第16話

 ゴンゴンゴン!次の日の午前中、病室でテレビを見ているとドアがノックされた。赤木ちゃんのものとは似ても似つかぬ乱暴な音が病室に響いた。

「おう、久しぶりだな!調子はどうだ?」

 こちらが応答をする前にドアを開け、柴田が入ってきた。

「ああ……柴田さん。どうも」

 柴田と会っていなかったのは、ほんの10日間くらいだったが、2年くらい会っていなかったように思えた。だから正直言うと懐かしさが込み上げて来そうになったのだが、それを堪え、わざとぶっきらぼうに挨拶を返す。

「……どうだ、調子は?」

 柴田は積まれてあった丸椅子を一つ取り上げた。そして俺が横たわるベッドの脇に置くと、そこに腰掛けながら再度俺に声を掛けた。

「調子は……良いと思いますよ。順調にリハビリも進んで、松葉杖なしでもだいぶ歩けるようになりましたし」

「そうか、それは良かったな。……何だか表情も変わったな」

 柴田は俺の顔を覗き込むとそんなことも言った。

「……そうですか?自分では分からないですけど。……そう言う柴田さんも少し顔が変わったんじゃないですか?」

 以前の柴田には、今にも殴り殺しに来るんじゃなかろうか?というほどの切羽詰まった迫力があった。俺と二人で並んでいたらどっちが犯罪者か分からない……いや、クイズ『どっちが犯罪者でしょうか?』として出題していたら7割の回答者が柴田を犯罪者として選んでいたと思う。その迫力が少し薄れ穏やかになり、その代わりに憂いが増したように思えた。

「……ああ、お前にしばらく会っていなかったからな。精神衛生上だいぶ良かったんだろう、穏やかにもなるさ、はは」

 柴田が乾いた笑いを残すと、少しの間沈黙が病室を支配した。 

「……どうだ?リハビリは結構大変だったか?」 

 続けて出てきた柴田の言葉は、どちらかと言うと間を埋めるもののように思えた。

「いや、もう大変でしたよ!理学療法士の担当の兄ちゃんがドSでしてね………………………………………………………………………………………………」

 何となく柴田へのサービス精神なのか、リハビリ談をしばらく語ってしまった。


「柳田……やっぱりお前変わったよな」

 一通り語り終わった後で柴田が、そう呟いた。

「……別に実際にリハビリ体験が楽しかった訳ではないですよ。……柴田さんが語って欲しそうな雰囲気だったから応えただけですよ」

 はしゃいでいたのを笑われた子供のように気分がして、俺は一気にトーンを落とした。

「いや、その俺の状態を気にして接している……ってことがだよ。前は相手の事情なんか一切気にせずに自分の言いたいことを言ってたもんな」

「……そんなことないでしょう?前だって柴田さんとはそれなりに対話していたじゃないですか?」

「いや、以前は話を聞いているふりをして自分の言いたいことを言うだけだった。それも全て身勝手で自己中心的な極論をな。……それが今はこっちの状態を気遣って話を進めるまでになっている」

「……別にそんなに変わっていやしないと思いますけどね……」

 そんな風に分析の対象にされて話されることは、あまり楽しいことではない。刑事と犯人とがそういった関係性にならざるを得ないものだとしても、積極的に協力したい話題ではなかった。

「じゃあ少し質問を変えるか。……この数ヵ月に及ぶ入院生活はどうだった?」

「どう?……って退屈で死にそうですよ。とっとと死刑にしてもらって構わないですよ」

 俺がそう答えると柴田は少し笑った。俺の渾身の死刑ギャグが通じたというよりも、もう少し悲しげな笑い方だった。そしてもう一度真剣な表情を作って俺に向き直った。

「……本当か?本当にこの数ヵ月は退屈でたまらなかったか?」

 柴田の言い方は懇願するようなものだった。めんどくせえな……と軽くため息をつきながらも柴田の熱意に負けて、もう一度この数ヵ月を振り返ってみる。どんな事実があったかは覚えていたが、その時に自分がどう感じていたかは覚束ない。

