第15話

「じゃ、離しますね~」

 相変わらず玉木とかいうドS理学療法士の兄ちゃんの言葉は軽く、あまり感情を感じなかった。

「んじゃまあ、とりあえずここまで歩いて来ちゃって下さい」 

 10メートルほどをスタスタと先に歩くと、振り返り実に軽い口調でドS兄ちゃんはそう告げた。

(……まったく!このガキが……)

 実に1ヶ月ぶりに、松葉杖もなく自分の足だけで歩く……という一大イベントなのである。大袈裟な応援とかは要らないが、もうちょい思いやりというものがあっても良いんじゃないか?……アンタも医療に従事する人間ならばよ!と思った。

 だがまあその怒りを口にして発するのは野暮な気がしたので、怒りをエネルギーにして足に込める。

 松葉杖での歩行はもう何十分も連続で出来るようになっていた。この3日間は椅子から立つ、座るという繰り返しも何回も行っていた。筋力的にはもう何の問題もなく歩けるだろう……というのがドS兄ちゃんの見解だった。自分でもイメージトレーニングを行い歩く感覚は思い出せていたし、夢の中では走り回っていた。

 もう機は熟したというべきだろう。

 俺は満を持して歩き出した。

「……う、ぐ……」

 イメージしたよりも何倍も足が重い。苦労して出した一歩がほんの少ししか伸びない。軸足にかかる痛みにうずくまってしまいたくなる。

 だがそれでも……カッコ悪くても小さく一歩を刻んでゆく。今出来ることはそれだけだった。

 薄ら笑いを浮かべているドS兄ちゃんまでのほんの10メートルが何倍にも感じられた。だが、どれだけ時間がかかったとしてもそこに辿り着きたかった。

 

「……バーカ、見たかこの野郎」

 死ぬ気で辿り着いても相変わらずの薄ら笑いを浮かべている兄ちゃんに俺は悪態をついた。今ならばそれも許されるだろう。たった10メートル歩くのに2、3分はかかったような気がする。いや実際はもっと短かったのかもしれないが俺にはそう感じられた。 

 無論、気分は最高だった。

 ……パチパチパチパチ。

 誰かが手を叩いていた。後ろを振り返ると赤木ちゃんだった。

 彼女につられてリハビリ室に居た他の理学療法士と看護士たち数名から拍手が起こった。

 それは俺が人生で受けた最初の拍手で……そして恐らくは最後の拍手だった。

「……ホントに、よく、がんばりました……ね」

 赤木ちゃんが嗚咽混じりに声を掛けてきた。

「……おい、何でアンタが泣いてるんだよ?」

(……コイツらはなぜ俺の為に拍手してるんだ?)

 一体どういう神経をしているのだろうか?……俺は何人もの人間を殺したもうすぐ死刑になる人間だというのに。

 赤木ちゃんにつられたのか、他の看護士たちも涙ぐんでいるようだった。

 俺にはまるで理解が出来なかった。

「まったく、ダメですよ柳田さん。こんなに何人もの人間を泣かせちゃあ」

 ドS兄ちゃんが笑いながら声を掛けてきた。コイツの眼はカラカラに乾いているようだった。

「いや、玉木さん。あなたのお陰で自分もここまで回復することが出来ました。ありがとう!」

 『玉木さん』などと呼んだことは今まで一度もなかったが、ちょっとコイツも泣かせてみようか?という悪戯心で頭を下げてみたが……コイツにはまるで効果がなかったようだ。相変わらずのヘラヘラした笑顔を崩すには至らなかった。

「まだまだここからですよ。ここからはバキバキのシックスパックの腹筋を目指してトレーニングをしていきましょうね!」

「お、おう。……がんばろう!」

 ノリはいまいち分からなかったが、とりあえず合わせておいた。


「本当によく頑張りましたね」

 部屋に戻ると赤木ちゃんが再びそう言ってきた。

「……おい、また泣き出すんじゃないだろうな」

 あの場は他の人間も多く居たから誤魔化しも効いたが、二人しかいないこの場で泣かれるのは気まずいことこの上ない。

「……別に私、泣いてなんかいませんけどね」

 彼女はすねたように、プイッと横を向いた。

 そんな表情を見たのは初めてだった。

(……ああ、そうか彼女も普通の年頃の女性なんだな)

 それまでは個人的な感情など一切見せず、常に患者である俺を第一に気遣う姿しか見せてこなかった。

 若いといえど看護士という職業を選んだプロならばそれも当然……と俺は思ってしまっていた。

 ……そんな訳はないのである。彼や彼女たちがどれだけプロであろうと、それ以前に一人の人間である以上、様々な感情を抱いており時と場合に応じて表すことを選んでいるだけなのだ。

 そんな当たり前のことに気付くのに、俺はどれだけの時間をかけたのだろうか? 

