開かれた未来
金村亜久里
粟はイネ科エノコログサ属の一年草に分類される。農学においては雑穀に分類される穀物である。雑穀には粟のほか黍、稗、モロコシ(ソルガム)、
地名でアワないしアハと言ったときに阿波国と他に今一つ安房国と書く、これがある。旧国名の律令制における安房国は、阿波国すなわち四国は徳島県、から遠く隔たった、現在の房総半島の先端に位置する。忌部の一族は足柄山を越えて東国にも進出していたようである。古記に曰く
日本列島における粟の栽培は縄文時代にまで遡る。シリコン樹脂を用いたレプリカ法による圧痕研究の進展によって、栽培植物の帰属年代と植物種の同定がより確実なものとなった。東海地方の遺跡や貝塚の遺物から、粟・黍を主体とする畑作農耕が縄文時代晩期終末段階まで遡ることが判明している。粟の栽培は弥生時代にまで遡る。稲作は縄文時代にまで遡る。そもそも弥生文化と縄文文化は列島全体で一瞬の内に魔法のように切り替わったものではない、九州北部平野から侵入し三百年からさらに五百年ほどかけて東端まで伝播したものであって、だから縄文も弥生も汎列島的な時代区分としてはほんらい使いようがない。ほんとうは時代地域ごとに弥生文化縄文文化といったほうが正確に決まっているがとりわけ西日本ではおおむね一様に弥生文化へ変容したものだから仕方がない。栽培植物の帰属年代と植物種の同定がより確実なものとなっている。なった。圧痕研究は当初デンマークで印象剤に粘土を用いて行われた。粘土に代わりシリコン樹脂を用いたレプリカ法により圧痕研究は進展した。弥生文化として日本列島に伝播した灌漑式水田稲作、は紀元前十五世紀の山東半島に、銅剣を用いた祭祀は紀元前十一世紀の朝鮮半島西南部、の遼寧式青銅器文化に、それぞれ由来する。韓半島では灌漑式水田稲作は紀元前十一世紀に開始した。粟の栽培は縄文時代にまで遡る。遼寧式銅剣を祭礼具とし、灌漑式水田稲作を生産基盤とする集団、が九州北部、玄海灘沿岸地域に渡ってくるのは、紀元前十世紀後半のことである。
水田稲作は弥生時代に朝鮮半島から日本列島に伝わった。粟の栽培もまた縄文時代に朝鮮半島から伝わった。あるいは列島に住まう人びとの間で、種々の採集や漁労と並行して、自然発生的にエノコログサが栽培化された。粟はエノコログサと自由に交配し雑種化しても生殖能力を失わないから同一種中の亜種としてもしばしば扱われる。朝鮮半島とりわけその南西部における稲作はその源泉を中国の山東半島に有する。山東半島に伝播した、湧水をたのみにする原始的な水田稲作、が改良されて、大規模な灌漑を伴う稲作へ変貌した、のが紀元前千五〇〇年ごろである。東アジアにおける原始的な水田稲作は紀元前八〇〇〇年ごろに長江下流域で発生した。朝鮮半島における粟の栽培ならびに畑作はむしろ華北の黄河流域平原部に由来する。紀元前五〇〇〇年から六〇〇〇年ごろの新石器時代の環濠集落から栽培された粟が出土している。狩猟採集と並んで栽培が行われている。この新石器時代の穀物栽培のありかたは弥生時代の集中的な農耕の姿より、むしろ縄文時代の網羅的にあらゆる自然の動植物を供する様式に似通っている。粟の栽培はどこで開始されたのであろうか。エノコログサはユーラシア大陸全体にわたって分布している。紀元前四〇〇〇年ごろのコーカサスでも栽培化された粟の出土する遺跡が成立している。どちらが起源地であるにせよ、大陸のほとんど全体を横断する形で栽培技術が伝播し、かなり早い段階で汎ユーラシア的な粟の栽培化が進行していたことになる。中近東からインド北西部にかけて、また東南アジアにおいても同様に粟が栽培され食卓に供されている。栽培開始時期とともに、品種の細分化とその多様性から、中国地域を単一起源地の候補とする見方もある。あるいはユーラシア大陸の東西の二つの端、それに近い地域で、同時多発的にエノコログサの栽培化が進行したのかもしれない。
阿波の忌部氏あるいは阿波の忌部氏と伝わる古代阿波の地方豪族、がヤマトの連合政権において担った役割とその権勢については、考古学的な方面からの考察が望ましい。紀元三世紀の西日本的な広がりを示すヤマト王権の中で、阿波は北部九州ないし半島・大陸から畿内大和までを結ぶ鉄の海上輸送路の要衝の位置を占め、長期にわたって大量の鉄器が出土する土地である。前方後円墳の中核である石室の発達にも阿波の古墳のものが関与していると予想される。阿波の石室造りの技術が祖型としてヤマト王権中央にも採用された形である。東瀬戸内海を挟んで対岸にあった阿波が奈良大和に対して有していた影響力を物語っている。また阿波は古墳時代から少なからぬ
天孫降臨という神話上の一挿話は、半島から農耕冶金および祭祀の技術を携えて紀元前一〇世紀の列島へ足を踏み入れた実在した王の伝説化された姿であるのか、あるいは渡海以来千余年の長きにわたる混淆の結果忘却の彼方に喪われた王権の原像、を改めて結びなおすための集団催眠の結節点であったのか、『古語拾遺』や記紀に伝わる諸氏の起源神話と同様に、今や確定困難な歴史の彼方に属している。実在する王であったとして、それがいつごろ列島に侵入してきたものか判然としない。弥生時代開始時期の通説は二十世紀を通じて紀元前五世紀であって、これは皇紀における天孫降臨にいささかなりとも近似する。この考古学上の数値は二十一世紀に入って五〇〇年遡った。伝説上の王と目される首長が果たしていつ玄海灘を過ぎ越したか。また最初に渡った「渡来人」、灌漑式水田稲作を携えてやってきた人々はどれほど縄文人と違い、どれほど似ていたか。
あるいは中央アジアないしはアフガニスタン、インド亜大陸その北西部といった乾燥地帯を粟の栽培化の起源地と比定する向きもある。アフガニスタンで栽培される粟の形態が野生種とさほど変わらない。品種間の交雑可能性に着目した場合、互いに交雑可能な品種の多様性が中央アジアからインドにかけての地帯で最も富んでいる。単一起源説における粟の地理的起源の最有力候補としてヒンドゥークシュ山脈を中心とした中央アジアからアフガニスタン、北西インド、すなわち、アーリア人のインドへの侵入経路が推定されている。
想像してみよう、舟を漕ぎ、海を渡り、積み荷を降ろした人々が、彼方からの構造物をみとめてにじり寄ってきた人々と向かい合って、どれだけ似ていないか、どれほど似ていたかを。
日本列島における粟食は二十世紀初頭まで隆盛した。世紀末に約二十五万町歩にのぼった粟の作付けは四十六年には四万町歩、六十九年には二千町歩弱にまで減少する。女の、男衆の、奉公人の飯として食われてきた粟が二十一世紀の常民の食卓にあがることは、ほとんどたえてあらないといってよい。
想像してみよう、天孫、後世に
開かれた未来 金村亜久里 @nippontannhauser
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