 「どうなんでしょうかね?……今までの、ここに入るまでの生活がどうだったか、っていうことをあまりはっきりとは思い出せないような気がしますね。何だか徐々に記憶が薄れていっているような感覚ですね」

 柴田が沈黙を作ったため、何らかの答えを出さざるを得なかった。柴田の聞きたいことがこれだったのかは少々疑問だったが、自分の口から出てきた言葉は本心だったと思う。

「それは、ここでの生活の方が幸せだったってことなんだろうな」

 心理学者の柴田が顔を覗かせる。

「いや、そんなわけないでしょ。寝たきりの生活がどれだけ長かったと思ってるんですか」

 俺は苦笑しながら答えた。入院生活の方が幸せなんて、人権派のうるさい連中が聞いたら激昂しそうな文言だ。

 だが柴田はもう答えは出たとでも言わんばかりに、何やら一人頷いていた。

「結局のところ人は環境による、と以前お前は言っていたが……確かにそうなのかもしれんな。……お前はこの入院中に生まれて初めて人の温もりに触れて、それでようやく人間らしい気持ちが芽生えてきたんだよ」

 柴田の呟くような声に、俺はハッとした。

 それは俺が確かに自分でも感じていたことだったのかもしれない。少し驚いたし、反発したくもなったが、スッと胸の内に落ちていく言葉だった。

「……確かに、こんなにきちんと人に優しくされたのは初めてかもしれません」


 担当医師のヒョロガリメガネの顔が浮かんだ。感情の変化の全く読めない何を考えているか分からない男……という印象は数ヵ月経った今も変わらないが、彼の誠実さを疑ったことはない。本人は決してそれを大っぴらに言葉にはしないだろうが、彼の奥底に流れる患者を救いたいという気持ちは間違いなく熱いものだ。

 俺のリハビリを担当した玉木とかいうドS理学療法士の兄ちゃんの、ニヤついた顔も浮かんできた。本心の読めないタイプだし、そもそも医療従事者でありながら患者を労る心を持っているのかすら不明だが……まあコイツのお陰というか、コイツのせいでリハビリを頑張ってしまったのは確かだろう。

 他の看護士の顔も様々に浮かんできた。つい苛立ちをぶつけてしまった若い体育会系の看護士も居たし、ベテランのちゃきちゃきしたおばちゃん看護士も居た。他にも顔見知った看護士と理学療法士が何人も居た。

 そして……赤木ちゃんである。彼女の常にきめ細かい看護と明るい人柄がなければとっくに俺の精神は破綻していただろう。いや舌を噛み切って自殺していた可能性が高い。彼女の存在があってもそれを何度も考えたのだから。……確かにこの短い入院生活の方が幸せだったのかもしれない。

「……あれですね。病院の人たちって……スゴいんですね」

 短い回想の末、俺から出てきたのはそんな子供みたいな感想だった。

「ああ、そうだな。……本当に頭の下がる人たちだ。仕事っぷりももちろんだが、こうしてお前のような人間の心をもこうして動かしてしまったのだからな」

 そう言うと柴田はキザっぽく少し笑った。……お前を誉めてるんじゃねえからお前は偉そうにするんじゃねえよ……とは思ったが、言った内容に関して異論はないので黙って頷いておいた。


