うしろのしょうめんいないいない

駆威命『かけい みこと』(元・駆逐ライフ

うしろのしょうめんいないいない

 私の友達は都市伝説とか七不思議が好きだ。


 ネットや噂などをどこかからか仕入れてきて、あまつさえそれを実践しようとするほどに好きなのだ。


 しかもそのたびに無理やり私を付き合わせようとしてくる。


 私はそんなことよりももっと大事な――。


「ね、いーでしょ? 行こ~よ~」


 放課後特有の解放感に満ちた教室で、私はその友達である美衣――長い髪と勝気そうな瞳を持ち、やや高めの身長を持つ少女――に拝み倒されていた。


 それだけならまだしも、スマホを持っている手を掴んで左右に揺さぶられている。


 おかげで来たばかりのメールも読めやしなかった。


「またなの? ……っていうか揺らさないでよ」


「いいじゃんいいじゃん、面白そうでしょ?」


 こっちは面白くないの、とは言わずにスマホを逆の手に持ち替えて画面を見る。


「あ、りゅーくん」


 途端、美衣がぷくっと頬を膨らせる。


 出来て間もない彼氏のせいで付き合いが悪くなった、なんて思っているのかもしれない。


「も~、最近付き合い悪くない?」


「……前回も前々回も付き合ったはずだけど?」


 一昨日は赤いサインペンで鏡の真ん中にひとの名前を書こうとしていたし、その前はトイレの悪霊を呼び出すんだって言って人が入っている個室の扉をノックしてまわった。


 もちろん、なんの怪奇現象も起こったりしなかったので、私としてはいい加減勘弁してほしいのだ。


 ……本当に起こっても怖いし。


「いーや、男が出来てから付き合いが悪くなった!!」


「声大きいって……!」


 私は小さな声で注意してから周囲を見回す。


 別に秘密にしているわけではないけれど、やはり大っぴらに言うのは恥ずかしい。


 幸いクラスメイトたちは各々の話題で盛り上がっており、私たちのことなど気にしていなかった。


「とにかく行こ~よ~」


「え~」


 私は生返事をすると、文面に目を走らせる。


 帰りはどこに行こうか、なんて気分があがることが書いてあって、私はどう返事をしようか迷っていた。


「はい、没収!」


「あっ」


 美衣は、そんな私の手の中からスマホを奪い取ると、そのまま走り出してしまう。


「ちょっとぉ!」


 抗議をしたところで美衣の姿は影も形もなかった。


 私は「もうっ」と愚痴だかため息だか分からない声を漏らすと、美衣の後を追って走り出す。


 目的地は、先ほど彼女が散々喚き散らしていたのでしっかりと頭の中に入っている。


 学校の七不思議や都市伝説にありがちな、ちょっと外れた場所にある空き教室だ。


 ものの数分で到着したのだが、まだ美衣の姿はない。


 どこで油を売っているのかとやきもきしながら、茜色の光が差し込む教室で待っていると、秒針が2周するくらいの時間でひょっこり顔を見せた。


「あら~。やっぱり足はやいね、紀乃きの


「美衣が遅かっただけ」


 私が唇と手を突き出すと、美衣はごめんごめんと笑いながらスマホを返してくれる。


 一応、メールが見られていないかと画面を確認すると、先ほどのままだったので返信せずにスリープさせてポケットに押し込む。


「ほら、なにするの?」


 私が文句を言いつつも付き合うことを選んだことがそんなに嬉しかったのか、


「へっへ~。だから紀乃大好きっ」


 なんて調子のいいことを言って、上機嫌で自分のスマホを取り出した。


「えっとね~」


 美衣の語る儀式とやらは、至極単純で、目をつぶって憎い相手の名前を黒板に書き、決められた呪文を唱えると化け物が殺してくれる、というものだった。


「……誰の名前を書くの?」


 嫌いな相手は何人も居るけれど、殺したいとまで思う人は居ない。


 どうせ叶うわけがないと分かってはいても、あまり気持ちのいいものではなかった。


「ハゲの吉田とか?」


 担任のやや薄い頭を思い出す。


 時折ウザいと感じることはあったが、別に殺したいほどではない。


 かといってこれだという適任も思い浮かばない以上、否定する気にもなれなかった。


 私は美衣を急かすと黒板の前にまで行き、チョークを押し付ける。


「それで、呪文って?」


「えっとね~」


 美衣はうきうきした様子でスマホの画面を見ながら赤色のチョークを手に取ると、しまったといった感じで口をまん丸に開ける。


「目をつぶってたら呪文となえられないじゃん!」


 そのくらい覚えときなさいよ……。


 あまりの馬鹿さ加減に、私は思わずため息をついてしまった。


「……帰っていい?」


「だめっ」


 美衣はそのまま少しだけ考えた後で、私にスマホを押し付けてくる。


 呪文と思しき文字のスクショが表示されている画面を見てから美衣の顔へと視線を戻す。


 だいたいやってほしいことは想像できたが、念のために確認だけしてみる。


「なんで?」


「私がやるから、紀乃は呪文を教えて?」


 なんだか語尾にハートマークでもついてそうな感じでお願いされてしまい、私の口からまたため息が漏れる。


 早く帰りたかったが、それには美衣の頼みを聞くのが一番の近道であることは今までの経験からよく分かっていた。


「りょーかい……」


 美衣はにししと笑うと、両眼を閉じて黒板に担任教師の名前を書き始める。


 苗字は漢字で書いていたが、名前はひらがなという時点で担任への興味の薄さが見て取れた。


 名前を書き終わると同時に美衣はチョークを両手の間に挟み込むようにして持ち、指を組んで祈りのポーズを取る。


 そんな美衣の顔は、先ほどまでふざけていたとは思えないほど真剣な表情で、赤一色に染まったこの教室も相まって、一瞬今回ばかりは成功してしまうんじゃないかなんて思ってしまった。


