第14話

「は~い柳田さん、じゃあ後10回いってみましょうか?」

「……ムリだ、もう1回も足が上がらない」

「あ、全然いけますよ。はい、1、2……」

「……クソが!」

 歩くことを目的とした本格的なリハビリが始まっていた。

 事件の際に吸い込んでしまった毒ガスの影響で麻痺していた神経系はもうほとんど回復してきている……と例のヒョロガリメガネが教えてくれた。衰えた筋肉を戻し、歩く動作を身体に再び染み込ませるには、とにかくリハビリしかない……のだそうだ。

 寝たきりになっていたのは1ヶ月程度だったから、ちょっと慣れればすぐに歩くくらいはすぐに出来るようになるだろう……と高を括っていたが、そんなに甘くはなかった。

「柳田さん、現状の筋肉では3分も立っていられないと思いますよ」

 担当に付いた理学療法士の兄ちゃんが、最初に測定をした際に言ってきた。

 ちなみにこの兄ちゃんが、リハビリはほぼ付きっきりで見てくれている。雰囲気や語り口は中性的というか……むしろ女性的な雰囲気のするナヨナヨした印象だったので正直なめていたのだが、リハビリになると決して妥協を許さないドS兄っぷりを発揮してくる。

 

「疲れた……本当に疲れた。……めちゃくちゃ筋肉痛だし」

 病室に戻ると独り言が自然に漏れていた。

「どうしたんですか?珍しいですね、柳田さんがそんな弱気なことを言うなんて」

 リハビリの場所に車椅子を押してくれたのも例のドS理学療法士兄ちゃんだったため、赤木ちゃんと顔を合わせたのも、ものすごく久しぶりな感じがした。実際には2時間も経っていないのだが。

「……なんなんだよ、あのリハビリの兄ちゃんは……」

「ああ、玉木さんですか?あの人は病院内でも結構有名なんですよ」

 こっちの辛さを知ってか知らずか、赤木ちゃんはクスクスと笑っていた。

「……いや笑い事じゃなくてだな。……痛さと辛さを思い出しただけで泣きそうだぞ、マジで」

 こっちが大真面目に言っても彼女は相変わらず笑っていた。

「すみません。でもあの人、それだけリハビリの技術も確かなんですよ?3ヶ月かかるだろうと言われていたリハビリを2ヶ月で完了させたり、『リハビリなんかするくらいならもうこのまま死んでも良い』って言っていた患者さんを回復させたり……そんなことが多いんですよ」

「その分、患者が途中で自殺したり逃げ出したりっていうケースも多いんだろ?アイツの追い込み方は半端じゃないぞ!」

「ふふ、そんなことありませんよ。玉木さんも患者さんの状態を観察して、無理なやり方はしませんから。……柳田さんならこれくらいは耐えられると判断してリハビリを行っているんですよ」

(……ホントかよ?アイツは人の苦しむ姿を見て快感を覚えるタイプの人間だろ、絶対!)

 彼女はリハビリの現場を見ていないから簡単にそんなことが言えるのだろう。


 最初の1週間はリハビリが本気で苦痛だった。

 リハビリが行われる午前中の時刻が近付くと憂鬱になったし、なんとか仮病を使えないか?とも思った。

 だが俺の意志とは関係なく、身体はみるみると回復していった。

 最初はほとんどこなせなかったリハビリの種目が出来るようになってきた。

 太ももとふくらはぎの筋肉、それに尻の筋肉も明らかに大きくなった。いや、元々これくらいの筋肉はあったのだろう。戻ってきてから初めて失われていたことに気付いた。

 筋肉を動かすと全身の血流が増え内蔵の働きも活発になるそうだ。

 その結果飯も美味く感じるようになってきた。筋肉を増やすためにタンパク質の摂取量を増やすとかで、出される食事の量も増えたし肉が出てくることも多くなった。もちろん病院食だから、一般的にイメージする肉料理とはほど遠い薄い味付けのものばかりだが、それでも俺は満足した。

 辛い辛いリハビリだったが、こうも明らかに好循環してゆく身体をまざまざと感じさせられては、前向きに取り組まないわけにはいかなかった。

 例えそれが俺を死へと急がせることになろうともだ。……いや、実際にはそのことについて考えることがあまりなくなってきた。目前にある目標と気持ちの良いことだけを考えて生きてゆけば良いのだし、そうするしか俺にはなかった。


「もう秋ですねぇ……」

 赤木ちゃんが感慨深げに呟く。

「うん?……ああ、そう言われればそうだな……」

 俺は最初その言葉の意味が分からなかったが、彼女の視線が周囲の木々に向いていることに気付いて初めてその意味を理解した。

 病院内の銀杏の葉がもう黄色く色付き始めていた。

 事件が起きたのはまだ夏の始めの頃だった。それからもう3ヶ月ほどが経とうとしていた。

 俺は病院の敷地内を松葉杖を使い歩き回り、赤木ちゃんがそれに付き添っていた。もちろんこれもリハビリの一環だ。1週間ほど前から松葉杖を用い歩けるようになると、リハビリは部屋の中から病院内の屋外に変わった。

(……こうやって周りの景色を見るなんて、いつぶりだろうか?)  

 いつぶり、というか周りの景色に思いを馳せたことが、今までの人生の中で果たしてあったのかも怪しいものだ。

 東京に出てきてからは間違いなくそんな時間は無かった。かと言って地元で生活している時にもそんな余裕があったのかは分からない。少なくとも思い出せる範囲ではそんな記憶はなかった。

「どうしますか?もう1時間くらいになりますけど?」

「ああ、もうそんな経ってたのか?……じゃああと10分だけ」

「分かりました、がんばりましょう!」

 赤木ちゃんはいつもの微笑みで延長を許してくれた。

 そうなのだ、松葉杖で歩き回れることが楽しくなってきていたのだ。むろん歩き回れるのは病院の敷地内だけだし、常に看護士の誰かが付き添いながらという条件付きではあるが、それでもその中に俺は自由を感じていた。どんな状況でも人はその中に自由を見いだせるのだ。

 1週間も同じ時間に歩いていれば顔馴染みの人間も出来る。俺は自分から挨拶をすることはなく、向こうからきた挨拶に頭を軽く下げるだけだが、その儀式が嫌ではなくなっていった。挨拶なんて無駄なものがなぜこの世に存在するのだろう?と今までずっと本気で思っていた俺がである。

 リハビリを続けるうちに俺は早く自分の足で歩きたいという気持ちが大きくなってきていた。たとえそれが自分の死を早めることになろうとも……ということに関しては考えなくなっていた。俺にとって歩くことは、一般的な日常生活を取り戻すための手段ではなく、もはや歩けるようになることが人生の大きな目標になっていたのだ。






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