第8話

 昨日の若い男の看護士はまた別の看護士に変わっていた。

 恐らく40代くらいの女性看護士だ。ベテランらしく無駄のない仕事と共に多少の図々しさも感じさせたが、それを全く不快に感じさせないのは彼女の人徳なのか、スキルなのだろうか?人を好きと思うか嫌いと思うかの判断というのは本当に微妙なものだ。

 ヒョロガリメガネの言った通り柴田は来なかった。

 10時を過ぎても、ひょっとしたらイレギュラーな時間に来るんじゃないだろうか?という気持ちは拭えなかったが、そんなことは無かった。

(……まるで恋人を待つ乙女のようじゃねえかよ!)

 などと内心ツッコミを入れてしまう程だった。

 なにしろ暇なのだ。正確に言うならば何をすることも出来ない。ベッドから体を動かすことすら出来ないのだ。

 2日前から点滴ではなく流動食を取ることができるようになったが、看護士が付きっきりでスプーンを使い口まで運んでくれるのだ。これには痛くプライドを傷付けられた。

 おまけに、いまだにトイレに行くことが出来ず、排泄は全て尿瓶とオムツを使用している。どちらかと言うとこちらの方がプライドを傷付けられたかもしれない。

 こんなことなら事件の時に自分も毒ガスを吸って死んでおいた方が良かった、と再び思った。


「おはようございます」  

 翌日の朝8時ドアが軽くノックされ、女性看護士……赤木という名前だそうだ……が入ってきた。

「どうですか、調子は?」

 ベッドに近付いてきた彼女は俺の目を見て軽く微笑んだ。

「そうだな……少しずつ良くはなってきている感じがするが……」

 2日空いただけで彼女の顔を見られたことが嬉しかった。だがそれを表に出すことは流石に憚られた。

「それは良かったです!」

(……良かった?無差別大量殺人犯が快復に向かうことが良いことだとこの女は本気で思っているのだろうか?)

 そんな気持ちは伝わらず、彼女は今後の治療についての簡単な説明をしてくれた。

「完治まではまだ4~5ヶ月かかると思いますけど、日常生活は送れるように段々なっていくので頑張って行きましょうね」

(……それまでは俺が死刑になることは無いということか?)

 いや看護士がそんなことを関知しているはずは無いし、そもそも刑がいつ執行されるのかなどまだ決まっているわけが無い。

 この女も安易にそんなことを俺に告げるなんて、呑気なものだ。

「ああ、そうだな」

 俺の返事はそういった気分を含み、若干苦笑混じりだったかもしれない。

「……そうだ!朝食が済んだら今日は起き上がってみませんか?」

 思い出したように彼女は大きな声を出したので、俺は驚いた。

「起き上がる?」

「そうです、ベッドの上で体を起こすんです!もう寝返りは打てるようになっていますし、体力も回復してきていますから大丈夫だと思いますよ!」

 彼女は拳を握って小さくファイトのポーズを取ってみせた。わざとらしいポーズではあったが、彼女のキャラクターのためか不快感も違和感も感じなかった。 

「……そうだな、やってみようか」

 朝食はまた彼女にスプーンで口に運んでもらい済ませた。

 2日間空いたが、他の看護士よりも彼女にやってもらう方が確実にスムーズにいく。

 俺が咀嚼するのに合わせ次のスプーンを口に運ぶタイミングが丁度良いのだ。ほんの些細なタイミングではあるが、それがとても心地好かった。

「じゃあ、ちょっと起き上がってみましょうか?」

 朝食が済み食器を片付けると、彼女は軽い口調で言った。

「……あのな、今の俺にとってはそんな簡単なことじゃないんだよ。そんな簡単に言うんじゃないよ」

 こっちは一週間以上寝たきりだったのだ。今の俺に本当に起き上がれるのか不安だった。

 彼女が横から両手を差し伸べたので、俺も両手でそれを掴み徐々に体を起こしてゆく。

 手で何かを握るというのも久しぶりだったし、それと同時に腹筋に力を込め連動させて体を起こしてゆくなど、とても複雑な行為に思えた。だが身体の動かし方は頭で考える間でもなく身体が覚えていてくれた。