「えっとね……いくよ。ティビ・マグナム・インノミナンドゥム……」


 私が呪文を唱えると、美衣も同じように反復していく。


 しばらく私たちの声だけがやまびこのように教室の中で響き、なんとも言えない雰囲気を生んだ。


「――星の妖精さん星の妖精さん、彼の者を供物に捧げます。どうぞお召し上がりください」


「……お召し上がりください」


 いつも以上に、美衣が真に迫っていると感じたのは私の思い過ごしだろうか。


 何となく肌寒さを覚えた私は、片腕で私を抱きしめた。


「…………ふぅ」


 全てを唱え終わると、美衣は息を小さく吐き出してからすっと目を開ける。


「どうなるかな? どうなるかな?」


 そこにはいつも通りの美衣が戻ってきており、私は密かに胸を撫でおろした。


「どうもなんないでしょ」


「え~、そんなのつまんなーい」


 いつも通りに笑いあいながら私はスマホを美衣に返す。


 美衣はアヒルのくちばしみたいに唇を歪めてスマホの画面――呪文――を睨みつけた。


「本物っぽそうなんだけどなぁ」


「呪文だけはよくできてるんじゃないの~」


 私は肩をすくめると、少しだけ紫色が混じり始めた教室を見回す。


 教室の後方に寄せられた机と椅子や、なにも貼られていない掲示板。無機質なロッカーと、そこには代わり映えのしない日常が転がっていた。


「ほら、なんにもないし」


 美衣はそれでも諦めきれないのか、恨めしそうに名前の書かれた黒板を睨みつけるが、彼女の望むような変化が訪れることは無かった。


「時間差で来るとか……?」


「じゃあ、明日吉田が無事かどうか調べてみれば~」


 そのままぐちぐちとこぼす美衣へ適当な返事をしながら一緒に教室を出る。


 なんでもない退屈な日常のいちページが――。


「――え?」


 一瞬、背後からクスクスと笑い声がした気がして振り向く。


 視界に映るのは、誰も、なにも居ないからっぽの教室だけ。


「どしたの?」


 不思議そうな顔で美衣が私を覗き込んでくる。


 もし美衣がさっきの笑い声を聞いていたら、それこそ狂喜乱舞していただろうから、彼女には聞こえなかったのだろう。


 つまりは……。


「ううん、なんでもない。多分気のせい」


 雰囲気に飲まれて、そんなことが起こればいいな、なんて思ってしまったから幻聴でも聞こえてしまったのだろう。


 私はごく常識的な思考でそう結論付けると教室を後にした。






「あー、もう帰っちゃったかな」


 校門前にはいつも待ってくれているりゅー君の姿が見えない。


 美衣と無駄にした時間は十数分くらいなので、怒って帰ってしまったなんてことはないと思うのだけど……。


「電話してみたら?」


「うん」


 美衣の言う通りに私はスマホを取り出すと、御厨みくりやながれの名前をタップする。


 ほどなくして電話口からコールの音が流れ始めた。


「…………」


「出ないの?」


 ところが何回コールを鳴らしても、まったく電話が繋がらない。


 こんなことは今までほとんど無かったのに。


 嫌われてしまったんだろうかと言い知れぬ不安が押し寄せる。


 私は急いでメールアプリを立ち上げると、謝罪とそれに続く言い訳を書いて送っておいた。


「健気ですなぁ」


「こうなった元凶がそんなこと言う?」


 ちょっととげとげしくなってしまったのは許して欲しい。


「大丈夫だって~」


「もう~……」


 まあ、私に美衣との付き合いがあるみたいに、りゅーくんにも付き合いがあるんだろうけど。


 この前男子に絡まれてたの見たし。


 そう思っといたら安心だしね。


「帰ろっか」


 私はスマホをポケットにしまってから歩き出した。






 住宅街の中心部に位置する一戸建ての我が家に帰りついた時には、もう太陽は沈んで街灯が道路を照らし出す頃合いだった。


 少しだけ、寄り道をし過ぎたかもしれないと反省しつつ門扉に手をかける。


「それじゃあ美衣、また明日ね~」


「ういうい~」


 美衣は軽く右手をあげて別れを告げてくる。


 なんてことない日常。


 いつも通りの会話。


 そこに、クスクスと、ある意味場違いな笑い声が紛れ込んだ。


「え?」


 また聞こえて来た笑い声に、私は背中へ氷片でも投げ込まれたかのような気持ち悪さを感じて当たりを見回す。


 閑静な住宅街のには、私と美衣意外に誰も居らず、変な音が聞こえてくる原因も見当たらなかった。


「……美衣さ。今、笑った?」


 私の問いかけに、美衣は意味が分からないとでも言いたげに眉を潜ませる。


 確かに私は現在進行形で美衣の顔を見ていたから、笑っていないことは私が一番知っている。


 なら、気のせい……なんて一言で片付けられるほど私は能天気ではなかった。


「……どしたん?」


 私の顔から不安を見て取ったのか、美衣が心配そうに聞き返してくる。


 つまり美衣は先ほどの笑い声に気付かなかったということ。


 その事実は、なおのこと私の背筋を涼しくした。


