開かれた未来

金村亜久里

 

 阿波国あわのくには古くは粟国と謂う。粟の穂のみのり豊かに垂れるさまを尊んでこう呼ぶという。古い文書記録に曰く、阿波あわ忌部いんべ氏の祖神天日鷲命あめのひわしのみこと、あるいは日鷲命ひわしのみこと、のうまごが、耕作に適した土地を求めて現在の阿波国を訪れたとき、彼、あるいは彼女、は穀物と共に麻の種を植えてこれを増やした。「肥き」つまり肥沃なところであったからよく育った。この土地からは新嘗祭にあたり木綿と麻布を朝廷に納める運びとなった。古記に曰く「其のすえ、今の国に在り」、天日鷲命、の孫、の後胤、は、無事阿波国に根付き饒く栄えたらしい。阿波の忌部氏の縁起話である。



 粟はイネ科エノコログサ属の一年草に分類される。農学においては雑穀に分類される穀物である。雑穀には粟のほか黍、稗、モロコシ(ソルガム)、四国稗しこくびえ、ハト麦、唐人とうじんびえ、その他地域特異的なものとしてテフ、フォニオ、コドなどがある。粟は雑穀である。東アジアから東南アジア、中央アジア、インド北西部から中近東、ヨーロッパに至るまでユーラシア大陸のほぼ全土で利用される。遺伝的多様性の中心として中国とインドが挙げられる。粒のまま食す。ひきわりにして食す。粉にして水分を混ぜこねて食す。焼いて食す。煮て食す。粟はイネ科の一年草に分類される。粥にして食す。きわめて古い時代から栽培される。先史時代の日本列島でも、韓半島でも、中国とりわけ華北でも、東南アジアでも、インドでも、コーカサスでも、栽培されている。最初期の粟の栽培史料にコーカサスの遺構が挙がるほどである。粟はイネ科の一年草である。栽培化されたエノコログサである。



 地名でアワないしアハと言ったときに阿波国と他に今一つ安房国と書く、これがある。旧国名の律令制における安房国は、阿波国すなわち四国は徳島県、から遠く隔たった、現在の房総半島の先端に位置する。忌部の一族は足柄山を越えて東国にも進出していたようである。古記に曰く天富命あめのとみのみこと、祭祀にいりような種々の品を求めて忌部氏を率い諸国を開拓せしめた神であるが、これは「更にところぎて」、すなわち肥沃な阿波国より更に肥沃な土地を求めて、阿波に住まう忌部氏を故地に残る組と開拓に向かう組に分け、自ら後者を率いて東国、「あづまくに」に向かう。太平洋に面し真東には同じく南海道の紀伊半島を臨む土地である、おそらくは陸伝いに航海したものであろう。知多や伊豆の半島をたよりに進んだかもしれない。ともあれ分かたれた忌部氏の一半は、天富命に率いられて海を割いて跨ぎ、房総半島へ辿り着いた。「麻穀を播殖う」布を織る素材としての麻と食糧としての穀物を播種したこの地に、麻と穀物のよく生い育つことをもって総国ふさのくにと名付け、これは後世の上総・下総の語源となるが、ここに阿波の忌部の住まうことをもって音を拾い安房郡あはのこおりと名付け、旧国名の安房国にその字が受け継がれることとなった。縁起話と謂えば、これもまた縁起話である。



 日本列島における粟の栽培は縄文時代にまで遡る。シリコン樹脂を用いたレプリカ法による圧痕研究の進展によって、栽培植物の帰属年代と植物種の同定がより確実なものとなった。東海地方の遺跡や貝塚の遺物から、粟・黍を主体とする畑作農耕が縄文時代晩期終末段階まで遡ることが判明している。粟の栽培は弥生時代にまで遡る。稲作は縄文時代にまで遡る。そもそも弥生文化と縄文文化は列島全体で一瞬の内に魔法のように切り替わったものではない、九州北部平野から侵入し三百年からさらに五百年ほどかけて東端まで伝播したものであって、だから縄文も弥生も汎列島的な時代区分としてはほんらい使いようがない。ほんとうは時代地域ごとに弥生文化縄文文化といったほうが正確に決まっているがとりわけ西日本ではおおむね一様に弥生文化へ変容したものだから仕方がない。栽培植物の帰属年代と植物種の同定がより確実なものとなっている。なった。圧痕研究は当初デンマークで印象剤に粘土を用いて行われた。粘土に代わりシリコン樹脂を用いたレプリカ法により圧痕研究は進展した。弥生文化として日本列島に伝播した灌漑式水田稲作、は紀元前十五世紀の山東半島に、銅剣を用いた祭祀は紀元前十一世紀の朝鮮半島西南部、の遼寧式青銅器文化に、それぞれ由来する。韓半島では灌漑式水田稲作は紀元前十一世紀に開始した。粟の栽培は縄文時代にまで遡る。遼寧式銅剣を祭礼具とし、灌漑式水田稲作を生産基盤とする集団、が九州北部、玄海灘沿岸地域に渡ってくるのは、紀元前十世紀後半のことである。



