スノーライト・ドロップ・ワールド
寅田大愛
第1話
氷晶がいまも降っている。空から砕けた水晶のごく小さな欠片が降りてくる。雪のように冷たいけど、雪のように決して溶けない。いつまでも白透明で、手に乗せると針のような破片が刺さって痛む。握ると掌が切れて血が滲む。氷晶はわたしには優しくない。たぶんだれにも優しくないだろう。氷晶を革靴で踏むとちいさな悲鳴のような硬い音がして折れる。触ると氷よりもさらに冷たい。触りすぎるとしもやけになって指がかゆくなるし、凍傷になって皮膚が壊死してしまう。氷晶は冷淡で、なれあいを嫌い、おおよそすべてのものを嫌っている。触られるのも嫌いだし、分析されることも嫌っている。わたしは氷晶を、ただそばで眺めていることしかできない。氷晶のために泣くことも、氷晶はきっと嫌うだろう。わたしの涙を見たら氷晶はわたしに言うだろう。
〈人が泣くのは正確には悲しいからではない。人は自分のためにしか泣かないものだ。他人のために流す涙といっても、それは自分の心が可哀そうだから泣いているだけだ。それに気づかないで、人は優しい心の持ち主である自分に陶酔して、涙を流すのだ。人が泣くのは、自分のためだ。だからわたしは涙を正当に評価しない〉氷晶はわたしの心を突き刺したいような声でそう言うだろう。氷晶それ自体が、涙の凍ったもののような存在であるように見えているというのに。氷晶はきっと自分のこともとても嫌っている。氷晶とはそういうものなんだ。
氷晶はただしんしんとゆっくりと長い時間をかけて地面に積もって世界を凍りつかせていく。水晶は遥か昔、氷がさらに凍ったものだと信じられていた。氷晶は空からくるくる六面を光らせながら鋭い雨粒のように落ちてくる。落ちる場所によって、ぶつかって立てる、きんという音がそれぞれ違う。ちいさな音色が重なった音楽のようだ。石化した極小の雹(ひょう)のようだ。氷晶がいくらほかのものを傷つけても、氷晶は謝りもしなければ、それを正当化したりもしないだろう。近づけば凍らせるか傷つけたがるから、氷晶には触れなければそれで済む。
ここにいると、いつかわたしの吐息もいつか凍りついて光りながら降り積もってしまうに違いない。ここの温度はもう長い間、寒くて低いままだ。わたしはこの冷たさが、居心地がよくなってしまっている。熱狂も、情熱も、若さも、もうとっくに凍結して地面の下で眠っている。
地面は、氷晶が積もって青白く輝いている。地上は青ざめていて、静寂を保っている。
わたしはうすく透ける水灰色のレースシフォンのワンピースの長い裾を引きずって革靴で欠片を踏んで歩き出す。カーテンみたいなシャーリングの利いたアンシンメトリーなデザインのこの冷たくしゃりしゃりする服は、わたしの歩みと一緒に波打つように動く。階段を一つ飛ばして降りるときにふわりと浮くようになるし、軽い。一組しか持っていない頑丈な黒い茶色い靴は、歩くと聴き入ってしまうほどいい音を立てるし、鼠がかじったら歯が折れるほど硬い。
長い螺旋階段をおりるときも、ゆるやかな下り坂を歩くときも、わたしはこの革靴といつも一緒だ。靴音は重くて硬い。ここが寒いから、靴も凍ってしまうのだろう。わたしは道を歩くときも、わたしだけの靴音しか聞こえない。他のだれもここにはいない。家々はあっても、棲んでいる人はわたししかいない。
だれもここには移り棲んでこない。だれかを連れてどこからか風が吹いてくることもない。わたしは風が吹き込むことを望んでいない。ここは風の通ることのない淀んだ場所だからだ。
風という存在自体、わたしには用がない。風がわたしを幸福にしてくれるといっても、わたしは風を拒むだろう。風はわたしを値踏みして下世話な話ばかり囁くからだ。風はわたしのいないところだけで吹けばいい。風という存在自体、わたしは訝しがっている。信じるに値しないと思っている。風というものは、いつだって面倒で厄介で鬱陶しくて迷惑でしつこすぎて悪質で下劣で、わたしのことを寂しくて可哀そうだと笑って噂するのだ。わたしは風の吹かないところに永住したい、と願って扉を閉ざした。永遠に放っておいてもらいたい。風なんか大嫌いだ。わたしがそういって涙ぐんでいると、風は扉の向こうでうろうろしながら、まだ面白そうなものがないかを探している。風がなくなることはないのなら、わたしは閉じこもるしかない。