「あの、さ。さっきからなんか変なんだよね」


「ん?」


「たまーに、笑い声が聞こえてくるっていうかさ」


「え?」


 私の告白と同時に、美衣の瞳に光が宿っていく。


 私は本心から嫌なのに、美衣は知ったことではないと言った様子だった。


「さっきの? もしかしてさっきのマジモノだったの!?」


「そういうの要らないから」


 ものすごく食い気味に乗って来た美衣を一言で跳ね除ける。


 私としては冗談であってくれた方がいいのだから。


「あのさ……さっきのきちんと聞いてなかったからもう一回説明してくれない?」


 私としては、まだ半信半疑といった感じなのだが、万が一を思うと何が起きるのかきちんと聞いておきたかった。


「うんうん」


 曲がりなりにも人が死ぬかもしれないというのに美衣はとても嬉しそうだ。


 彼女の説明によれば、名前を書かれた相手は数日のうちに透明な化け物に血を吸われて死んでしまうらしい。


 そして……。


「そのお化け、つまり星の妖精が来ると、クスクス笑い声が聞こえてくるらしいよ」


「…………」


 その説明を聞いて、私は絶句してしまった。


 だって、あまりにも今の状況に合致しているからだ。


 まさか。


 そんなのあるはずがない。


 科学でなんでも説明が出来てしまうこの時代に、化け物なんて居るはずがない。


「なんで私に? 吉田先生でしょ?」


 人を呪わば穴二つとか言うけれど、それなら美衣に行くはずだ。


 私はなにもしていない。


 星の妖精とやらに狙われる理由が無い。


 理不尽だ。


 私がもやもやしている間に美衣はスマホとのにらめっこを始めていた。


 そしてしばらく経ってから頷く。


「あ~……儀式を中途半端にやったらなんかあるのかも? スクショしただけだから分かんない」


「もうっ。私のことなんだからしっかりしてよっ」


 私も美衣のスマホを覗き込んでみたのだが、教室で見た通りのものしか画面に映っていなかった。


「私が言うのもなんだけどさ。なんかの聞き違いじゃない?」


「それは……」


 美衣は手を顔の前でパタパタと振って、私の言葉を気軽に否定する。


「……そうかもしれないけど」


「そんな簡単に会えたら苦労しないってば。私が今まで何回こういうの試してきたと思ってんの?」


 確かに美衣の言う通りかもしれない。


 透明なお化けなんて掴みどころのない存在を私みたいなのが怖がるから、さも本当にあった出来事なのだと吹聴されるのだろう。


 クスクス笑いだなんて、ふとした風の音がそう聞こえることだってあるかもしれないのだ。


 一番の元凶から説得されているというのに、だんだんそれが正しいもののように思えてくるから不思議だった。


 私が安心したのが伝わったのだろう。


 美衣はふっと表情を緩めると、


「でも本物が出てきたら絶対写真撮っといて」


 なんてことをのたまわってくる。


 本当に反省を知らない奴だった。


「も~、私真剣な話してるのにっ」


 私がわざとふくれっ面をしてみせると、美衣はにししっと意地の悪そうな笑いを見せてからぱっと体を離す。


 そのまま美衣の家がある方向へと体を向けた。


「じゃね~、ばいば~い」


 私がそれ以上なにか言い返すよりも先に、美衣は手をひらひらと振って歩き始めてしまった。


 私も追いかけて文句を言うほど怒ってはいなかったので、


「はいはい、またね」


 なんて美衣の背中に告げてから家に入ったのだった。






「ふぅ~……疲れたぁ」


 家に帰ってからもやることは多い。


 ご飯食べて、宿題して、テレビ見て、お風呂入ってと色々なことを片付けていたら、時間はもう深夜近くになってしまっていた。


「あーもー、時間足んない」


 私は文句を言いながら自室の扉を開けて中に入る。


 電灯のスイッチをパチリと入れると、二、三回点滅してから光が灯った。


「…………」


 女の子にしては殺風景で飾り気のない部屋がLEDの真っ白な光の下にさらけ出される。


 私は机の上に置いてあったスマホを掴むと、ロックを外しながらベッドに移動し、ごろんと布団の上に転がった。


「あ」


 美衣からアプリで連絡が来ていることに気づき、真っ先にアプリを立ち上げる。


 そこには、あれからどう? と私を心配するメッセージが届いていた。


「そういえば忘れてたかも」


 色んな用事をすませていたら、クスクス笑いのことなんてすっかり忘れ去ってしまっていた。


 その間笑い声なんて聞こえなかったので、やっぱり私の気のせいだったのだろう。


「なんにもなかったよ……と。送信っ」


 私が送信すると、ほどなくして美衣からの返事が来る。


 そこにはとんでもないメッセージが書かれており、思わず頬が引きつるのを感じた。


「このっ! 空気が読めないにもほどがあるっ!!」


 丑三つ時には幽霊が来るよ~だなんて、反省してないでしょっ。


 も~、あったま来た!


