寒空の中、銀嶺に向けて
山梨
それが
「本当に山ばっかりなんだなあ……やまなし、なのに」
その学校に向かう途中で、城山は電車の窓から見える景色に感想をもらす。
西東京から電車を乗り継ぐことしばし。
山梨県に入った頃には、周囲に見えるのは山ばかりになっていた。
見慣れただだっ広い平野ではない。話には聞いていたが、本当にこの県は山だらけらしい。
普段とは違う、すぐそこにあるうず高い山を見上げる。あまりに近くて、手を伸ばせば届きそう、なんて錯覚してしまいそうなくらいだ。
もちろん、触れることなんてできないのだけど――でも。
「それでも手を伸ばすのが、僕らなんだよ……ってね」
そんな軽口を叩けるくらいは、気分のいい景色だった。
都会のざわざわした
東京から電車を乗り継いでやってきたこの路線はいかにも田舎のローカル線といった趣で、もちろん城山の他に乗客はいなかった。
通勤通学の時間になれば多少違うのだろうが、今は中途半端な時間帯だ。それはもちろん、これから放課後の部活の指導に行くから――話に聞いていた学校に、初めて
この件を持ってきた大学の先輩によると、学校の最寄り駅まで顧問の先生が迎えに来てくれるらしい。
なので待ち合わせ時刻に遅れないよう、少し早めに出てきている。決して待ちきれなかったわけではない。暇だったからでもない。いや、それもちょっぴりあるけれど。
とにかく楽しみで、早く会ってみたかった。
まるで修学旅行の学生みたいな気分だが、あいにくこちらは仕事で来ている。まあ見慣れぬ景色とボックス席独り占めというシチュエーションに、観光気分が煽られているのはあるだろうが。
本質はそこではない。『音楽で人の役に立てるかもしれない』。それだけで本当に嬉しかった。
今日のために、音大時代の教科書や、参考書などを読んで色々勉強してきた。
高校生の頃、どんな練習をしていたっけなどと思い出してみたり。実際はちゃんと生徒たちを見てからでないとなんとも言えないだろうが、にしても準備をしているしていないで雲泥の差が出る。
「こんな若造でもいいって言ってくれたんだ。期待には応えないとね」
元々はこの依頼は、城山の先輩の元に舞い込んできたものだ。
だが先輩は手が回らないからと、話を後輩に渡した。先方はそれでもいいと言ってくれて――こんな音大を出たての新人でもいいと言ってくれて、城山としては救われた気分だった。
世間では肩書きというのもすごく大事なんだと、大学を出てから半年で思い知らされている。
成績だけは常にトップクラスだったのに、まるで仕事がないのがその証拠だ。無名のルーキー。掃いて捨てるほどいる人材に目をかけてくれたことは、まさしく奇跡である。
まして、自分の大切な生徒を預けようとしてくれているのだから――依頼主はどんな先生なんだろうと、想像も膨らむ。
まあ、もう少しで会えるのだけれども。目的地の駅にたどり着いて、城山は電車を降りた。
「寒……っ」
途端に冷たい風が吹きつけてきて、城山は身体を縮こまらせる。
季節は秋から冬になる頃合い。山梨は避暑地として利用されているだけにもちろん東京より寒い。
しまった、そこまでは考えてなかったな――と、城山は家を出る時の気温で選んでしまった服を悔いた。
今度来るときは、もっと重装備にしなくてはならない。もっとも、そんな機会があればだが――。
「……無人駅なのか? ここ」
寒さをこらえて駅舎を見回し、改札まで歩く。
吹きっさらしのホームにはやはり人はおらず、サビの浮いた鉄柱やベンチだけが置かれている。
安全確認のモニターもなく、掲示板にもポスターもなく画鋲が刺さっているのみ。
当然ながら改札に駅員もいなかった。あるのは妙に新しげな、カードをタッチするタイプの精算機だけ。
廃駅と勘違いしそうなレベルだったが、周囲から浮いたその精算機のおかげでそうでないことは分かった。
文明の利器があるということは、利用者がいるということだ。そのことに少しだけ安心して、城山は改札を出る。ちなみに精算機は金額が足りないと通れない型のものではなく、本当に、タッチするだけの小さな塔のようなものだった。
外に出ると小さな広場と中心にある樹、そして時計が目に入る。
「三時に待ち合わせ、って言ってたっけ」