 お互いに曖昧に笑い合ったあと、柴田がまた口を開いた。

「ここ最近お前の所に来なかったのはな……遺族の方々の所に行っていたんだ」

 柴田の言い方は、義務感から伝えなければいけないことを絞り出すようなものだった。

「へえ、そうですか」

 俺の答えは自分で思っていたよりも冷淡なものだった。いまさらそれを知ることが俺にとって何の意味があるのだろう。

 だが柴田は構わずに続けた。

「……悲しみに暮れている方も多いが、お前に対する憎しみも強い」

「ま、そりゃそうですよね」

 俺は努めて明るく答えた。他にどうできると言うのだろう。 

「……ほんのごくわずかだが、お前を殺したいということを……はっきりとではないが、口にする遺族の方も存在する。……これは事実だ」

「へえ、良いんじゃないですか?法律ってのは何だかんだ理屈を付けて高尚なものみたいに思われてますけど、要は復讐ですからね。いいと思いますよ」

 他人事みたいな物言いになったのは、それが現実感のある自分のこととは思えなかったからだ。今の俺の頭はそうしたことをリアルに想像する能力を失っていた。

「……なあ、柳田。今のお前にもう一度訊く。……遺族の人たちに謝罪する気はないのか?」

 物言いとしては尋ねる形式だったが、柴田の表情は懇願そのものだった。

「……全ては必然なんですよ。どんな人間のどんな行動にも理由がある。……意志の力で全てを決められるというのは、人間の思い上がりだと俺は思いますね」

 柴田の問いかけに対する答えとしては的外れなものに思われるかも知れないが、俺にとっては精一杯の誠実な答えだった。

 柴田は少し悲しそうな顔をした。あるいは今の俺からならば素直な謝罪の言葉が聞けると思っていたのかもしれない。

 遺族へ俺の謝罪の言葉を伝えることが出来たならば、柴田にとって大きな成果なのだ。そのことは理解出来たし柴田の願いを叶えてやりたい気持ちも少しはあったが、俺にとっての真実をねじ曲げることは出来なかった。

 柴田はそれ以上は追及して来なかった。短いやりとりではあったが、俺の返答も軽い気持ちから出たものではないことが伝わっていたのだろう。

「……確かにお前の言う通りなのかもしれないな。この数ヵ月でお前の精神状態は明らかに変わった。そのことが何よりの証拠なのかもしれない」

 軽くため息をつきながら柴田は呟いた。

「俺の周りがここの人たちのような人間ばかりだったなら……俺もこんな風にはならなかったのかな、と思いますよ」

 俺はまた努めて明るく軽い口調でそう言ったが、それを聞いた柴田の顔は悲しげだった。

「……俺は複雑だよ、お前の変化が嬉しいような気もするし、ここでの穏やかな生活を遺族の方々が見たら何て思うだろうか?……という気もする」

 答える代わりに俺は少し笑った。

 柴田は俺の敵とも言える立場ではあるが、今となっては一番の理解者とも言える存在である。そして恐らく柴田と深く話す機会はもうあまり多く無いだろう。だから今、柴田には俺の気持ちを余すところなく全て伝えるべきだということも分かっていた。   

 だがこんな時でも俺はこれ以上何を伝えることが出来るのか分からなかった。言葉を紡げば紡ぐほど確信は薄れていったし、自分が本当にそう思っているのかさえ分からなくなっていった。俺が今まで柴田に言ってきた言葉も本当にそう思っていたのか、振り返るほどに確信は薄れていっていた。……人間の信念なんてやつは脆いものだと思う。

 

 柴田がもう一度口を開いた。

「なあ柳田……俺がこの事件の担当を買って出たのは純粋に怒りからだ。そして根底では今も変わっていない。……だけどこの数ヵ月、お前の事件の担当になって色々なことを考えさせられたよ。お前との面会は刑事としての本分を大きく踏み外した領域だった。……俺は今後もっと人間というものに興味を持って刑事という職に当たることが出来るような気がする。俺はお前のことをずっと覚えているよ」

「……ふーん、そうですか」

 まったく、キザな物言いだ。こっちが恥ずかしくなる。

 だが柴田はこっちの気持ちなどお構い無く、そのテンションのまま続けた。

「なあ柳田、聞いたことがあるか?人間の死には二種類あるという。一つは普通の肉体的な死。そしてもう一つは記憶に於いての死だ。誰からも忘れられた時に人はもう一度死ぬのだと言う。……俺は決してお前のことを忘れないよ」

「柴田さん、それマジで言ってるんですか?……その理論で言えば間違いなく俺の方が長命でしょうね」

 現代犯罪史上に残る大記録を残した俺こそが、誰よりも長生きということになる。担当した刑事の名前など残りもしないだろう。

「……確かにな。これは撤回しよう」

 気まずそうに柴田が言い、それから二人で顔を見合わせて少し笑った。






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