「もしもの時の為に呪いを解く方法とか調べときなさいよ……っと! もう、私を怖がらせてなにが面白いの!?」


 返答は、ふざけた感じのする顔文字。


 これじゃあ分かってるんだか分かってないんだか理解できない。


 私はムキになってスマホの画面を叩き続けたのだった。






「くぁ……ふぁふ……」


 大きなあくびがこぼれ落ち、私はようやく我に返った。


 スマホの画面に指を滑らせると、もう深夜1時を過ぎている。


 ちょっと美衣との会話が弾み過ぎたみたいだ。


 私はスマホに、ごめん、そろそろ寝るねと打ち込むと、急いで寝る準備を済ませてくる。


 そして美衣の返事だけ確認してから布団の中へと潜り込んだ。


「あー……明日の準備忘れてた」


 後悔してももう遅い。


 私の意識は深い闇の中へと落ちて行く。


 今から体を起こすなんて不可能だった。


 明日――もう今日だけど――目が覚めてからで、なんてぼんやりと考えて――。


「――っ」


 それは確かに、ベッドが寄せられている壁の方角から聞こえて来た。


 もちろん、壁の向こうは誰もいないはずだ。


 だって、この部屋は二階の角部屋なのだから。


「うそ、でしょ……」


 思わず跳ね起きると、急いでベッドから下り、扉横にある電灯のスイッチの下まで走る。


 先ほどまでの眠気はすっかり消え去っていた。


 再び灯された光により、私の記憶と寸分違わぬ部屋が姿を現す。


 私の視線の先には、なんの変哲もない真っ白な壁と、同じ色をしたカーテンがかけられている窓があるだけ。


「もしかして……」


 ベッドの下に何かがあるかもしれない。


 私はゆっくり体をかがめて遠目にベッドを確認してみたのだが、暗くて何も見えなかった。


「スマホ……」


 スマホのライト機能で照らせば見えるだろうと思い至ったのだが、あいにくスマホはそのベッドの上に置いてある。


 見た目は何でもないただのベッドなのだが、今は何か得体のしれない雰囲気をまとっているような気がしてならなかった。


「お母さん……は無理だよね」


 怖い話を聞いて眠れない、なんて言ったら小学生? などと呆れられるだろう。


 もちろん、わざわざ起きてこの部屋にまで来て、ベッドの下を覗いてくれることはありえない。


 意を決した私は、息を潜めると、慎重にベッドへと近づいて行く。


 何も起きない。


 当たり前、何もないのだから。


 そう自分に言い聞かせ、私はスマホへと手を伸ばす。


 もちろん、何も起こらなかった。


「……なにもない。なにもない」


 そう呪文のように何度も唱えながら、スマホを操作してライトを点ける。


 四角いスマホから放たれる光が、少しだけ頼もしかった。


 私は右手でしっかりとスマホを握りしめ、左手を拳の形に握りこむ。


 そして、ゆっくりと体を屈め、ベッドの下を確認する。


「な……い……よね」


 ベッドの下は恐れていたような存在はなく、狭苦しい空間に多少の埃が落ちているだけだった。


 念のため、隅から隅に光を移動させて確認しても、なにも見当たらなかった。


 なら……私の聞き違いか、外。


 出来れば聞き違いであってほしい。


 でも、確認もせずにそう決めつけられるほど私は能天気になれなかった。


 ごくりと喉を鳴らしてから私はベッドの上にあがり、壁に耳をつける。


 なにも聞こえない。


 気配すら感じなかった。


 誰も、なにも居ないはず。


 私がいくらそう思ったところで、私自身すら納得させられないけれど。


 僅かに歪んだカーテンの隙間には、まるでこちらを覗き込んでいる白目のない瞳のように暗い闇がわだかまっていた。


「いない……いない……絶対、いない」


 運動もしていないのに私の呼吸はどんどん早くなっていき、手のひらはじっとりと汗ばんで来る。


 逃げたいという気持ちとは裏腹に、私の手はその隙間へと吸い込まれていった。


「いないっ」


 ジャッと音を立ててカーテンが開く。


 私の呪文が効いたわけではないだろうが、窓の外にはただ闇が広がっているだけで、なにも存在していなかった。


