の伴奏にも使われるもの。


 ――そんな作曲家の曲を、僕が覚えていないわけがないだろう。


 指揮を振りながら、城山は心の中でそう言い切った。

 頭の中では、未だ開かれていないスコアの中身が詳細に再生されている。

 先ほど城山自身が顧問に告げたとおり、楽譜は全部覚えているのだ。

 しかも上はピッコロから、下はグロッケンまで。全楽器の全部の動きを、彼は叩き込んでいた。

 異常といえば異常である。ただ、そうできるだけの執念と才能を、城山は備えていた。

 だからこそ音大では呼ばれていたのだ。


『天才』と。


 ただ、その才能も発揮しなければ意味がない。学校では名声をほしいままにしていた天才――人によっては天才『児』とも呼んだ――も、社会に出てみれば等しく人間だ。

 ここで成果を示さなければ、何もしてこなかったのと同然になってしまう。

 それだけは、ごめんだ――そう思いながら城山は、少しずつ曲のテンポを上げていった。

 もちろん、楽譜どおりに正確に。こんなときでも指揮棒は冷静なあたり、魂に刻み込んだ技術が現れている。

 そして、奥底から湧き出る情熱も。その二つを上手く調節する微妙な均衡の中で、城山は生徒たちの音を聞いていた。


 イタズラを仕掛けてきた打楽器の女子生徒は、タンバリンを叩いている。

 ただのタンバリンといっても、吹奏楽において立場は軽くない。

 むしろこの『プスタ』においてはテンポなど主要部分を司る、重要な楽器といえる。

 それを、件の女子生徒は――苦も無く軽く叩いていた。


 ――へえ、上手いな。


 彼女の音と立ち振る舞いに、城山は素直に感心していた。

 とんでもないイタズラを仕掛けてきたのでどんな子かと思いきや、案外と純粋な音に聞こえる。

 心のまま、流れてくるままを自然に出しているというか。

 とにかく屈託のない綺麗な音だった。どんな振る舞いをしても、実力である程度許してしまえるのが音楽家である。

 城山もご多分に漏れず、先ほどの行為を忘れて後でゆっくり話してみよう、となどと思ったりもした。


 もちろん、彼女だけでなく他の部員の音も同時に聞いている。

 数十人ほどいる奏者に対して、指揮者はひとり。全員に立ち向かう勇気と胆力があってこその、指導者である。

 特にこの『プスタ』は、ハーモニーが特徴のひとつであるだけに、重なり合ってできた響きやバランスも聞いていかねばならない。

 エキゾチックで民謡的な動きは、ひとりだけでは成立しない。

 そのことが分かっているのか――城山と同じトロンボーン、ハーモニー楽器の部員もしっかりとした音を出していた。


 ――あの子も上手いな。


 長い黒髪に涼しげな目元をした女子部員を、城山はちらりと見る。

 打楽器の子と違って、彼女は格別目につくわけではなかった。

 しかし、そうと悟らせない上手さがあるのだ――曲に徹して、自分は目立たないという大人でもなかなかできないことをやっている。

 トロンボーンのその部員のおかげで、全体の和音がはまっていい響きを出していた。

 さらに動きを見るに、彼女は意識してそう吹いているらしい。こりゃあいい職人がいるぞと、城山は手放しで喜んだ。

 もはや怒りの感情より、嬉しさの方が大きい。

 現金なものである。人間的な話より、こういう『音楽』を聞くと全部が楽しく思えてきてしまう。


 目は口ほどにものを言うというが、城山の場合はそれが楽器だった。

 体調や精神状態、ある程度の性格まで音を聞けば大体わかる。

 だからこそ、ああだこうだと自己紹介をするのではなく、初日からいきなり合奏をしようという提案をのんだのだ。

 城山にとって今の状況は、合奏の場であると同時に盛大な自己紹介の場でもあった。

 楽器を通せば取り繕うこともなくなるし、思いがストレートに伝えられていい――そう言うと二つ上の先輩などは「人嫌いなのか好きなのか、どっちなんだよテメエ」と呆れた顔をしたものだが、たぶん自分は人間が好きだ。