 斎部広成いんべのひろなりの手による文献『古語拾遺』は、大同二年すなわち西暦八〇七年成立とされる。九世紀初頭である。ふるきことのもりたるをひろうと読み下す。記されている内容は概ね記紀神話と合致する。「開闢あめつちひらくるはじめ」すなわち天地開闢から伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみ両神格による日本列島の形成と素戔嗚神すさのをのかみの追放に始まり、四国および東国の忌部氏の起源神話をはじめ、一部に独自の注釈を含んだ神代以来の一連の古伝承、と、その十一の遺漏、と主張される事項、を記す。この注釈ならびに遺漏の収録、忌部氏独自の神話解釈のゆえに古語拾遺と謂う。日の神月の神に次いで産み落とされた素戔嗚神は激しく泣き喚いて人を死なせ、山を枯れさせる。生粋の荒神である。この無道のゆえに父母により根国ねのくにに追放される。これに続いてまたもや「天地割判あめつちわかれひらくるはじめに」ときて、今度は天御中主神あめのみなかぬしのかみ高皇産霊神たかみむすひのかみ神産霊神かみむすひのかみ三柱の生成が語られる。時系列が逆転している。中臣氏との政争に由来する書物である。宮廷祭祀の主導権を巡る諍いに端を発する。中臣氏は祭祀をつかさどる職位をみずからが独占すべきと主張し、忌部氏は忌部中臣両者ともが祭祀を預かったうえでの棲み分け・分担を主張する。かかる相訴が起こり、大同元年八月に「両氏を取用いて、必ず相半ばを当つべし」すなわち相共に祭祀を担うべしと勅裁が下る。その序において「不好古談いにしえのことがらをかたることをこのまず」「浮華競興うわべのみのはなやかさをもとめて嗤還旧老ろうじんのことばをわらう」と嘆き、「蓄憤をべまくほりす」と記す『古語拾遺』自体を、中臣家の権勢に対する忌部の不遇を嘆く哀訴状と見なす向きもある。しかし勅裁はむしろ忌部に対してきわめて有利にとりなしている。これは忌部氏の全き勝訴にあたるとみて相違ない。それに重ねて尚、蓄憤すべきことがら、嗤われる旧老のことばがあるとすれば、それは何であるか。



 水田稲作は弥生時代に朝鮮半島から日本列島に伝わった。粟の栽培もまた縄文時代に朝鮮半島から伝わった。あるいは列島に住まう人びとの間で、種々の採集や漁労と並行して、自然発生的にエノコログサが栽培化された。粟はエノコログサと自由に交配し雑種化しても生殖能力を失わないから同一種中の亜種としてもしばしば扱われる。朝鮮半島とりわけその南西部における稲作はその源泉を中国の山東半島に有する。山東半島に伝播した、湧水をたのみにする原始的な水田稲作、が改良されて、大規模な灌漑を伴う稲作へ変貌した、のが紀元前千五〇〇年ごろである。東アジアにおける原始的な水田稲作は紀元前八〇〇〇年ごろに長江下流域で発生した。朝鮮半島における粟の栽培ならびに畑作はむしろ華北の黄河流域平原部に由来する。紀元前五〇〇〇年から六〇〇〇年ごろの新石器時代の環濠集落から栽培された粟が出土している。狩猟採集と並んで栽培が行われている。この新石器時代の穀物栽培のありかたは弥生時代の集中的な農耕の姿より、むしろ縄文時代の網羅的にあらゆる自然の動植物を供する様式に似通っている。粟の栽培はどこで開始されたのであろうか。エノコログサはユーラシア大陸全体にわたって分布している。紀元前四〇〇〇年ごろのコーカサスでも栽培化された粟の出土する遺跡が成立している。どちらが起源地であるにせよ、大陸のほとんど全体を横断する形で栽培技術が伝播し、かなり早い段階で汎ユーラシア的な粟の栽培化が進行していたことになる。中近東からインド北西部にかけて、また東南アジアにおいても同様に粟が栽培され食卓に供されている。栽培開始時期とともに、品種の細分化とその多様性から、中国地域を単一起源地の候補とする見方もある。あるいはユーラシア大陸の東西の二つの端、それに近い地域で、同時多発的にエノコログサの栽培化が進行したのかもしれない。