「よ、よか――」


――クスクスクスクス。


「――――――ッ」


 訳の分からない言葉が私の口からあふれ出す。


 私はベッドから転げ落ちると、そのまま四つん這いになって反対側の壁にまで移動する。


 確かに、聞こえた。


 間違いなく笑い声だった。


 子どもが出すような無邪気なものではなく、狂的な人間が出す、神経に触るかん高い笑いだ。


 それがなにも無い空間から響いてきたのだ。


 居る。


 目に見えない透明の怪物が、今そこに。


 真っ暗なガラス越しに注がれた視線が肌に突き刺さる。


 殺意でも害意でも憎悪でもない。


 もっと何か別の意味がこもった視線。


 例えるなら、じゅうじゅうと音を立てたステーキを目の前に出された人が向けるような、好奇の視線だった。


 私の脳裏に、召し上がれという呪文の一部が浮かぶ。


 そう、私は星の妖精にとって、美味しそうなごちそうなのだ。


 それに気づいてからは、もう怖くて怖くて震えが止まらなくなってしまう。


 助けを呼ぼうとしても声が出ない。


 それ以前に体が私の命令を一切聞いてくれなかった。






 混乱しきった私は覚えてもいなかったが、何度か笑い声が聞こえた気もするし、しなかったかもしれない。


 もう怖くて怖くて、例え聞こえていたとしても聞こえなかったことにしたいぐらい怖かった。


 朝になったらあの怪物が居なくなるかどうかは分からないが、こうして動かなければ襲ってこないはず。


 そんな根拠のない妄想にすがり、私は膝と両手を床につけた状態でじっと固まったまま、ひたすら時が過ぎ去るのを待っていた。


 ふと、微かな物音が聞こえ、私の意識がわずかながらほどける。


 少しずつ少しずつ、視線の主を刺激しないように顔だけを動かし、音のした方角を探ると、1メートルほど離れた場所に落ちていたスマホが鳴っただけだった。


 画面には通話アプリに写真が届いたことを知らせるアイコンが写っていて――。


「美衣……っ!」


 私はたまらずスマホに飛びついた。


 だって、こんな時間に遠慮なくメールを送ってくるのは美衣しかいないし、そんな美衣だって深夜に無駄な会話をするためのメールなんて送ってはこない。


 なら、この悪夢のような状況を打破できる情報を送ってくれたに違いなかった。


「美衣……! ホントもう……!」


 震える指で幾度となく操作を間違えながら、なんとかしてメールを開くと……。


「やった!」


 思わず歓声が漏れてしまい、慌てて口元を押さえる。


 私の予想は大当たりで、美衣が送って来た写真には、あの儀式が失敗してしまったときの謝り方が書いてあった。


 写真によれば、真夜中に名前を書き記した場所へ行き、目をつぶって呪文を唱えながらその名前を消す。


 それから頭を下げて謝ればいいらしい。


「これから……行くの?」


 私は今、この透明な怪物――星の妖精さんから狙われている。


 もしかしたら、もしかしたら窓を開けていないから入ってこられないだけで、外に出た瞬間、襲われてしまうかもしれないのだ。


 でも、行かなければ星の妖精から襲われてしまう。


「お日さまが出てても普通に襲ってくるとかだったら……」


 その先にある最悪を考えてしまい、吐き気がこみあげてくる。


 答えは最初から決まっているようなものだった。


 私はゆっくり立ち上がり、窓までにじり寄ると……。


「ごめんなさいっ」


 カーテンを勢いよく閉める。


 その際何か聞こえた気がしたが頭の外に追いやると、私は急いで出かける支度を始めた。






「つ、着いた……!」


 あれから私はバレないようにこっそりと家を出て、死ぬ気で自転車を漕ぐことで学校に辿り着いていた。


 深夜の学校は、街灯の光によってのっぺりとした無機質な顔をさらしている。


 コンクリートブロックと鋼鉄製の門が、まるで歯を食いしばっている巨人のように見えて、私は思わず背筋を震わせた。


 ――どこからか小さな笑い声が忍び寄ってくる。