氷晶は風について冷たくこう言うだろう。〈風はだれの孤独も悲しんではくれないものだ。だれの死にも悼むふりをして本当は平然としている。自分は関係ないと笑いながら風は通り過ぎるだけだ。風に笑うなと言って憎んでも、そもそも風にそういう類のことを望むほうが不適切だ〉
つぎに扉を開けて、風の吹くなかにも堪えられるようになれば、そのときは世界が崩壊するときかもしれない。と、わたしはひとりで空を見上げて――氷晶で額を傷つけないように前髪を手袋をした手でなでつけて守りながら、つぶやいた。手の甲につん、と氷晶がぶつかった。わたしはまだこの世界を守っていよう。傷ついてもいいから愛を探しにいくのは、もうこりごりだ。わたしはもう年をとりすぎている。わたしは疲れきっている。わたしはもう静かに眠りに入るのを望んでいるんだ。発展も展望も未来も、わたしにはとうに終わったものだ。
ここからどこかへ行くことも、どこからかここへ来ることも、ない。ここはずっと閉ざされたままだ。季節のように移り変わるものはない。ずっとなにも変わらないまま、ゆるやかにただひとつの終末へ向かっていく。わたしはわたしがいつか消滅するときまでひとりで、ずっとここにいるだろう。
外に他の世界が存在するかしないかなどわたしにはどうでもいいことだし、そもそも外の世界があったなら、ないならそれを探すために、なぜ出て行かなくてはならないのか、その必要性がわからない。わたしはここにいれば充分なのに。わたしは他の世界へ行くことを望んでいない。知れば、興味がわくだろうと思うかもしれないが、他の世界のことに関わるのが、とても面倒だ。共通する言語の問題、つき合い方とそれに付随して発生する気疲れする悩み事や厄介ごとをどうするのかを考えると、他の生命体と関わるのは、気力を使ってへとへとに疲弊してしまうから、したくない。もう寿命を縮めたり、苦しいことや辛い思いをしたり、死にたくなったりしたくない。わたしはとても脆弱な生命体なのだ。そっとしておいて、ほうっておいて、いまは自分の好きなように過ごさせてほしい。
見上げると、必ず顔や髪に硬い氷晶の欠片の粒がぶつかる、あの青灰色の淡い空の上の上のずうっと上のほうには、たぶん果てがある。この世界の果てがきっとある。でもわたしはそれを知りたくない。知りたいとも思わない。はじめから手の届かないところに、わざわざ手を伸ばそうと思ったりしない。そんなことは無駄なことだと思う。する必要のないことはしたくない。あの空にはなにがあるのだろうと考えることもない。考えたところで、知る必要もないし、知ることもできないのなら、はじめから知ろうとも思わない。知ろうと願ったところで、また疲れるだけならしなくていい。
硬い氷晶がどこからやってくるのかは、わたしにはなんとなくわかる。世界の端がすこしずつ削れて剥がれて空から落ちてくるのだ。わたしはそれを黙って見ている。
わたしは靴底で白い氷晶の欠片の粒を踏んで歩く。マフラーを首に巻きなおして、冷たい空気のなか、白い息を吐きながら、どうやって過ごすかを考えた。
廃墟の遺跡を見てまわることにしよう。それから暖かな柔らかいベッドで羽毛布団やブランケットをたくさん重ねて好きなだけ寝よう。わたしは寝るのが好きだ。ひとりで微笑むと、わたしの足元に、いつの間にか一匹の獣がふっと寄り添ってきた。まっ白いふわふわでさらさらの毛並みの四足の子馬に似ている。子馬は首を伸ばしてわたしの足に顔をこすりつけてきた。くすぐったいよ、とわたしは言って、彼の頭をなでる。彼の脚は細くて、歩くと蹄の音がぽくぽくと鳴る。ときどき彼は内股で歩いているときがあることをわたしは知っている。男の子なのに。彼の名は、ゆに、という。初めて会ったときに、ばんびっていう名前はどう? と聞いたら自ら細い首を持ち上げて、ぼくはゆに、と名乗った。真ん丸で茶色い奇麗で知的な瞳をした彼は、ここでは唯一外の世界を知る生き物だ。ゆには賢く、凛々しい男だ。ゆにのことは、わたしは好きだ。強引なところがなく、さりげないところが、特に好きだ。
