第42話 ベンチ

 心配する二人に感謝を述べ、先に帰ってもらったのは、2人がいるといつまでも泣いてしまいそうだったのもあるが、ある思いが浮かんだからということもある。


 私の顔には大きなガーゼが貼られていた。幸い、コーヒーがかかったのが瞬時であることから、水膨れがいくつかできただけで、命に別状はなかった。やけどは1カ月もすれば治るだろうということだったが、皮膚が少し引きつれることがあるかもしれないという医者と看護師の顔は、その場所が顔だということもあり、暗かった。


 私は曽田の言った、「こういうやつが世界におってええねん」という言葉をまねて、「そういう顔がおってもええねん」と言うと、医師と看護師は嬉しそうに笑っていた。

 私は今日にも退院できることを聞くと、「ありがとうございました。」と2人に向かって頭を下げた。「ちゃんと右左みて歩くんだよ。」という医師の言葉は保育園から聞いていた言葉だったが、少し違った意味にも聞こえた。


 私は病院を出ると、そのまま藤重に電話を掛けた。

 出てくれないかもしれないと思ったが、3コール目で藤重の声が聞こえた。

「もしもし、めぶ?」

「もしもし、めぶです。さっき、事故して、死にかけた。」

「え!?大丈夫?」藤重は慌てたが、私はこのようにピンピンして生きている。

「うん、大丈夫。あの、藤重、ずっと私のこと『好き』って言ってくれてたよね?」

「え…、うん、そうだよ。」

 突然の問いかけに藤重は動揺していた。

「私、やっとその意味わかったんだ。それって私の存在が大切ってことでしょ?ずっと私が生きてることを応援してくれてたんだね。私も君が「好き」だった。私も君が大切だった。これからもどんなことがあっても君の存在を応援し続けるよ。」

「…」

「私が存在してること、認めてくれてありがとう。」

「…君は!今どこにいるの?」

「え、国立病院の前だけど。」

「今から行ってもいい?」

 藤重はその後一人で歩いて帰ろうとしていたと言った私に驚きつつ、ベンチで座っとくように、と言った。


 冬の夕暮れは早い。もう日が沈みかけている。日が沈みかけた時に、空が七色になることを大学になって初めて知った。


 息を切らして走ってきた藤重は、付き合った日と同じダサい恰好で、とてもとても眩しかった。

「めぶ。」

 藤重はその辺に自転車を停め、歩いてきて、私の隣に座った。

「君ね、今日車にひかれた人間が一人で歩いて帰っちゃだめですよ。」

 藤重の声がかすれていたのは、私がどうやってひかれたのか、分かっているからかもしれなかった。


「いつかめぶが、『好き』ってどうやったら分かるのって言ったよね。」

 私はうなずいた。

「あれから、たくさん理由を考えたんだよ。もちろん、たくさん出てきたよ。めぶはたくさん素敵なところがある人だからね。でも、それと『好き』はやっぱり自分の中でつながらなかった。いや、つながらなかったんじゃないかもしれないな、それだけじゃなかった。めぶの悪い癖とか俺と合わなくてもどかしいとことか、それも『好き』だなって思ったし、それだけじゃなくて、めぶがこうして生きてること、その存在だけで大切だって思えたんだよ。自由に生きてほしかったし、めぶの存在を大切にしたかった。」


 私と同じように、夕日を見ていた藤重がこっちを向いた。オレンジの光が差して、藤重の表情を浮かび上がらせていた。


「君のことが大切で大切で、俺は本当に幸せだった。こんな気持ちを味わせてくれてありがとう。」


 きっと藤重の顔を見つめる私の顔にも、太陽の最後の一筋の光が届いているんだろうなと思いながら、私は藤重と頬を重ねて抱き合った。

「めぶさん、消毒液の匂いしますね。あと、コーヒー。」

「藤重は汗のにおい」そう言って私たちは笑った。もう日は沈んだようだった。

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