 それは確実に化け物が迫ってきている証拠で、同時にある程度引き離せたという証左でもあった。


 鍵をかける手間も惜しく、私はその場に自転車を倒すと、急いで門をよじ登る。


 高さ2メートル程度の門は、さほどの苦労もなく乗り越えることが出来た。


 そのまま校舎へと走り寄ると、地面に落ちていた手ごろな大きさの石を拾い上げ――。


「……のっ!」


 ガラス窓へと叩きつける。


 学年も組も分からない教室の窓は騒々しい音を立てて割れ、辺りに白い破片を撒き散らす。


 これがやってはいけないことだとか、未来における私の扱いなんてことは、気にしている余裕などなかった。


 割れた窓ガラスから教室へと侵入を果たすと、靴も脱がずに教室を横断して廊下に出る。


 廊下はほぼ真っ暗であったが、そこは日ごろから常々慣れ親しんでいる学校なのだ。


 勝手知ったる他人の家とばかりに、私は壁に手を付け、自分の位置を確認しながら進んでいく。


 そして、ようやく目的の教室へと辿り着いたのだった。


「やった!」


 蛍光灯の弱々しい光に照らし出された黒板と、そこに書かれた文字が、今は天の助けに見える。


 こんな状況で吉田なんていうありきたりな苗字が私の命を繋ぐキーになるなんて、あまりにも滑稽でバカバカしく、変な笑いがこみあげてきそうだった。


「えっと、確か……」


 目をつぶって呪文を唱えてから名前を消して謝るんだっけって――。


「呪文覚えてないっ」


 肝心なことに思い至り、一気に血の気が引いていく。


 そこそこに長い呪文だったため、今から覚え始める時間も無かった。


「いや、隣で唱えて教えてもらうのはありだったんだよね」


 私でなく美衣が狙われていないことからもそれは明らかだ。


「だったら……」


 私は送られてきた写真から呪文をスマホのメモ帳に書き写し、更にそれをコピーしてから音声読み上げサービスのブラウザに貼り付ける。


 ボタンをタップすると、私の期待通りに呪文の読み上げが始まった。


「よかった。これであとは……」


 目をつぶって唱えるだけ。


 私はスマホを右手で持って再開ボタンに親指を添え、黒板消しを左手で持つ。


 それから黒板に書かれた名前の前に立つと――。


「お願いしますっ」


 ぎゅっと、固く両目を閉ざした。


「ティビ・マグナム・インノミナンドゥム……」


 機械的な合成音に従って呪文を唱える間、考えるのはただひたすら謝罪だけ。


 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、姿の見えない怪物に謝り続ける。


 同時に、左手に持った黒板消しを前方へと押し付け、ぐしぐしと名前を消していく。


 もしも消し残しがあって失敗したらと怖かったので、必要以上に大きく、何度も何度も手を動かし続けた。


「…………」


 呪文が終わると同時に目を開くと、正面には白い蛇がのたくったような跡だけが残っており、担任の名前はそれに塗りつぶされ、完全に消え去っていた。


 私は深く頭を倒し、


「申し訳ありません、星の妖精さん。お帰り下さい」


 心を込めて謝罪する。


 怪物に人間の心が分かるか知れなかったが、それでも反省していることだけは伝わるはずだと思った。


 信じたかった。


 私がやったことが――。


――クスクスクスクス――


 その音は、はっきりと背後から聞こえて来た。


 唐突に。


 なんの前触れも、前兆もない。


 床から突然に生えて来たように。


 教室の隅に存在していた闇の中から染み出してきたように。


 それは間違いなく私の耳に届いたのだった。


「いや……やだ……」


 無駄だった。


 無益だった。


 無意味だった。


 役に立たなかった。


 私の行動はただの徒労に終わった。


 許してもらえなかった私は狙われている追いつかれた殺される怖い嫌だなんで美衣のせいだ私は悪くない巻き込まれた殺さないでごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ。