 阿波の忌部氏あるいは阿波の忌部氏と伝わる古代阿波の地方豪族、がヤマトの連合政権において担った役割とその権勢については、考古学的な方面からの考察が望ましい。紀元三世紀の西日本的な広がりを示すヤマト王権の中で、阿波は北部九州ないし半島・大陸から畿内大和までを結ぶ鉄の海上輸送路の要衝の位置を占め、長期にわたって大量の鉄器が出土する土地である。前方後円墳の中核である石室の発達にも阿波の古墳のものが関与していると予想される。阿波の石室造りの技術が祖型としてヤマト王権中央にも採用された形である。東瀬戸内海を挟んで対岸にあった阿波が奈良大和に対して有していた影響力を物語っている。また阿波は古墳時代から少なからぬぎょくの生産センターであったようである。この阿波における玉の生産体制は後世にも継続した。二十世紀後半のある調査によれば、五世紀後半から六世紀前半にかけて、万単位の玉類を遺した工房址が奈良県内で発見されている。宮廷において用いられる宝飾品を含めた玉の生産によって古墳時代に栄華を誇った阿波の忌部氏、あるいは阿波の忌部氏と伝わる古代阿波の地方豪族、その後胤が、自らの地位を誇り、昔日の栄光を偲び、九世紀の宮廷に孤憤を歌ったとは……想像だに及ばぬことでも、ありはしまい。



 天孫降臨という神話上の一挿話は、半島から農耕冶金および祭祀の技術を携えて紀元前一〇世紀の列島へ足を踏み入れた実在した王の伝説化された姿であるのか、あるいは渡海以来千余年の長きにわたる混淆の結果忘却の彼方に喪われた王権の原像、を改めて結びなおすための集団催眠の結節点であったのか、『古語拾遺』や記紀に伝わる諸氏の起源神話と同様に、今や確定困難な歴史の彼方に属している。実在する王であったとして、それがいつごろ列島に侵入してきたものか判然としない。弥生時代開始時期の通説は二十世紀を通じて紀元前五世紀であって、これは皇紀における天孫降臨にいささかなりとも近似する。この考古学上の数値は二十一世紀に入って五〇〇年遡った。伝説上の王と目される首長が果たしていつ玄海灘を過ぎ越したか。また最初に渡った「渡来人」、灌漑式水田稲作を携えてやってきた人々はどれほど縄文人と違い、どれほど似ていたか。



 あるいは中央アジアないしはアフガニスタン、インド亜大陸その北西部といった乾燥地帯を粟の栽培化の起源地と比定する向きもある。アフガニスタンで栽培される粟の形態が野生種とさほど変わらない。品種間の交雑可能性に着目した場合、互いに交雑可能な品種の多様性が中央アジアからインドにかけての地帯で最も富んでいる。単一起源説における粟の地理的起源の最有力候補としてヒンドゥークシュ山脈を中心とした中央アジアからアフガニスタン、北西インド、すなわち、アーリア人のインドへの侵入経路が推定されている。



 想像してみよう、舟を漕ぎ、海を渡り、積み荷を降ろした人々が、彼方からの構造物をみとめてにじり寄ってきた人々と向かい合って、どれだけ似ていないか、どれほど似ていたかを。



 日本列島における粟食は二十世紀初頭まで隆盛した。世紀末に約二十五万町歩にのぼった粟の作付けは四十六年には四万町歩、六十九年には二千町歩弱にまで減少する。女の、男衆の、奉公人の飯として食われてきた粟が二十一世紀の常民の食卓にあがることは、ほとんどたえてあらないといってよい。



 想像してみよう、天孫、後世に神武天皇じんむのすめらみことと号され、邇邇芸ニニギとその名の伝わる将に率いられた大陸由来の武装技術集団が、南東に太く突き出すなだらかな半島近海の、のちに日本ひのいづるところと呼ばれる弓状列島に侵入するよりおそらく遥か以前、おそらく同時期、おそらく少し後に、釈迦シャーキヤ王子瞿曇悉達ゴータマ シッダッタ、病と老いと死と生とを憂いて出家し、断念された六年間の苦行の後、尼連禅ナイランジャナー河に沐浴して菩提樹の木陰に安らい正悟を得た印度、天竺、西域の覚者が、沐浴して菩提の木陰に赴く前に、近隣の村娘善生スジャータ―によって供養された一杯の乳粥、古い経典スッタに曰く無数の神神が諸天妙汁の祝福を与えたと伝わる一杯の乳粥の中に、ささやかな菜として込められた、小さな粟の一粒を。仏性を有するという粟の一粒を。地の果てまで続く平原を一色に染め上げる斜向きの陽を受けて紅に黄金に輝き、刈り取られて乾き、太陽のように丸くあまい粟の一粒を。

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