「なあ赤木さん、本当にありがとうな」

 色んな意味をこの一言に込めて済ましてしまうのは、ズルいやり方だと分かってはいたが……俺に出来る精一杯の誠意だった。

 


「柳田さん、今日はシャワーどうしますか?」

 少し経ってから彼女はそう告げてきた。

「ああ、そうだな。お願いするよ」

 夕食の前にシャワーを浴びることが日課になっていた。

 もちろんまだ一人では入浴もシャワーも行えないため、補助をしてもらいながら……という形になる。

 実は補助してもらいながらとはいえ、それが出来るようになったのもここ最近のことである。それまでは清拭といって、お湯や石鹸を用いて体を拭くだけで済ませていたのだった。再び熱いシャワーで頭をシャンプー出来るようになった時の快感は忘れ難いものだった。  

 赤木ちゃんに付き添われ、松葉杖を用い浴場へと向かう。歩けるようになったのはリハビリの中でほんの僅かに過ぎない。まだ今日の今日で実生活に取り入れるのは難しいだろう。だがすぐに浴場まで歩くこと自体がリハビリになることも分かっていた。

「じゃあ頭だけ先に洗っちゃいますね」

 衣類を脱ぎ、シャワー室の専用の椅子に腰掛けると、いつもの流れでそうなった。

 俺の身体機能はほとんど日常生活に支障ないまでには回復しているのだが、肩はまだ万全ではなく長時間手を頭上に上げておく動作は負担が大きかった。そのためシャンプーだけは彼女にしてもらうことが恒例になっていた。

「お湯の熱さは大丈夫ですか?」

 彼女はいつも通り、一度自分の手で温度を確認してから俺の手にお湯を当てて温度を確認させた。

「ああ、大丈夫だ」

 人はほとんどの場合、会話することでその人のことを判断するが、実はそれ以外にも人間性が出る場面というのは無数に存在する……ということが俺には最近になって分かった。

 例えばこのシャンプーである。普段は誰に対しても明るく柔らかい接し方の赤木ちゃんだが、シャンプーをする彼女の手つきは意外と力強い。彼女の本来の性格には実は強引で力任せな部分があるのかもしれない……という気もしたし、あるいは色々な感情を抱えているのかもしれない……とも想像させた。そういった部分を知っていると普段の彼女もまた違って見えてくる気がする。無論それだけで彼女の本質が分かる筈もないのではあるが……。

「どうですか?痒い部分はないですか?」

「ああ、気持ち良いよ」

 今日の彼女のシャンプーはとても繊細な気がした。細かい部分全てを丁寧になぞっていっているような感じだ。俺のリハビリが上手くいったことを彼女は本当に喜んでいるのかもしれない、という気がした。

(……いやこっちは一患者だぞ)

 自分の中に浮かんできたそんな思考を自嘲気味に打ち消す。彼女にとって俺は無数に接してきた……これからも無数に接するであろう患者の一人に過ぎないのである。患者一人一人にイチイチ感情移入していては看護士としては心が持たないであろうし、そうしないように、という教育も受けてきているだろう。

(……だがまあ彼女も看護士といえど一人の人間だ。そこに感情が無いはずはないよな!)