 私の中で様々な思考が渦を巻く。


 しかし、そんな私のことなどお構いなしに、笑い声はだんだんと大きく近づいてきていた。


「やあぁぁぁぁぁっ!!」


 私は無我夢中で教室を飛び出すと、今来た道を戻り始める。


 なにがしたいのかはもう自分でも分からなかった。


 ただ少しでも遠くに、この場所から逃げたかっただけ――。


「え?」


 気づいたら私の体は宙に浮いていた。


 透明の怪物に捕まったのでは、ない。


「なに――」


 薄暗い星明りの中、ぼんやりと白いラインが浮かび上がっており、私の体はそれに向かって高速で突き進んでいる。


 自分の意思ではどうすることも出来ない。


 重力の手に引っ張られ、どんどん加速しながら――。


――グチュッ。


 床にたたきつけられた。






■□■□




「あーあ、やっちゃった」


 私の目の前で、紀乃の体が階段を転がり落ちていく。


 段差の角に頭をぶつけてもまだ止まらず、その勢いのままに体は前転を続ける。


 きっと命はない。


 確実に死んだ。


 死んでくれなきゃ困る。


 なにせ私が紀乃の足元をすくい、階段から転げ落ちる様にしたのだから。


 やっちゃった。


 その言葉は私自身に向けたもの。


 とうとう、殺しちゃった。


「アハっ」


 一緒に居るときに私がスマホで笑い声を流した。


 聞こえなかった振りをしてみせた。


 壁に接触型の振動スピーカーをしかけ、何度か笑い声を流した。


 スマホを奪ったときに、私のメール設定をシークレットにして表示されないようにしたうえで、着信音――クスクス笑い――だけ流れるように設定した。


 そして、最期は私が私自身の手でトドメを刺した。


「まあ、出したのは手じゃなくて足払いなんだけど~。なんちゃって」


 正直、私は今とても気分が良かった。


 時間があったら祝福のために、歌でも歌いながら踊りだしたいくらいだ。


「証拠隠滅しなくちゃね~」


 私は血痕を踏まないように、注意しながら階段を下りて紀乃へと近づく。


 紀乃は踊り場の辺りで全身を巨大な手でねじられでもしたみたいな、ありえない体勢で転がっていた。


「うんうん、これで生きてたらマジゾンビだわ~」


 私は死体のそばに落ちていたスマホを拾い上げると、シークレット設定を解除してメールを開いていく。


 それらのメールには、大丈夫? だとかどうしたの? といった、心にもない言葉が並んでいた。


 これを見た人たちは、私がおかしくなった紀乃を心配していたと思ってくれるだろう。


「あとは着信設定変えて~笑い声を消して~、終了っ」


 私の指紋がついていたところで、それは普通のことなのだから証拠にはならない。


 紀乃は居もしない星の精に怯え、学校に侵入して変な儀式をし、足を滑らせて階段から落ちて死んだ。


 すべては私の筋書き通り、見事に踊ってくれたわけだ。


「というか、怖がりすぎ。バッカじゃないの」


 私はなじりつつスマホを元あった場所に戻す。


 あとは私が学校の外から警察にでも連絡すればすべて終わる。


 防犯センサーに紀乃が引っかかってるだろうから早くしないと警備会社の人がやって来るだろうからそこまでしなくてもいいかもしれないが。


「じゃね~……ああ、安心して。流くんはきちんと私が貰ってあげるから」


 というか私が先に目を付けていたのだ。


 なのに紀乃はそれを知ったうえで流くんと付き合い始めた。


 私の好きな人を奪ったのだ


 だからこれは当然の罰。


 紀乃は私に殺されるべきだった。


「さて、と」


