第3話
「龍神・・・ですか」
榊は組長の柳沢の言葉を反芻した。中国東北部原産の新種のドラッグだという。その製法は秘伝とされ、日本に持ち込まれるのは初めてであること、取引相手は中国の組織で、柳沢組のみの独占販売ができることを熱っぽく説明された。
「しかし、組の掟ではヤクは扱わないと」
「今は時代が違う、これ以上組を大きくするにはこれが手っ取り早いんじゃ」
榊の言葉は遮られた。それ以上何も言わず沈黙を守っている。鳳凰会の一次団体に昇格し、柳沢はどんどん傲慢になっていた。かつて、若頭だった鷲尾に連れられて盃を下ろしてもらったときの男ではない。
柳沢は飲みに行く、と事務所を出ていく。六本木のいつものバーだ。この時勢だが、若頭を務める榊の働きで柳沢組には金があった。榊は机に拳を打ち付ける。側にいた舎弟たちは榊の静かな怒りに押し黙った。
「頭、親父が早く来いと・・・」
ドアが開き、ガードを務める若い衆が声を掛ける。柳沢は飲みに連れて行けば機嫌が直るとでも思っている。榊は唇を引き結んで黙ってポケットに手をつっこみ、事務所を出て言った。
「榊さん・・・めちゃくちゃ怒ってるな」
「頭は反対してるからな。俺もヤクを扱うのはどうもな」
「鷲尾さんが死んで変わっちまったよな」
事務所に残った舎弟たちは揃ってため息をついた。
―――――
柳沢が切り出す前に、榊は龍神の噂について情報を収集していた。新宿歌舞伎町界隈で新種のドラッグが出回っており、それをバラ撒いているのは日本の組織ではないという。末端価格は他のドラッグよりもやや安価で、トリップ後の悪酔いも少ない上質なものという触れ込みだった。
「その顔どうした、結紀」
ムーディーなブルーのライトの店内、新宿のバーGOLD HEARTで榊は一人カウンターでブランデーを傾けていた。静かに彼の横に座ったのは、高谷結紀だった。結紀は大学3年生で、年の離れた榊の異母弟だ。見れば、左の頬が少し腫れている。素人目には分からないかもしれないが、ケンカ慣れしている榊はその違和感に気がついた。
「モスコミュール」
結紀はバーテンにカクテルを注文する。それから榊に向かって弱々しく微笑んだ。
「秋生と別れたよ」
秋生は結紀の付き合っていた男だ。結紀がバイセクシャルということを知ったのは、彼が高校生の時だろうか。榊原の家とは離縁したが、結紀とは時々会っていた。榊はそれを彼のアイデンティティとして自然に受け止めている。
榊はデュポンでタバコに火を点けた。
「そうか」
煙を吹き出して、短く答える。結紀が榊の指からタバコを抜き取った。それを口に加えて煙を吸い込む。煙に咽せて、結紀は咳込んだ。
「何をしてる」
「吸いたい気分だった」
榊はタバコを取り上げた。結紀は唇を尖らせている。整った顔に赤味がさしているのが痛々しい。
結紀の恋人だった秋生という男を見たことがある。結紀と同年代の若者で、意思の強そうな眼差しをしていた。背が高く、身体も鍛えていた様子だった。ここ最近、ケンカが絶えないと聞いていた。これ以上結紀を傷つける気なら、呼び出してやろうと考えていた矢先だった。
「秋生、死んだんだ」
「何だと」
結紀がぽつりと呟いた。長い睫毛の下の大きな瞳には涙が溢れている。結紀はそれを手で拭う。
「龍神っていうドラッグだよ」
ここでも龍神か、榊はじっとグラスを見つめる。秋生が偶然買ったそのドラッグは、トリップの具合も良く、悪酔いも無い。遊びのつもりが異常に強い依存性に抜け出せなくなり、人格が変わり、暴力を振るうようになった。そして、雑居ビルの隅で野垂れ死んでいたという。
「つらかったな」
榊は結紀の頭を胸に抱いてやる。結紀は肩を震わせて嗚咽している。落ち着くまでそのまま肩を抱いていた。榊のスーツから香るブルガリとフィリップモリスの匂いに結紀はどうしようもなく切なくなった。ジャズの優しいノスタルジックなピアノがどこか遠くに聞こえていた。
