第2話
二、
あたしを乗せたバスは飛ぶように密林の中をがんがん走っていた。仕事が終わったらいつもこのバスに乗る。あたしは窓や車体にしなってぶち当たる大きく所狭しと生えた濡れた枝々から生命力を感じながら、鬱陶しい密林の中で先ほど雨が降っていたんだろうなと平凡な実感を持っていた。雨上がりの光に輝く鮮やかな花々。色とりどりの、近寄ったら脂と汗の臭いが漂ってきそうな巨鳥たち。むしってしまいたくなるほどの青々と葉々をつけた木々。飛び散る水滴。タイヤがぬかるみを踏むとバスが揺れる。昼間なのにうす暗いし、喉が潤いそうなほど湿度は高い。この不思議な力強さを感じる場所の神秘にただただ圧倒されそうになりながらあたしを乗せたバスは走る。なぜだかわからないけど、あたしは涙ぐんだ。ああ、ジャングルは生きている。呼吸の音が聞こえてきそうなほど、生き物たちが一生懸命生きているんだって、生命って、生命体って、すごい。生き生きしている。木も花も鳥も大地も瑞々しくて、美しさすら覚える。バスの運転手の顔は、あたしのこの席からは見えなかった。車内はあたし一人しかお客さんがいない。貸し切り状態だ。こんな密林の中を、だれもが好き好んでしょっちゅう行き来したりすると思う?
不意に、光が差してきた。砂漠だ。密林を抜けると、拓けた砂漠に出る。葉っぱのざざざっと擦れる音が消えた。強い太陽の気配を感じた。熱すぎる真夏の太陽の下にいるかのように、あたしの黒髪が焦げるような気がした。太陽に焼き殺されてしまいそう。
砂の海が広がっているかと思えば、一軒のパチンコ屋さんが突然建っていた。何もこんなところに建てなくてもいいのにな、と思ったが、だんだんここら辺の砂漠も住宅地化が進んでいることだし、パチンコ屋さんがあっても別に変わったことではない。巨大なその施設の広い駐車場、作られたばかりの真新しいその場所、の、隅のほうに街路樹があった。背の高い木が数本、さりげなく立っていた。和風に趣向を凝らしたパチンコ屋さんのそばを彩るような木々だったから、多分、松だったと思われる。その一本の松の木に、男が首を吊っていた。スーツ姿で、靴下はピンク色だった。バスはだんだん、その男のそばに近づいていく。通り道だからだ。あーあ、嫌だな、なんであんなところで自殺してるんだろう、とあたしが思っていると、急に男がぐるんと向きを変え、こちらを見た。バスの存在と、物音と、もしかしたらあたしの視線に気づいたのかもしれない。男は松の木に宙ぶらりんではなかった。よく見ると、松の木に対して、つま先立ちで地面に接していて、長いネクタイ(こちらも例によって例のごとくピンク色だった。なぜだかわからないが)で死なない程度に軽く首を縛って一種のポーズを決めていただけだったのだ。つま先立ちをしているせいか、靴下が震えていた。要するに、死んだふり、自殺している人のふり、というわけだ。男はバスが本当にそばにとうとう近寄ってきたときに、松の木から着地して、満面の笑みでこちらを見た。気づいてもらえて本当に嬉しい、という笑顔で。今度は誇らしげに、地面の上でネクタイで笑いながら首をぐいぐいと絞めつけるジェスチャーをしていた。死にたがりというやつか。ぼくは死にたいんです、可哀そうでしょ? みたいな、不幸自慢か。あるいはただの馬鹿なのか。本当にあたしは腹が立って、思わずバスの窓をがらっと開けて身を乗り出し、こう叫んでやった。
《ふざけるな、生命を侮辱するな!》
男は一瞬驚いたように、わけがわからない、という顔をした。そのままバスは通り過ぎて行った。あたしは死臭のする両手をこすり合わせた。
あたしはバスの窓を閉めて、座席に座り直した。命がもったいない。死にたい奴は自慢しないでさっさと死んでいなくなれ。本当に不愉快だ。
《すごかったねー、美花。なんであんなのに対して本気でキレるのー?》どこからともなく男の声がした。意外とそばにいるような気がして、あたしは身震いした。美花っていうのは、あたしの名前だ。夏田美花。
《誰?》
《え、おれ? おれはいつでもどこでも、美花のこと、ずっとそばで見てるよ?》
《怖いんだけど》
《怖いも何も、おれは美花の隣に座っていたよ。ずっとね》
《嘘。いなかったじゃん》
《いいや、いたよ? もしかして見えなかったの? 美花は目がおかしいんじゃないの?》
《目の問題なの?》
《じゃ耳なの?》
《いやいや》
あたしは窓ガラスを見た。あたしの隣には、骸骨が座っていた。鎌は持っていないし、黒いローブも来ていなかったが、あたしにはすぐに分かった。《もしかして、あなた、死神なの?》
《あーあ、バレちゃった。仕方ないね。そう、おれは死神のエフェだよ。きみは知ってる?