「……どうですか?久しぶりに起きてみて」

 彼女がニコニコしながら俺の顔を覗き込んできた。

「ああ……そうだな……」

 視界とはそのまま世界なのかもしれない。

 ずっと居るこの病室もまるで別の場所のように感じられた。

「……悪くはない気分だな。……いや……ごめん、やっぱ気分悪いわ」

 急に頭がクラクラしてきた。

「え!?ああ……急に頭に血が上ったからですね。すぐに治まると思いますが、一旦横になりますか?」

「……いや、大丈夫だ。このまま」

 すぐに治まると言うのであれば、もう少しこのまま居たかった。

 すぐにベッドに逆戻りしたのでは、もう一度起き上がるのは更に大変なことになるように思えたからだ。

 目眩が過ぎ去るのを何とかやり過ごす。おそらくほんの10秒ほどのことだったのだろうが、とても長く感じられた。

(……ああ)

 曇っていた視界が明るくなってゆく。徐々に全身に血が巡ってゆくのがはっきりと感じられた。


 コンコンコン。

 ドアがノックされた。何度も聞いたノックの音だ。

「よう柳田。久しぶりだな」

 入ってきたのは言うまでもなく柴田だ。何となく上機嫌な様子が声色から窺える。  

 この2日間でリフレッシュ出来たのだろうか?それとも俺からの供述を引き出すための演技なのだろうか?

「なんだ、起き上がれるようになったのか?」

 柴田も俺の変化に気が付いたようだ。

「ええ、さっき看護士さんの助けによってね」

 隣の赤木看護士をチラリと見ると、彼女は軽く首を振った。それは自分の手助けのおかげではなく、患者である俺の努力のおかげ……という意味だったのだろうか?

「看護士さん、面会時間は以前と同じですか?」

 柴田が彼女に尋ねたのは、俺の取り調べの時間を伸ばせないか?という意味だ。

「ええ、まだ2、3日は無理をさせない方が良いだろう、という先生の見解でした」

「分かりました。では30分近くになっても私が気付いていないようでしたら遠慮なく言って下さい」

 彼女にそう告げると柴田は俺に向き直った。


「柳田、この2日間お前のことを調べさせてもらった」

「……へえ、そうですか」

 俺はさして興味を持てなかった。

 警察さんは俺のことをもう散々調べたんじゃなかったのかい?今さら「調べた」なんて言い方は大袈裟じゃないか?

「……お母さん、5年前に亡くなってたんだな」

「……は?何を…………」

 再び目眩がした。柴田のパンチが予想外の角度から飛んできたからだ。

 柴田は俺の反応には構いもせず続けた。

「お前の家は母1人子1人の2人だけの家族だったんだな。……母親は未婚のままお前を出産し、スナックで働きながら女手一つでお前を育てる。だが……不規則な生活と酒量が増えたことが原因で5年前に病死。……お前も大変だったんだな」

 柴田は今までと違った優しい眼をしていた。

 時が違えば違った印象を受けたかもしれないが、今は何か思惑のある眼にしか見えなかった。

「……ええ、そうですけど。……じゃあ俺は無罪ってことで良いですかね?」

 母親の話が出てきて不意を突かれたが、わざとらしく嫌味な口調で俺は返した。こういう時には一種の虚勢を張るのが昔からの癖だった。

 だが柴田は俺の反応を無視して続けた。

「……高校を卒業してからは正社員として地元の自動車工場で働いていたが、母親の死を機に地元から上京。5年の間に3回仕事を変わっている。どれもアルバイトと派遣の仕事だな。……どの職場でも『仕事はそつなくこなすが、人と関わろうしない。いつの間にか辞めていた』というのが共通したお前の評価だ。仕事以外の友人や恋人といった存在は確認できなかった」

 そこで柴田は言葉を切り、俺の顔を見て反応を伺った。

「だから、その通りですよ。それがどうかしたんですか?」

「聞かせてくれないか?お前の言葉でお前について語ってみてはくれないか?」

 柴田の表情はいつも通り真剣なものだったが、やはり少しだけ同情の色が見える。

「……だから、それに何の意味があるんですか?そんなつまんないことを話すんならもう帰って下さいよ。勝手に死刑にでも何でもすればいいじゃないですか」

「……そうか。……だがこれは遺族の方々の為でもあるし、きっとお前自身の為にもなることだと思う。……今日は帰る、身体を大事にしろ」

 思っていたよりもあっさりと柴田は引き下がり、帰っていった。もともと何か別の予定があったのかもしれない。

(ふん!何が『お前の為だ』!そんなこと言う奴にロクなやつは居ない。……所詮はアイツもその程度の人間だったってことだな)

 この一週間話しているうちに、柴田という人間をそれなりに評価していたことにこの時初めて気付かされた。


 


 


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