 私はその場をあとにするため踵を返す。


 その瞬間、まるで腐った糞便をこねて汚泥と混ぜたくらい気持ちの悪い笑い声が周囲に響き渡った。


「……なに?」


 私が録音していた笑い声はせいぜい甲高くて耳障りな普通の笑い声だ。


 ここまで胸をかき乱す悪趣味な代物じゃなかった。


 私は声の主を探して辺りを見回すが、辺りに変わったところは一切見られない。


 


 私はその可能性にすぐ気づいてしまった。


 だって、それは私の趣味なのだから。


「うそ……」


 星の妖精さんなんてのは、星の精とか星の吸血鬼とか言われる怪物を元に私がでっちあげた嘘である。


 だから、居るはずがない。


 全てはお話の中に出てくる想像の産物なはずだった。


 しかし、この生々しさはなんなのだ。


 先ほどから震えが止まらない。


 心臓もバクバクと暴走しっぱなし。


 嫌な汗も浮かんでいた。


「まさかそんな……」


 まるで物質かと思うほどの圧が私に襲い掛かってくる。


 どこに居るか、どんな形をしているのかは分からない。


 けれど、確実に居る。


 しかもすぐそばまで迫ってきている。


 紀乃はこれから逃げていたのだ。


 私の仕掛けなんて、こけおどしの子どもだましなんて、気にも留めていなかった。


 掛け値なしに本物の怪異から少しでも離れるために足掻いていたのだ。


 本物の恐怖を前にした私は、慌ててその場を離れようとして走り出し――


「ひぐっ」


 左腕を強く引っ張られ、バランスを崩してしまう。


 でも、床に転んだりはしなかった。


 何故なら、私の左腕が何も無い空間に吊り上げられていたからだ。


 そんな事あるはずないのに!


「はな、離してっ」


 腕の辺りにを必死になって手で振り払うと、ゴムの袋にゼリー入れたような、ぶにょりとした感触が返ってくる。


 それなのに、何も見えない。


 もう私はなにがなんだか分からなくなり、半狂乱でそれを振り払おうともがき始めた。


 だが……。


「なに、これ……」


 その透明な何かの体を、すぅっと赤い線の様なものが駆け上っていく。


 それはまるで木の枝のようにいくつにも分かれ、形を成していく。


 赤い線の正体、それは私自身。


 私を構成する存在だったもの。


 血液。


 命の源、だ。


 怪物が姿を現せば現すほど、私の体温は下がっていき、全身から力が抜けてしまう。


 先ほどまで怪物を掴んでいた右手も、今は満足に上げることも出来ずにいた。


「ああ、そうだ……」


 私は今、この怪物に食べられているんだ。


「私は……流、くん……と……」


 せっかく邪魔者を殺したのに。


 私のものになるはずだったのに。


 いくら望んでも無理だ。


 怪物の望みは私の命で、私の願いなんか聞いてくれるはずはない。


 無慈悲に私の血を貪りつくす。


 もう立ち上がる力どころか考え事をする力すら残っていない。


 瞼もだんだんと落ち、視界も狭まっていく。 


 最期の最期、私の視界に映ったものは螺子くれた紀乃の死体。


 彼女はありえない角度で首を曲げじっと私のことを見つめていて、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

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うしろのしょうめんいないいない 駆威命『かけい みこと』(元・駆逐ライフ @helpme

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