その時計と、腕時計の時刻が合っていることを確認して、城山はつぶやいた。
現在二時四十五分。となれば、もうそろそろ先方がやってきてもおかしくない。
学校の仕事の合間を縫って迎えに来てくれるのだ、多少時間は前後するだろうが――大人しく、ここで待っていた方が良さそうだ。
申し訳程度に設置されていた自動販売機で温かいコーヒーを買い、ちびちびと飲む。もし他にも駅前に人がいれば迷うこともあるだろうが、今回は楽器を持ってきている。
細く長い、特徴的な形をした楽器、トロンボーン。
これが目印になって、向こうもこちらを見つけてくれるだろう――冷たい空気の中で、城山がそう思っていたとき。
「お……」
通りの向こうから、一台の軽自動車がやってきた。
ゆっくりと安全運転で、のんびりとカーブ。そのまま駅前に停車し。
パステルピンクの車から降りてきたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。
「あ……」
そのまま目が合う。
彼女が
今回の依頼主。にもかかわらず、城山がその女性に対して抱いた第一印象を正直に述べるならば――『野暮ったい』だった。
ロングスカートに丸眼鏡。もっさりとした白いセーターを着こんだ姿は、お世辞にも活動的とは言い難い。
長い髪をゆったりとした三つ編みにしているのも、その雰囲気に拍車をかけていた。歩き出せば、そのままつまずいて転びそうな。
地方の冴えない音楽教師。
そんな失礼な印象を抱いてしまったわけだが。
「えっと、あの……城山さん、ですか?」
「はい、そうです」
どこか自信なさげに、しかしはっきりと訊いてくる姿に、城山は彼女についての判断をいったん取り下げることにした。
不安があるのはお互い様である。にもかかわらず、こちらより先にこの女性は声をかけてきた。
取るべき行動を取ってきた。ならば雰囲気に反して、彼女は案外と行動的なのだろう。
そしてやはり、この女性が今回の依頼主なのだ。城山の返答に「よかったぁ」と微笑んで、彼女はぺこりと一礼する。
「こんにちは。はじめまして。私が山梨鳴沢女子高校、吹奏楽部顧問の
「城山匠です。今回はお招きいただき、本当にありがとうございます」
優しげな笑顔につられるように、城山も笑って挨拶をした。
二人の間にほっとした空気が流れ、まずは最初の緊張が解ける。お互いをはっきりを認識しながらの会話。それが可能になる。
「
「いえ、電車を乗り継いで一人旅、というのは久しぶりでしたので。これはこれで楽しかったです」
「そうですか、ふふ。ああ、寒いですし車に乗ってください。お話は学校に向かうがてら、していきましょう」
促されて勝沼綾子の車に乗る。暖房の効いた車内に、城山はほっと一息ついた。
地元の人間は慣れているだろうが、そうでない人間にこの寒さは堪える。
けれどもいつか、空気に馴染んでいくのだろう。そうなれるようにがんばろう。そう意識して前を向いたら、いつもより身近にある山々の向こうに――
「白い、山……」
ひときわ高く、頂に雪を抱いた山脈が見えて、城山は思わず声を漏らした。
電車に乗っていたときは分からなかったが、見通しのいい道に出て見えるようになったのだ。
冷たく澄んだ空気の中にあるその山は、とても綺麗で。
心の底まで響くその
「ああ、あれは南アルプスです」
地元民にとっては見慣れた山々なのだろう。
勝沼がハンドルを動かしながら、観光ガイドのように説明する。
「毎年この時期くらいに冠雪する、白い山ですよ。私たちにとっては、なんでもない景色ですけど――ああ、城山さん、山梨は初めてですか?」
「はい。お恥ずかしながら」
「そうですか。後で美味しいほうとうのお店にでも行きましょう」
県の名物である平たいうどんのようなもののことを口にして、勝沼は車を走らせる。
純粋に、前を向き嬉しそうな笑みを浮かべて――
「ようこそ山梨へ。私たちは城山先生を歓迎します」
これからよろしくお願いします、という歓迎の言葉と。
目の前に広がる山々の景色を。
決して忘れまいと、城山は大きく息を吸って、「よろしくお願いします」と口にした。
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