トリニティ・ハート ーライアン・ハンター

第1話

 ニューヨークシティ、ブロンクスの一角にあるバー“トリニティハート”。ウッディーなデザインに、天井からぶら下がるレトロなランプ、ダウンライトで落ち着いた雰囲気の店内は週末とあって賑わっている。

 アパートメントの地下一階にあり、カウンター16席、小ぶりなテーブルが20席の店内は常連客で一杯だ。老舗のアイリッシュバーで、ケルト民謡の他、最近はジャズもよく流れている。酒の種類が多いことと、ボリューミーで美味しい料理が人気だった。


 ライアン・ハンターは店内を見渡せる小さなテーブル席で一人ブランデーを傾けている。吸いかけの葉巻はすでに燃え尽きていた。背中のレンガ造りの壁は冷気を放ち、ライアンは首に巻いたモノトーンのストライプ柄のマフラーを締め直す。

 明るい喧噪の店内で、ここだけが時間が止まっている。いくら飲んでも酔えない気分だった。店内への入り口にある木の扉をじっと見つめながら、ライアンはブランデーを飲み干した。


 祖先はアイルランド人で、19世紀に祖国を離れアメリカへ移住した。祖国へのイギリスによる迫害と飢饉を逃れてのことだった。粗末な船で大西洋を渡り、夢の新天地へ。多くの者が疫病や飢えで命を落とした。折しもカリフォルニアのゴールドラッシュで多くの移民が新大陸へ移住した。

 しかし、新しい土地でもアイルランド人は不遇な扱いを受けた。アメリカ人の多くはプロテスタントであり、カトリックを信仰するアイルランド人は嫌悪の対象だった。


 ハンター家は流浪の果てにニューヨークのブロンクスにたどり着いた。そこでも差別は続いた。アイルランド人お断りの張り紙がある店もまだちらほら見られた時代だ。ライアンの父のロイ・ハンターはブロンクスで小さな店を営んでいた。酒とタバコ、食料を売る小さな商店だ。母は弁護士事務所の事務員という貧しくも平凡な家庭に生まれた。


 父の商店は度々暴漢に襲われた。それは父がアイルランド人だという理由だ。若きロイ・ハンターは誇り高い男だった。暴漢に屈せず、小さな店を守り続けた。あるとき、酒とタバコの仕入れで縁のあったアイルランド系マフィアの幹部と交流を始め、やがてのし上がっていく。


 小学校に上がったライアンは黒人と同じ差別を受けた。母はアメリカ人だが、アイルランド人との混血であるライアンは“白い黒人”と呼ばれ、いじめを受けた。しかし、ライアンは父ロイと同じく誇りを持っていた。同じ境遇の仲間を集めていじめに対抗した。賢く、腕っぷしも強く、子供ながらに血気盛んで男気のあったライアンは他者の心をよく掴んだ。


 ロイは自分がマフィアの幹部であることをライアンには長く秘密にしていた。しかし、自宅がどんどん大きくなり、家にはブランド品が溢れ、高級車に乗る父を見て普通の職業では無いと気が付いた。時折、自宅でマフィアの仲間達が集まりパーティも催された。


 ロイはライアンをそのような環境から遠ざけようと思ったが、ライアンは父の仕事に興味を持った。ロースクールへ進学し、法律事務所へ勤務の傍ら父の仕事を手伝った。最初はチンピラのやるような配送トラックからの酒やタバコの強奪や、敵対する組織の襲撃などもやった。幹部の息子というライアンはチンピラ達の心も掴んだ。


 あるとき、ロイから店を任された。倒産しかけのアイリッシュバー“トリニティハート”だ。借金のカタに店主から店をもらい受けたという。同じアイルランド移民の老店主はその好条件に喜んで店を譲り渡した。引退して故郷へ帰るということだった。


 ライアンは店のプロデュースを始めた。古くさい内装を一新し、心地良い空間を演出した。酒と食事のメニューもターゲットを見据えて作り直した。リニューアルオープンした店は話題を呼び、連日満席の人気店となった。昼間は組織の打ち合わせに仲間を集め、夜はバーとして解放する。トリニティハートはライアンにとって大切な場所になった。


 聖パトリックの休日だった。ライアンは法律事務所での仕事を終え、トリニティハートのカウンターで一人ブランデーを傾けていた。静かに横に座る男がいた。男はジャックダニエルを注文した。

「お前は狙われている」

 バーテンの後ろの棚に並ぶウイスキーを見つめたまま男が呟いた。ライアンはそのまま振り向かず、葉巻を吸う。

「どういう意味だ」

 ライアンは静かな声で尋ねた。男は癖のあるダークブラウンの髪を軽く後ろに長しつけ、金色がかったヘーゼルアイ、形の良い鼻筋に厚みのある唇をしていた。黒のハーフコートにグレーのセーターを着込んでいる。3月も半ばだがブロンクスの夜は未だ冷え込んでいた。


 男はチラリと目線で背後を示した。ライアンはカウンターの鏡で背後を確認する。3人組の男たちがテーブルで酒を飲んでいる。大柄なのが1人、中肉中背が2人だ。会話をしている様子はない。男の一人がおもむろに立ち上がり、胸元に手を入れた。銃を取り出す気だ。横に座っていた男がいつの間にか消えている。ライアンが振り向けば、銃を取り出そうとした茶色のレザージャケットの男の腕を押さえ込んでいる。

 もう一人の毛皮のコートの男が小銃を取り出し、ライアンに狙いをつけた。ライアンは銃の撃鉄を押さえ込み、男の鳩尾に拳をめり込ませる。

「ぐえ・・・」

 男はうなり声を上げてその場に跪いた。ライアンはそのまま顔に膝蹴りを食らわせる。男の鼻骨は破壊され、鼻血が吹き出した。


 レザージャケットの男は首を絞め落とされ、その場に倒れた。怒り狂った巨漢がライアンに掴みかかる。テーブルと椅子が転がり、店内は騒然となった。

 ライアンは男の首を手刀で突いた。首の筋肉は鍛える事ができない。気管にダメージを受けた巨漢は酸素を求めてよろめく。ライアンは巨漢の足に蹴りを入れた。巨漢が跪く。ちょうど良い位置にきたそのはげ頭に、床に転がったブランデーのボトルを力一杯振り下ろした。


 周辺に強いアルコールの匂いが漂い、3人の暴漢が床に転がっている。

「すまない、無粋な邪魔をしてしまったね。ここはおごりだ」

 ライアンの声に客たちは歓声を上げた。

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