 彼女の本心なんて分かる筈がない。それは立場がどうとか性別がどうとかそういう問題ではなくて、彼女が単純に他人だから原理的に確かめようがないのである。

 じゃあ別に彼女の気持ちを俺の中で勝手に捏造しても問題ないんじゃないか?という気がしてきた。 

 どうせ残り短い命なのだし、よく分からないことは全部自分に都合良く考えれば良いんじゃないか?という風に……つまり彼女は俺の回復を心の底から喜んでいるし、純粋に人として俺に対して好意を持っている……みたいにである。

「……ぷっ」

 自分で妄想しておきながら思わず吹き出してしまった。

「大丈夫ですか?お湯入りましたか?」

「いや、全然大丈夫」

 俺の妙な笑顔に少し不思議な顔をしたが、赤木ちゃんはシャンプーを続けてくれた。

 自嘲気味の気持ちは強かったが、それでも俺はさっきの妄想をもう少し続けてみることにした。

 そう思うと彼女のシャンプーの手つきはとても愛に溢れているように思えた。

 それと共に俺は急に恥ずかしい気持ちを覚えた。……全くもって男という生き物がバカなのか?単に俺がバカなのだろうか?

「はい、終わりましたよ。体の方は自分で洗ってくださいね」

「ああ、ありがとう」

 ふとシャワー室内の鏡に写った彼女と目が合う。軽く目だけで微笑んだ彼女に、慌てて俺は目を逸らした。 

 さっきの妄想は未だ健在のようだ。

(……まあ、あれだよな。要は彼女が若くて性的に魅力的だからこうした妄想が成り立つんだよな)

 妄想は一種のゲームとしては有益かもしれないが、どこかでバランスを取って置かないといけない……と本能的に考えたのか、俺は客観的な目線を持ち出してきていた。

 彼女の実際の年齢は聞いたことがなかったが恐らく20代半ばだろう。顔も可愛いしスタイルも普通だ。一般的に言ってモテるタイプだろう。

 対して俺は……まあ比較するのも烏滸がましい人間ではある。30才という年齢は別に良いとしても、実年齢よりも圧倒的に老けた顔だ。というか人間としての品性の無さが顔に表れている。さっき鏡越しに彼女と顔が並んだ瞬間、少しゾッとしたものだ。これを同じ『人間』として分類してもいいものなのだろうか?と。

(……そんな二人が身体的に接触するなんて、やっぱ大量殺人はしておくものだねえ)

 ……一応フォローしておくとこれは誰にも伝わらない殺人犯ギャグである。本心ではない。

 まあ世の中には不思議な廻り合いがあるものである。


 病室に戻り、夜が来て、消灯時間になっても何となく気分は良かった。

 無論リハビリが上手くいったという事実がそれを支えていたことは間違いないが、赤木ちゃんが俺に好意を持っているという妄想の効果もある気がした。これからも時々はそれを利用しても良いのかもしれない。

 そう意識し出してからは、日常生活の様々な場面で彼女とは身体的に接触していることが思い出されたし、その意味も変わってくるような気がした。シャンプーなんてその権化だろう。

 彼女のシャンプーの際の指使い、体温、髪の匂いなどが思い出された。

(……まああれだな。多分男という生き物は実に単純に出来ているんだろう)

 要は自分のリハビリが上手くいったことをきっかけに、少し精神的に余裕の出来た俺は、そこで初めて赤木ちゃんの魅力を意識し出してこうして心をウキウキ(笑)させているだけのことなのだ。

(ってことは、もっと以前に彼女と接することがあったならば、俺は殺人を犯すことはなかったのだろうか?)

 彼女とのラブストーリーでも妄想しようかと一瞬思ったが、流石にやめておいた。その行為が恥ずかしいとか、明日実際に彼女に会った時に照れ臭いとかそういうわけではなく、単純に自分の惨めさを再確認する要素の方が大きいだろうからだ。 

 少し方向性を変更して、全体のことを考えてみる。

 さっきも言った通り、男というのは単純なものだ。身体的接触を意識しだした途端にこうも俺の心が動いていることが何よりの証拠だ。これは俺一人だけでなく男一般というものがそうなのだと思う。

(そうだ!「ある程度若くて美人な女は定期的にハグ会を開かなければならない」と法律で制定するのはどうだろうか?) 

 ノブレス・オブリージュというやつだ。持てる者は持たざる者に与えなければならないのだ!

 まあ実際そんなことを言い出す政治家が現れれば、人権派だとかフェミニストだとかが烈火のごとく怒り出すに決まっているのだが、そうすれば犯罪は減ることは間違いないだろう。

(……いや、そうなると中途半端に刺激された男たちの性犯罪が増えるのか?)

 ……起こり得ない世の中の変化について様々に思考は及び、その夜は更けていった。






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