きみの働いている軽作業所のあの小鳥、本当はあのひよこ上司さんが建物の裏でご丁寧に一匹一匹手で絞め殺してから、部品に加工しやすいように日干しにして、きみに渡してるんだってね。これは本当の話だからね?》
バスは住宅街を走り抜けていた。どこの家も真っ黒くて四角くて同じ形をしていた。迷路のような住宅地の中を何度も何度もバスは曲がる。悪夢を見ているような気がした。
《ねえ、なんで黙っているの?》
家の前の停留所でバスは止まって、あたしは降りた。青い比較的新しい色の鮮やかさをある程度保ったアパート。家の鍵をとり出そうとして、鞄の中を探る。長袖の紫色のパーカーの左の袖を見やった。昔つけたのだろうと思われるカッターで傷つけたリストカットの傷跡が手首に無数に残っていた。結構目立つ。高校生の頃、あたしをいじめていた同級生のいじめっ子たちの顔が思い浮かんだ。ここにカッターがあればいいのにな。あいつらを傷つける妄想をしながら、自分の左手首を傷つけるのは、すっきりするけど、本当はどこか報われていない感じがする。でも何度でもしてしまう。この怒りが行き場のないもので、それがどんどん心の中を汚染していくみたいに溜まっていって、爆発しそうで苦しいからだ。そうするしかないんだ。あたしはリストカットをして、多少の怒りをどこかにぶつけないと、生きていけないんだ。
《ねえねえ、今憎たらしいやつらのこと思い出したでしょ? そいつらのこと、おれが殺してあげてもいいんだよ? 頭に来てるんでしょ?》死神の声がした。
《……そんなことしたら、あたしは地獄に落ちちゃうよ。嫌だよそんなの》
《へーきへーき。だってさ、あいつらさ、もう高校を卒業して、きみのことなんかとっくに忘れて、大学に行って、社会人になって、職場の同僚と結婚して子供産んで、幸せに暮らしてるみたいだよ? きみはいまだに過去のいじめのことで苦しんでいるっていうのにね?
それでも頭に来ない人がいるの? 忘れたとは言わせないよ? きみはね、そう、なんでいじめられていたかきみは理由はわからなかっただろうね。まだほんの子供だったから。おれはわかるよ、きみはあいつらから珍しがられていたんだったね。きみはその、とても、なんていうか――》
《そのことはもうちゃんと思い出したよ。なぜだかわからないけど、記憶があいまいなんだよね。今年あたしはいくつになるんだったっけ?》
《二十七歳さ》
《今あたしはどこにいるの?》
《この街の中》
《あいつらはどこにいるの?》
《きみの知らないところ。ところどころ完全に記憶喪失だね。まあ、しょうがないんだけど》
足が震えた。あいつらに対して信じられないくらい殺意がこみ上げてきた。声に出てきたのは、まともなふりをしているほうの自分の言葉だった。
《でもむかついたから殺していいっていうわけにはいかないでしょ》
《おれは死神だからさ、人の死を操ることができるの。ね、どうする?》
《あたしはさ、そういうことできないっつってんじゃん。あんまり怒らせないでくれる?》
《そうやって強がってるけど、本当のところはどうなの? 本音はもっと違うんじゃない? 正直に言ってよ》
《嫌》あたしは言った。《殺せるんなら殺したいよ、あいつらを殺してくれるんなら殺してもらいたいよ、でもさ、あたしには無理だから。頼んだりするのも無理。人の死が操れるなんてすごいこと言ってるんなら、あたしを誘惑するのだってすごいところを見せつけて自制してやめてくれる? 本当に迷惑》
死神の気配が消えた。どこかへ去っていったのだろう。
あたしは家の鍵を開けた。気がついたら泣いていた。そのままベッドに倒れ込んだ。泣けるうちはまだいい。泣けなかったら、あたしは終わりだ。心が、存在自体が、ぐしゃぐしゃになって、崩壊してしまう。あたしがあたしでなくなってしまう。涙が出るのが心地よかった。こんなになっても、あたしはまだ泣くことができるんだ。
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