第36話 箕輪

 私が箕輪に連絡したのは、その鍋を50回は使った頃だった。


 鏡に映るスウェットでジーンズ姿の私は1カ月前とは別人のようだ。なるべく素材の味が分かるように作られた料理は私を健康的な体型にしているし、そもそも頭はいがぐりのようだ。腕や足にはふさふさと毛が生えているし、眉毛もつながったままだ。もう私の部屋には何もないのと同じように、私の体には余計なものは何もなかった。


 それは、そうすれば世界を食べないようにできると思ったからだ。他にも外からの評価を求める行動とか、過剰な愛情を求める行動を取らないように注意深く生きているのに、体に空いた穴が埋まっていく感じはしなかった。満たされない心をどうすればよいか分からなかった。生きていくのは思った以上に難しいようだ。


 本当に、なぜだか箕輪の顔が浮かんだ。

 サークルで活動していた時も、サークルの延長線上で仲良くはあったが、プライベートで深い付き合いをしたことはなかった。


 自分が以前したことを思い返せば都合のいい話だった。

 けれど、箕輪なら、今の私に何かヒントをくれるのではないか、そして、私に食べられずにいてくれるのではないかと思ったのかもしれない。


 私から連絡を受けた箕輪からは「分かりました」と返信がきた。家を知っていただろうか、と思ったが、以前サークルのみんなでうちで鍋をしたことを思い出した。


 箕輪はすぐにやってきた。

 インターホンに応じて扉を開けると、箕輪の顔が一瞬こわばったのが見えた。そうだ、私は今、散切り頭で眉毛もつながっているのだと思い出した。


 私の「どうぞ」という声に、箕輪はすぐに表情を持ち直し、部屋に上がった。


 私は、紅茶を用意していた。ここ最近味のついた飲み物を飲む気にはならず、水しか飲んでいなかったのに、紅茶を買っていたのは、いつかこういう日が来ると思っていたからだろうか。箕輪を座らせて湯を沸かす。お互いにとって居心地の悪い時間だ。


 机の前に座ると紅茶の湯気の向こうに箕輪が見える。

 箕輪は来年で4年生になるんだね、就活はどう?などと、一瞬逃げようとしたが、机の前に手を組む自分の指毛を見て、いけないと思った。


「この前は本当にごめんなさい。」


 私の声を聞いても、箕輪はうつむいて黙っていた。


「箕輪に、こっちに、女側に来ればいいよなんて、箕輪に世界を食べさせようとしてしまった。箕輪は自分でお腹いっぱいになれるのに。本当にごめんなさい。」

 箕輪は紅茶を一口飲んで、少し考え込むような顔を見せた後、

「…嫌でした。でも、許します。」と言った。


 私は泣きそうになった。箕輪ははじめ無表情のままだったが、

「で、食べるとか食べられるとか何です?」と言うと、私を見て微笑んだ。



「なるほど。」

 事の顛末を聞いた箕輪はぷっと笑っていた。つながった眉毛に笑っているのか、傍から見ればみじめな私に笑っているのかと思い、少し不安そうな顔をした私に気づいた様子で箕輪が言った。


「めぶさん、あなたはおもしろいんですよ。」

 それは後輩が、私に芸人としての自信を取り戻させようという発言だと思い、私は謙遜した。

「いや、全然面白くないし、今は芸人だってやってないし。」


「違いますよ。変な人間だって言ってるんです。」

 謙遜したことが恥ずかしくて顔が赤くなった。


「あのね、まずどこにそんな会うたびに変わる人がいるんですか。いきなり女になったかと思えば、なんですかその頭は。その辺のバンドマンよりはるかにロックンローラーですよ。しかも、誰も強いてないのに、いつも勝手に考えて悩んで、生きづらそうで、でも、いつも自分は普通です、常識人ですって顔してますよね。もうね、全部が面白いんですよ。コントなんですよ。」


 侮辱されているのか、褒められているのか分からなかったが、全く腹立たなかったのは、箕輪の顔に愛を感じたからだろう。


「で、今は、世界を食べることを止めたのに、満たされなくて困っているということですか?」


 私がうなずくと、箕輪はまた紅茶をすすった。そばかすだらけの頬の上の、一重の目に薄くて短いまつげがさらりと伸びていた。箕輪はこんなに綺麗だったか。


「それは当たり前ですよ。だって、今まで食べていたものを食べなくなったってことなんだから、腹の中には何もなくなってるじゃないですか。」


「あ、そうか。」


 こんなことに気が付かなかったのかと驚いた拍子に出た声があまりに間抜けで、自分にもこんな声が出せるのかと驚いたし、箕輪の言うように私は本当はこんなやつなのかもしれないと思った。


「めぶさんの言う食べるって、自分が安心感とかつかの間の刺激を得るために過食してしまうってのもそうだけど、それと同じで安心感とか刺激とか自分の承認欲求を満たしてくれるような人や声を望んで、そのために行動してしまうってことですよね。まあ、そんなことは誰にでも少しはありますけどね。けど、それは生きづらいんですよね。だったら、代わりに自分で自分を認めるんです。そしていっぱいにしてあげるんですよ。」

 箕輪は少し泣いていた。この言葉は私に言った言葉だったのだろうか。



「めぶさん、私、芸人になろうと思ってるんです。」

 箕輪がそう言ったのは、見送りに出たコンビニの前でのことだった。


「私、もっと優しい世界を作りたいんです。めぶさんの言葉で言うなら、もし間違えて食べてしまっても大丈夫なような、ていうか、そもそもみんなが世界を食べなければって思うことのないような世界を作りたいんです。」


 箕輪の目はまっすぐだった。


「めぶさん、私とコンビを組みませんか。私はあなたを評価しませんし、めぶさんも私を評価しなくてかまいません。お互いが自分の腹を満たすことをしましょう。私はそれでもあなたとなら、2人分以上の何かが生まれると思うんです。」

 箕輪は、思い出したように、こんなときにすみません、と言った。


「返事はいつでも構いません。生きている間であれば。」

 箕輪は走り出したかと思うと、そのままローラースケートに乗るふりをして帰っていった。途中で空をける左足とこそこそと歩く右足が絡まり、転んでいたのが見えたが、きっと箕輪なら大丈夫なのだろうと思い、家に帰った。

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