ゆにはいつの間にかここで一緒に棲むようになった。湿ってひんやりするゆにの身体を抱きしめると、ゆにの匂いがして、わたしは心が安らぐ。ゆにの匂いがわたしは好きだ。ゆににはわたしの気をひきたいときに、鼻をぴすぴす鳴らす癖がある。わたしはそのとき、わらってゆににキスをする。ゆにはとてもかわいらしいし、王様のように高貴で、暖かく愛してくれるし優しいし、それでいて甘えや弱さには厳しい。ゆにはきっとわたしより精神が頑丈にできているんだと思う。揺るがない男だが、わたしのそばにいつも寄り添いたがって、わたしの顔を覗きこんで笑わせようとする。
ゆにには靴が必要ない。硬い蹄(ひづめ)は、容易に氷晶の欠片を踏み砕く。さすがの氷晶も、ゆにを凍らせることはできないようだ。ゆには氷晶に鼻を近づけて、知的な茶色い眼で遠くを眺めるふりをしながら、氷晶のことをずっと観察している。氷晶はゆにのことをそんなに悪く言わない。
ゆにの足音をわたしは黙って聞く。ゆには黙ってついてくる。ゆには仮の姿で、本当のゆには、この世界の外にあるんだろう。ゆにが初めてわたしに会ったときに顔を赤らめたが、わたしもまたゆにを見たとき、顔を赤くしたものだ。
一人と一匹で歩くと、頭上には古ぼけた時計塔が漂っていた。どこかの神様を讃えるような神秘的な紋様を細かく刻まれた古めかしいアンティーク調のオルゴールのような塔だ。
滅んだ宗教の死んだ神様を奉る時計塔の時計は十二時でとまったまま動かない。神は死んで、もうおそらく蘇らない。わたしは無表情な冒涜の民で、神などもはや必要ないと、残骸のような時計塔には背を向けて歩く。跪いて祈ったりしない。
わたしには時計は必要ないから、とまっていてもとまっていなくても、別に困らない。時間など、たいして気にならない。自分の好きなときに好きなように暮らしているから、時間を好きなように使えるからだろう。時間の概念が曖昧になって次第に崩壊していく。この世界の時間、にあわせて暮らす必要がないから、基準を持つ必要がなくなって、わたしはそれをついに失った。止まった時計は、もう直せない。わたしはそれをただ見て、また眼を逸らし、そのことについて考えるのはやめて、もう忘れることにした。嘆いても、とり戻せないものは確かにある。ここには太陽もなければ月も星もない、したがって朝も昼も夜もない。
時計塔の下を黙って通り抜ける。塔の凍った地面の下はトンネルか洞窟のように暗い陰になっていて、わたしとゆにの足音がふたつ響いて聞こえる。上からたまった雫がぽたんとときおり地面に落ちる。トンネルを抜けると、細い橋に出た。わたしは滑らないように慎重に狭い橋を渡った。橋の下には、氷づけになった大きな広い森が見える。
青白く生気のない色で、とっくに凍りついた森には、たぶん生き物はいない。森自体もほとんど生きていないんだろうと思う。森ではたぶんわたしは暮らすことはできない。森のなかに散策しに行きたかくなるときもあったけど、危険だから森には入らないほうがいい。森は暗くて、野蛮な魂や、トランスジェンダーの霊や、太古の狂気の精や、人殺しの悪魔や、怨みにみちた兇暴な妖怪が、うようよしているから、近寄らない。森で死にたいならともかく。
橋を越えると、長い間だれも棲んでいない、崩れかけた家々がごろごろ並んでいるところに出た。街の廃墟群の遺跡。家々の窓ガラスは割れて、窓枠は外れて地面に落ちて飛び散り、壁は崩れかけ中身が剥げて露出して、骨のような鉄筋は墜落したように折れ、風化したように壊れかけている。だれもいなくなった、街の残骸。だれもいない滅亡した楽園の跡。
わたしはこの古い廃墟群を見ると、なぜかどこかで終わった夢を見ているような懐かしいような、なんだか切ないような気持ちになる。壊れてしまった廃墟を見て、栄えていたころの華やぎを思い出して、没落したこのさまを哀れに思いながら、わたしはいつでも廃墟のなかにいたことを思い出した。
