山の詩~とある天才指揮者の銀嶺に至るマーチ

譜楽士

白い山の麓へ

舞い込んできた依頼

「おい、その豚どもに餌をやっておけ!」


 仕事終わりの舞台裏。

 城山匠しろやまたくみが今回の依頼主から聞いた言葉はそんなものだった。

 お金持ちのパーティーの生演奏。その裏では主催者が召使いたちに居丈高いたけだかに命令をしている。


 楽器をケースにしまいながら、城山は自らに投げられたセリフの意味を反芻していた。

 豚。餌。確かにお金持ちにとってフリーの音楽家なんてその程度の扱いかもしれないが。

 それにしたって、もうちょっと違う態度があるだろう――それなりに盛況に終わった本番のことを思い出して、彼はため息をついた。


 世の中なんてこんなもの、と達観できるほど、自分は大人ではない。

 二十三歳。音大を卒業したてのぺーぺー社会人。

 正式にはフリーランスの音楽家なので、社会人というのも少し違う。

 会社に入っているわけでもない。しかしかといって華々しくプロとして活躍できているわけでもない、中途半端な存在だ。


 仕事は自力で見つけてくるしかないし、働かなければ収入もない。

 普通に働いていた方がよっぽど、いい暮らしができてたんじゃないかな――と、城山は楽屋の鏡に映った、自分の姿を見た。


 よれたスーツ。ぼさぼさの髪。擦り切れそうな靴。

 うん、確かにぞんざいな扱いをされてもしょうがないかもしれない。

 常人であれば城山の容姿が、非常に整っていることにも言及しただろう。若干クセのある茶色がかった髪に、物憂げに伏された長いまつげ。

 長身痩躯のたたずまいは、顔立ちも相まって舞台俳優を思わせる。

 ただ現在は、その全てを生かしきれていない――いわゆる残念イケメンの、城山匠であった。


 うだつの上がらない自分に、もう一度ため息をついて城山は立ち上がる。今日の仕事はこれで終わりだ。

 あとは報酬を受け取って、先ほど言われたように食事をもらって――といったところで。

 そんな城山に、弁当を差し出してくる人物がいた。


「ほい、匠。今日もおつかれさん」

谷田貝やたがい先輩」


 笑って今日の報酬を渡してくるのは、城山の大学の先輩、谷田貝慊人やたがいあきとだ。

 濃い黒髪と、人懐っこい笑顔。

 がっちりとした四角い顔と体格は、少しの威圧感と安心感を人に抱かせる。

 大学時代からそうだった。そう心の中で思いながら、城山は弁当を受け取った。


「おまえのおかげで、今日の本番も上手くいったよ。これからも頼むぜ」

「はい。ええ……はい。僕のおかげかは分かりませんが」


 肩を叩いてくる谷田貝に、城山は自信なげにうなずく。

 今回の依頼は、何人かのチームで行ったものだ。谷田貝の集めてきた、やはりプロの奏者たち。

 似たような境遇の者たちと一緒に、先ほどの本番を行った。

 であれば、城山一人の手柄ではないはずだ。そう主張する後輩に、谷田貝は再び笑って言う。


「おまえはやっぱ上手いから、メンバーに入ってくれると助かるんだよ。あと顔がいいからな。ご婦人方にウケがいい」

「僕としては純粋に、楽器の腕だけで勝負したいんですけども……」

「今どき、上手いだけじゃメシ食えねえよ。大事なのは依頼主の求めている成果を出すこと。プラスアルファの付加価値が出ればさらにいい」


 プロっていうのは、そういうもんだろ――と、城山の二つ上の谷田貝は言い切った。

 その年数だけ、職業音楽家としても谷田貝は城山の先輩になる。

 今回の本番も、谷田貝に声をかけられたからこそ城山は出られたのだ。

 おかげで仕事にありつけた。そうでなかったら、未だに家で腹の虫を泣かせている頃だったろう。

 たとえそれが、依頼主から人間扱いされないような環境であってもだ――とりあえず今日の糧と、先輩からねぎらいの言葉をかけられたことに、城山は「……ありがとうございます」と弁当を軽く掲げる。

 金もコネもない自分が、こうして食事にありつけているだけでも上々だ。

 多少世話を焼き過ぎな感はあるが、先輩がこうして気にかけてくれるのはありがたい。後輩の態度がおかしかったのか、谷田貝は「おう、じゃあここでメシ食って帰ろうか!」と城山の背を叩く。


