第9話
相変わらず柴田は毎日10時に取り調べに来るが、お互いにとってあまり実りのないものになってきていた。
「柴田さん、明日から食事が固形食に変わりますが、大丈夫でしょうか?」
ベッドに起き上がれるようになってから3日後の午後、いつもの女性看護士……赤木ちゃんが病室に入ってきて言った。
「ああ、そうか。大丈夫だよ」
ここ最近は目に見えて体調が回復してきていた。
まだベッドから下りられてはいないが、起きている時間と眠っている時間とのメリハリがはっきりと出来たことは体調面でも精神面でも好循環をもたらした。
俺が起き上がれるようになったことに伴い、病室にはテレビが設置された。
自分の部屋には置いていなかったので、テレビを日常的に観るのは母親と暮らしていた5、6年振りのことだった。
そのため最初は違和感があったのだが、他にすることもないのでずっと点けているうちに慣れてしまった。消灯時間が来て電源が落とされると落ち着かないほどだった。
赤木ちゃんが言った通り翌日の朝食から食事が変わった。
まだお粥にスープといった半分流動食みたいなものが多かったが、卵焼きや果物といったものも少し出た。
手も動かせるように回復してきていたので、リハビリも兼ねて自分でスプーンを使い口まで運ぶように、ということだった。
(……なんか、幼児に戻ったみたいだな)
思わず自嘲してしまった。
食事をこぼしても問題ないように胸元にはナプキンが巻かれ、傍らでは赤木ちゃんが(頑張れ!)という視線で無言のエールを送り、思い通りに動かない右手で先割れスプーンを必死に操りお粥を口許まで運ぶ様は、幼児か赤子の食事風景そのものだ。
それでも覚束無い手元で運んだ食事は満足感をもたらし、久しぶりに自分が人間であることを思い出させてくれた。
「よく頑張りましたね」
それまで何も言わずに傍らで見ていた赤木ちゃんが、本当に感動したような声を掛けてきた。
「……止めてくれよ、赤ん坊に戻ったような気がして恥ずかしかったぞ」
「あら、すみません。でも今日は初めてでしたし、何か不自由があるといけないので見守るようにという先生の指示だったんですよ」
そう言うと彼女は柔らかく微笑んだ。
「お母さんは優しい方だったんですね」
続けて彼女が放った言葉は、あまりに自然な流れで他意のないものに思えた。
「ああ、そうだな。……いや、どうだったんだろうな?よく分からん」
自分が赤子の時の記憶は無いから、実際のところは確かめようが無い。
自分の母親を他の母親と比べることは出来ないが、普通に考えれば唯一の肉親が真っ当な人間だったならば俺はこんな人間になってはいないんじゃないだろうか?
返事をしてから核心的なことを訊かれていたのだと気付いた。
「……あんたは……赤木さんはどうだったんだ?」
ややバツの悪い気持ちを誤魔化すために、話を彼女の方に振った。
「私ですか?私の家は……普通ですよ」
俺が彼女を固有名詞で呼ぶのは初めてだったが、そのことに反応しなかったのは彼女なりの優しさだったのかもしれない。
「……いや、どうだったんでしょうかね?……こうして看護士として今働けていることを考えれば、恵まれていたのかもしれませんね」
彼女も俺と同様にすぐに内省し、言葉を濁した。
それが彼女の本心だったのか、俺に気を遣って合わせたのかは分からない。
まあ自身の出自を問うこうした類いの質問に対して『普通』なんて答えられる人間は300パーセント幸せな人間に間違いないことを俺は知っている。
コンコンコン。
ドアがノックされた。もう何度も聞いた音だ。返事を待たずに柴田が入ってきた。
「よう、どうだ?調子は?」
もう10時になっていたのか。赤木ちゃんと話しているうちにいつの間にか時間が経っていたようだ。
「柴田さん!柳田さん、今日から自分で食事が出来るようになったんですよ!」
彼女の言い方はまさに自分の赤ん坊を他家の親に自慢するようなものだった。
「そうか。それは良かったな……どうだ久しぶりのちゃんとした食事は?」
……こっちは父親か?
「……まあ、悪くはないですね」
今までだったらこうした質問には「それが事件と何の関係があるんですか?」と答えて話が広がらないようにしてきたのだが、彼女の作った空気の為かそう逃げることは難しかった。
「お前、食べ物は何が好きなんだ?」
敏感にそうした空気を察したのだろう。柴田はそんな簡単な質問をして、俺との会話を繋げようとしてきた。
「……肉ですかね。ウチは鶏肉ばっかりでしたけどね」
「ん?宗教上の理由とかか?」
柴田は本気で訊いているのだろうか?