わたしは夢の残骸から夢を託されて夢を見たが、わたしの夢もまた滅んでしまった。わたしのはじまりは廃墟から楽園を構築することだったが、わたしはいつだって国を失った廃墟のなかに佇んでいるのだった。わたしは楽園よりも廃墟にいるほうが落ち着くのだった。わたしは夢をだれかに託しても、そのだれかもきっと廃墟のなかに立ち尽くすことになるのを、わたしはすでに予知している。楽園の姿は案外凡庸で、それを望んでしまったら、わたしはきっとわたしではなくなり、変貌してしまうことがわかっている。廃墟のほうが案外多彩で、悲しみを好むわたしには棲みやすいが、その先にはなにもないことがわかっている。悲しみを望んでしまった夢の先には、破滅しかない。破滅の味を知ってしまったら、次に絶望を愛しはじめるのだろう。
わたしは廃墟のなかに入った。ある家に入った。長く曲がりくねった廊下。鏡張りの部屋。極端に狭すぎる隣の部屋。嫌な気配が近づいてきたのがわかって、わたしはその家から急いで出た。だれも棲まなくなってしまった家のなかには、森のなかから危ないものたちがふわふわ遊泳し流れながら潜んでいることがある。妖しい彼らは隙さえあればだれかに乗り移ってとり憑こうとするんだ。わたしは憑依されて自分の心を見失うのは怖い。
わたしは別の一軒の家の扉の外れた玄関を通って入った。
荒れたざらざらした白い氷晶の砂の積もった廊下を歩いて自分の靴の白抜きになった足跡を点々とつけて、振り返って確認するという一人遊びをした。台所にいって、乾ききった鈍色の流し台のなかに一個だけ落ちている乾いた銀のスプーンを見る。だれかが使って遊んでいたような色褪せた積み木や、ぬいぐるみや女の子の人形やページの破れた絵本が転がっているだけの子ども部屋のピンク色の壁と緑色のクレヨンの落書き。板の数枚踏み抜かれた二階へ続く暗い階段。倒れた食器棚からはみ出した大量のガラスコップの破片と白い皿の小さな赤い花のレース模様。映らない旧式の箱型テレビ。古くなって布が破けてなかに詰められた白綿と太いバネが飛び出しているベージュ色の革張りのソファー。時代遅れの服がかかったままの青い針金のハンガーが並ぶベランダ。朽ちた古い冷蔵庫、脚の足りない椅子、取っ手の壊れたクローゼット、枯れた観賞用植物、鏡の割れたドレッサー、干からびた空の水槽と萎れて折れた水藻。……。
書斎が見つかったからなかに入った。古そうな本がたくさん本棚のなかに並んでいた。一冊手にとってページを開いてみる。どこも虫に食われていないようだった。紙魚(しみ)の生まれない環境だからとても古い本でも現存されているから本が読める。ありがたいことだ。
わたしはそこにあったロッキングチェアに腰掛けてひとりで本を読む。本棚にはまだわたしの読んでいない本がたくさんある。わたしは本が好きだ。しばらく集中して読んだあと、本を閉じて、天井近くの窓の下の大きな机の上に置いて、わたしはだれかの家を出た。
扉のないせいで虚空に開かれた黒い口のような通路の入り口や、玄関や、隣の部屋との出入り口が、並んでいるのを見ると、眼と口を開けた人間の顔に見える。家々が人間の代わりに声にならない言葉を言いたげにしたまま、そこでずっとたたずんでいるようだ。廃墟の亡霊はなにかを言おうとしているのだが、それはわたしにはわからない。もしかしたらわたしはわからないふりをしているのかもしれない。自嘲に似た笑みが顔に浮かんでしまうのはなぜだろう。わたしのなかに森のものがいつの間にか滑りこんでしまったんだろうか。偽悪主義を騙る小悪党の子どもの面影が蘇って、すぐに紛れて消えて、わからなくなる。
わたしは廃墟から離れて、墓地はどこにあったかな、と思った。ちょっと考えても思い出せなかったが、もしかしたら、ここが墓地だったかもしれない気がした。わたしは家々を振り返って、しばらく立ち止まり、またすぐに歩き去った。
ゆにが後からついてくる。わたしは別のところにある自分の家に帰って(どこにあるかは内緒だ)、ベッドにもぐって寝た。ゆにを抱きしめて気の済むまで眠った。ゆにの湿った身体は、温かかった。ゆには湿った鼻をわたしに押しつけて、ぴすぴすぴすって、三回鳴いた。ゆにのために、わたしは子守唄を歌った。ゆにの潤んだ瞳の瞼が、ゆっくり閉ざされた。
了
スノーライト・ドロップ・ワールド 寅田大愛 @lovelove48torata
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