 こういう演奏を、することができるから。

 音楽が好きでもあるし、音楽をやろうとする人間が好きでもある。

 だからこそプロになったし、プロであろうとした。まあ、人と音楽どっちが好きなのかと訊かれたら、きっと後者を選んでしまうだろうけど――本質的にその問いには意味がない。

 だってどちらか一方が欠けたら、どちらも無くなってしまうから。

 音楽がある限り、城山匠は人間を愛し続ける。その非人間性もまた、彼を『天才』と言わしめたもののひとつではあるのだが――役に立ってるのだからいいじゃないか、というのが今のところの本人の所感だった。


 なんにせよ、思っていた以上の演奏を聞かせてくれてすっかり機嫌を直した城山である。

 初めての人間の指揮にもちゃんとついてきてくれてるし、できなくてもそうあろうとする意思が見える。

 素晴らしいことだ。そう思いながら、城山はこれからソロのある部員に目をやった。

 茶色の髪をセミロングくらいの長さにした、クラリネットの女子生徒。

 彼女にはこれから、カデンツァ――つまりはソロのパートがある。

 無拍子で自由な、真っ白なキャンバスがごとき場面。

 普通ならそこは指揮を振らない。全部奏者に任せてしまうのが正解の部分だ。

 でもまあ、さすがに合図くらいは出そうか、と城山はソロの始まりのタイミングだけ指示しようと決めた。

 せっかくここまで上手くいっているのだ。お見合いになって変な雰囲気になるのは避けたい。


 クラリネットのその女子生徒も、根本のところは他の二人と同じくらい上手い印象を受けた。

 だが、どこか――、というか。

 たまに迷いがにじみ出ている部分がある。本人がそれを自覚しているのか定かではないが、直せばかなり大化けするはずだ。

 そんな予感を走らせる音だった。とりあえず、まずは様子を見てみようと城山は、視線を向けてくるそのクラリネットの部員に対してうなずく。


 合図を出す。


 ほんのわずかに、呼吸と共に空間を叩くように。

 解き放たれた空気の波が、彼女の後押しになるように。

 次いで聞こえてきた音は、その女子生徒が懸命に出したであろう大きな音だった。

 だが必死でやったせいか、バランスを欠いてそのまま失速しそうになる。息のスピードと指使いが合わず、メロディーがもつれる。

 がんばれ、と城山は指揮棒を振るえず、心の中で応援していた。ここは手を出すことができない。

 彼女だけの、彼女にしかない、彼女にのみ与えられた場面だ。

 自分にできることは、ただ祈ることのみ――あなたならできるという。

 信頼を。

 心に込めて、彼女を見つめるのみ。すると、一瞬だけ目の合ったそのクラリネットの部員の音が。

 落ち着きを取り戻し、ゆっくりと本来の旋律を奏で始めた。そんな彼女に笑顔でうなずいて、城山は次なる場面に向けて指揮棒を構える。

 大丈夫大丈夫。今のリカバリーは見事だった。

 終わった後、そう言ってあげたいくらいの気持ちである。もっとも、それはもう伝わっているだろうけど――うなずき返してくるクラリネットの女子生徒の目の輝きを見て、城山は思う。

 時間にして十数秒。数字にすればあっという間だったが、彼女にとっては長い時間だったろう。

 けれどもそれに値するほどの、濃密なやり取りができた時間でもあった。


 できなくてもいい。それはこれから、できるようになってくれればいい。

 そのために自分が来たのだから――そう思って、城山は再び指揮棒を振り始めた。

 こんなに寒いのに身体は熱い。

 いつも合奏で、指揮者の先生が汗だくになっていたのはこのせいかと、今さらながらに理解する。

 自分を見つめてくる視線に本気で応えるのだから、それは熱くなって当然だ。

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