「ちょうど、おまえに頼みたいこともあったんだ。仕事のことでな」

「仕事のこと? どんなのですか?」


 首を傾げる後輩を、先輩は「まあまあ。まあまあ」と言って楽屋のイスに座らせた。

 同じテーブルには今日の本番を一緒に行った連中もいる。谷田貝といつも仕事をしている年長者たち。

 彼らを差し置いて自分に頼みたいこととは、なんだろう。きょとんとする城山に、先輩は言う。


「匠。おまえ、高校の吹奏楽部を指導してみないか?」

「指導、ですか?」


 演奏者プレイヤーとしてではなく、指導者としての依頼が舞い込んできたことに、城山は驚いた。

 予想外の話だった。あまり考えていなかったというか――奏者として身を立てたいと漠然と考えていた彼にとって、指導者というのは盲点だったのだ。

 だがしかし、昨今では顧問以外に、トレーナーとして外部の人間を招く部活も多い。

 かく言う谷田貝も、どこかの学校の外部講師をしていたはずだ。そのつながりで話が来たのだろうか。

 戸惑う後輩に、先輩として谷田貝は続ける。


「ああ、指導者だ。正確に言えば指揮者兼、指導者ってところだな。新しく部活の顧問になった先生が吹奏楽は素人で、ちゃんと教えられる人材を探してるんだとよ」

「ということは本番も振って練習も付き合うような、そういった仕事になると?」

「そうなるな。学校で指揮法の授業は受けたよな? 覚えてるか? 人に教えるっていうのも、なかなか勉強になるもんだぞ」


 俺が引き受けられればよかったんだが、あいにくと手一杯でなあ――と、谷田貝は肩をすくめた。

 なるほど、と先輩の仕草に城山は一応の納得をする。話を聞くにその学校の吹奏楽部とやらは、それなりに何度も時間をかけて通っていかねばならないところのようだ。

 他の仕事もある谷田貝としては困った案件だったろう。

 だから、時間のありそうな後輩に回した――そんなところだろうか。

 指導の経験はないが、他に仕事がないのも事実である。というか、長期にわたって定期的に雇ってくれるなら、こちらとしても助かる。

 そんな気持ちで城山は、その高校について尋ねた。


「どんなところなんですか? その学校さん」

「山梨鳴沢なるさわ女子高校。取り立てて目立った評判はないが、まあ県大会の銀賞付近をうろうろしてる普通の学校だよ」

「山梨ですか、遠いですね……」


 城山たちが住んでいるのは西東京。いくら隣接している県とはいえ、距離はそれなりにある。

 車も持っていない城山にしてみれば、心配になる場所たった。顔を引きつらせる後輩に、しかし谷田貝は苦笑して手を振る。


「最寄り駅までは電車で行けばいいし、そこまで行けば顧問の先生が迎えに来てくれるってよ。もちろん交通費は向こう持ちだ。どうだ? 悪い話じゃないと思うが」

「まあ……そうですね。うん。他に仕事もないですし、やります」

「よっしゃ決まりだ。先方さんには俺から連絡しておくから、後で詳しい内容を送るわ」


 今後の生活を考えると選択の余地はなく、そして断る理由もない。

 なので城山は、首を縦に振った。これが彼の運命を大きく変える決断だったと、思いもしないまま――。

 後輩の返答に笑みを浮かべ、谷田貝は改めて宣言する。


「ありがとな、匠! さ、せっかくもらった弁当なんだ。冷めないうちに食っちまおうぜ!」

「そうですね」


 これでこの話は終わりだと、手を叩いて合図する先輩に、城山もつられて笑った。

 割り箸をパキリとして弁当の蓋を開ければ、中には案外と多くのおかずが入っている。


「高校の吹奏楽部かあ……」


 様々な具材が散りばめられた幕の内弁当に、久しぶりに頬が緩んだ。

 頼まれた学校の生徒は、どんな子たちなのだろう。

 どんな音を出して、どんな演奏が出来上がるのだろう――それこそ蓋を開けてみるまで分からなくて。

 想像するだけで、楽しかった。



 ###



 そして、城山が食事を終え楽屋を去った後――。


「いいんですか谷田貝さん。仕事、後輩に譲っちゃって」


 今日、同じ本番に乗った奏者のひとりが、谷田貝にそう問いかけていた。

 彼らフリーランスの音楽家にとって、仕事の機会というのはそのまま飯の種になる。もちろん大半の者はそれ以上に大切なもののために働いているが、にしても報酬がないとやっていけないというのは事実だ。

 いくら忙しいとはいえ、舞い込んできた仕事を他の人間に投げてしまっていいのか。谷田貝はそう尋ねられたわけだが。


「ああ。いいんだよ」


 後輩が去っていった扉を見やり、先輩は口を歪めて嗤う。


「片田舎のうだつの上がらねえ学校の指揮だあ? ないない。手間と成果が釣り合ってねえ」


 その表情は、先ほど城山に対して見せたものに比べはるかに暗く、黒い。

 後輩にはまだ見せたことのないもの。

 嘲笑。冷笑。そういった類のもの。

 後輩と、その先にある学校のことを指して、谷田貝は言う。


「旨味のねえ仕事なんざ、経験の浅い新人に任せておけばいいんだ。俺たちは外部講師だ。コンクールで金賞を取れる有名校について、成り上がってのし上がる」


 上手いだけでは飯は食えない。

 成果を出さねばプロとはいえない――先ほど後輩に対してそう言っていた谷田貝は、業界の『先輩』として吐き捨てる。


「大して有名でもない弱小校の指導なんてなあ、俺にとってもリスクなんだよ」

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