「……経済的な理由です」
「お、おお……。そうか。すまん」
賢い人間がたまに抜けているのはギャップがあってチャーミングなものだが、この場合は多少イラッときた。その質問をしたことよりも謝られたことに対してだ。
「……」「……」「……」
少しの沈黙を破ったのは柴田だった。
「どうだ?子供の頃、毎週末外食に行けるような家庭に憧れはあったか?」
「ふっ、何ですか。その質問は?……まあそうですね。何の苦労もせずに幸せそうな同級生にはムカついてましたね」
「母親に対してはどう思ってたんだ?」
柴田の質問が急に核心を突いたものになった。
「どう?って……そんなの一言じゃ言えないですよ?大切に思うこともあるし嫌になることもある……誰だってそんなもんじゃないですか?……まあでも母親は片親で一生懸命俺を育ててくれたと思います。俺が働き出してからは多少は楽をさせてやれたんじゃないかと思いますよ」
「そうか、お前も大変だったんだな。……俺も気持ちは分かるよ」
大量殺人犯の気持ちが分かる、と言う刑事は正気なのか?と思ったが、まあ柴田なりの気遣いなのだろう。
「いや、柳田……本当にお前の気持ちが分かるんだよ」
俺の微妙な表情を読んだのか、柴田は言葉を続けた。
「俺の家も母子家庭でな。子供の頃は……まあそれだけが原因ではないのかもしれが、俺は周りの子たちと喧嘩ばかりしていた。とにかく何かに対して怒っているような子供だったな。色々紆余曲折を経て、警察に入って、刑事になった今も俺の本質は変わっていない気がするな。刑事という仕事を続けてきた動機も、市民の幸せを願ってというよりも、悪事を働く犯人たちが許せない!という気持ちの方が圧倒的に大きい」
「なるほど、そうですか。……まあ警察と犯罪者なんて親戚みたいなものですからね」
俺は適当な相槌を打った。柴田の自分語りが全くの嘘ではないだろうが、100パーセントの本音ではないような気がしたからだ。いくら俺からの供述を引き出す為とは言え、取り調べをする側がそんなに簡単に自分をさらけ出すものではないだろう。
「……俺は自分の生まれを憎んだよ。どうしてもっとまともな家庭に生まれなかったんだろう?って。……柳田、お前もそうなんじゃないか?」
「ああ……そういうことだったんですね」
柴田がどういう方向に話を持っていこうとしていたのかが、ようやくはっきりと見えてきた。まったく、回りくどいやり方をしやがる。
言っておくが全くの的外れだ。こんな類いの誤解をされたままでは俺のプライドに関わるので、少しだけ訂正させてもらう。
「言っときますけど、俺が事件を起こしたのは家庭的な環境に起因する不幸を原因に……とかいうものではないですよ。……前にも話したと思いますけど、俺はこの日本を少しでも良くしたいと思ってこの行動を取ったんですよ。柴田さんともあろうものがずいぶん安直な考えに行き着きましたね」
俺はこうしたステレオタイプに物事を分類して理解してしまおうとするやり方が、何よりも嫌いだ。そんな一面的な物の見方しか出来ない人間こそが不平等と不幸を産み出してきたんじゃないのか?
「……だとしたら何か他に方法は考えなかったのか?」
前に同様の話をした時はあまり本気にしていない様子だったが、今回は沈痛な面持ちで尋ねてきた。
「コツコツと小さいことを積み上げてゆくやり方もあるんでしょうが、俺には向いていなかったんですよ。……学もなく人望もない俺が社会的な影響力を持つ人間になるのは難しいし、時間がものすごくかかってしまう。日本の状況はもう差し迫ったものになっているのに……すごく歯痒い想いをしたこともありました。でも俺はヒーローになる方法を思い付いたんですよ!」
「……ヒーロー?」
「そうです!結局、自分自身の保身を考えているから何も行動できなくなっている部分って誰しも絶対あって、そこを俺は飛び越えることにしたんですよ。だって……どんな風に生きたって結局は死んでしまうじゃないですか?だったら小さな道徳だとか法律の前に自分の大義を見失ってはいけないなと思って」
「…………」
柴田は不審な顔で俺の話を聞いていた。
「だから、そこを飛び越えればヒーローになれることに気付いたんですよ!自己犠牲の精神でもって世に蔓延るゴミを一掃するヒーローです!しかもゴミの処分に関しては、誰もが早く処分したいと願っていながら、どう処分すれば良いのか分からず困っている……そんな状態を打破出来るのは俺しかいないと思ったんですよ!」
これまで自分のしたことに間違いがないと確信はしていたが、こう細かく言語化して考えていた訳ではなかった。
だが柴田に問われ、驚くほどスラスラと答えることが出来た。
そして答えた瞬間に全ては繋がり、肯定されたような全能感を強く感じた。この感覚は大事を成し遂げた人間にしか理解出来ないだろう。
「例え俺が死刑になったとしても、何年か後に世間は俺の正しさに気付くと思いますよ。……いや感覚の鋭い若者たちはもう俺に共感しているんじゃないでしょうかね?日本を良くして若者たちに希望を与えるには、何よりも日本に寄生する害虫たちを誰かが処分しなければいけないのだと!……願わくば誰か志のある人が俺の後に続いてくれることを願っていますよ。そうればその尖兵となった俺の評価もまた変わってくることでしょう。……いや、これは余計な想像でしたね」
まだ確実なものでない後世からの評価を想像して、喜びを感じるようにな人間になってはダメだ。
そんなものの為に俺は人生を賭けて今回の事件を起こした訳ではない。余計な名誉を念頭に置いては自らの行動を汚すことになってしまうだろう。俺はただ自分の義侠心に従って行動しただけのことだ。
語るべきことは全て語り終えた、という気持ちになり柴田の反応を窺った。
柴田は少し呆然とした表情をしていた。
無理もない。俺をそこらの通り魔と同じ類いの人間と評価していたのだろう。俺にここまでの深慮と義侠心があって事件を起こしたなどとは1ミリも思いはしなかったのだろうから。
少しの間があった後、柴田は口を開いた。
「……柳田、お前それ本気で言っているのか?」
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