鳳凰会柳沢組が龍神の取引を独占するという話は裏社会にも流れ始めていた。柳沢を狙う者も出てくるだろう、榊はそう忠告したが聞き入れられなかった。鷲尾の時と同じだ。榊は唇を噛む。
榊は今日も柳沢の行きつけの六本木のバーに連れられてきていた。ガードはいるが、武闘派でもある榊を連れていることが安心なのだろう。榊にとっては内心迷惑だった。ホステス相手にゴルフスコアの自慢話を繰り広げる柳沢は滑稽に映った。
柳沢がガードを連れてトイレに立ち、随分時間が経っていることに気がついた。榊はトイレの方を注視した。柳沢が出てきた。しかし、様子がおかしい。
「オヤジ、大丈夫ですか」
柳沢の目は血走っていた。榊は立ち上がる。柳沢が叫び声を上げて組員に殴りかかった。それを取り押さえようと店内は騒然となる。榊は混乱する店内で、一人の男がドアから悠然と出ていくのを見た。
「ドアから出て行った男がいる、追うぞ」
舎弟をひとり連れ、榊は店のドアを開けた。その途端、乾いた破裂音が連続で響き渡った。まさか銃撃か、舎弟は驚いて尻もちをついた。榊は身を伏せたが、すぐに違うことに気が付いた。火薬の匂いが立ちこめ、爆竹の破片が転がっていた。顔を上げると、階段の上で白いコートが翻るのが見えた。
雑踏の中を白いコートの男を追ったが、取り逃がした。榊は小さく舌打ちをする。店に戻れば、救急車が呼ばれていた。救急隊員に柳沢は薬物を摂取したのかと聞かれたが、自分が見ている限りではそんな様子はなかった。白目を剥いて血の混じった泡を吹きながら痙攣している。おそらく柳沢はこの先病院のベッドで過ごすことになるだろう。柳沢組は終わりだ。
マンションに帰り、部屋の明かりを点けないままソファにもたれ込む。榊の手には白い盃が握られていた。柳沢から授かったものだ。鷲尾について入った小さな極道の組。鷲尾は父親代わりだった。極道の生き様を教えてくれた。しかし、彼はもういない。鷲尾の生きていた頃とは何もかもが変わってしまった。そして、今日の件で柳沢も復帰は見込めない。柳沢組は終わりだ。未練は無かった。
だが、龍神の取引は残っている。柳沢組が引いたとしても、他の組が取引を進めるだろう。狂気のドラッグ、龍神を日本に入れてはならない。榊は手に力を込めた。盃が割れ、破片が手の平に突き刺さる。血が流れていた。榊は闇の中で白い欠片と、真っ赤に染まる手をじっと見つめていた。
―――――
「榊さん、気分はどう?」
結紀が顔を覗き込んでいる。カーテンから射し込む光が眩しく、榊は目を細めた。頭が痛い。ナイフに塗られた麻酔薬が抜けていないようだ。胸の傷もジリジリと熱い。榊は半身を起こす。どのくらい寝ていたのだろう。
横浜で龍神の取引を巡り、ひとり乗り込んできた長身の男と対決した。いい目をしていた。覚悟を決めた目だった。フライパンを背中に仕込んでいたのは友達のようだが、まるででこぼこコンビだ。そんな奴らに負けたのか、榊はおかしくなって笑う。
「大丈夫・・・?」
「ああ、頭はしっかりしている。心配かけてすまなかったな結紀」
榊は心配そうな表情を浮かべる結紀の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「なあ、奴らのこと知ってるのか」
榊はベッドから起き上がった。
「あ、うん。この前会ったばかりだけど」
「会いに行く」
「えっ・・・」
「心配するな、もうケンカはしない。それにカタギを蹴り飛ばした詫びを入れないとな」
榊の穏やかな表情に結紀は安堵する。あいつらとなら、成し遂げられるかもしれない。榊は真っ直ぐに前を見据えた。その目に迷いは無かった。
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