第2話

 裏路地を男の背を追って走る。背後では騒ぎの声が大きくなりつつあった。男が雑居ビルの扉を開けて振り返る。榊に中に入るよう促す。榊は立ち止まって男の目を見た。男は榊の鋭い眼光にもたじろく様子はない。真っ直ぐな視線で見つめ返してきた。信頼できる男だ、榊は一瞬でそう直感した。男と出会ってものの30秒も経っていないが、直感を信じることにした。

 狭い通路の先はバーの店内だった。カウンター席とボックス席が4つ。GOLD HEARTよりも手狭な店だ。照明は落としてあり、薄暗い。随分と年季の入った店のように思える。


「まあ、座れよ」

 榊は立ち尽くしたままだ。

「何だ、聞こえないのか」

 男はそう言って、ああ、と笑った。

「おい、麗子、タオルを頼む」

 男が叫ぶと、厨房の奥から女性がタオルを二枚持ってきた。男と同年代で、ウェーブがかった髪を明るい茶色に染め、シックな紫のドレスを着込んでいる。この店のママなのだろう。男が麗子と呼んだ女性からタオルを受け取り、榊に手渡した。自分も雨の雫を払っている。


「律儀だな」

 榊は水気を拭き取り、ソファに腰掛けた。びしょ濡れのままでは座る気は無かった。

「晃司さん、また若い子をナンパしてきたのね」

 麗子はからかうように言う。

「あら、その傷」

 麗子は榊の白いシャツが血に濡れているのを見つけた。ケンカ沙汰に慣れているのか、過剰に驚く様子はない。

「手当してやってくれ」

 男に言われ、麗子は店の奥から救急箱を持ってきた。シャツの袖を捲り上げて消毒を済ませ、腕に包帯を巻いてくれた。手慣れたものだった。


「お前も飲むか?雨で身体が冷えただろう」

 男がグラスにブランデーを作って持ってきた。澄んだグラスに琥珀色の液体が揺らめく。榊は一礼してブランデーを口に含んだ。

「ありがとうございます」

「ああ、礼を言うのはこっちなんだ」

 榊は怪訝な表情を浮かべる。男はラークに火を点けた。


「あの店は、うちの組の管轄でな、みかじめ料もきっちり貰っている。最近トラブルが無いと思えばやたら強いバーテンがバイトに入ってるという」

 そう言って、榊の顔をチラリと見た。


「どんな奴か顔を拝んでやろうと覗いてみれば、仕事の最中じゃないか。様子を見させてもらったが、なかなかの腕だ。それに面構えもいい。バーテンのバイトにしておくのは惜しい」

 男は天井に向けて煙を吐き出した。

「どうだ、うちに来ないか。鳳凰会柳沢組。ああ、俺は鷲尾晃司という」

 黒いスーツの胸元には鳳凰をデザインした金バッジがついている。鷲尾は幹部クラスだ。

「ヤクザは好きじゃない」

 榊はブランデーを飲み干した。立ち上がろうとする榊を鷲尾は引き留める。


「外はまだ雨だ、もう一杯飲んでいけ」

 空のグラスにブランデーを注ぎ足した。鷲尾は酒が回ったのか、機嫌が良く話始める。

「そうか、大学では法律と経済を学んでいるのか、仕事は決めたのか?」

「いえ、まだこれといった職が無くて」

「そうか、なおさら俺のところに来い」

 今は小さな組だが、これから大組織に成長できると豪語する。

「ヤクザは経済学の実践に向いているぞ。生きた経済を実感できる、何せスピード勝負だ。腕っ節や度胸も必要だがな、お前は頭と腕、両方を兼ね備えている。弱肉強食の実力社会だ、自分の力を存分に試せるぞ」

 いつでも連絡をくれ、と榊の肩を豪快に叩いた。


 裏口の重い扉を開けるとまだ雨は降り続いている。麗子が榊に黒い雨傘を手渡してくれた。

「ごめんなさいね、あの人見込みのありそうな若い子をこうやってよく口説くのよ。でも、あなたには本気みたい。あんなに熱心なあの人、見たことがないわ」

「すみませんが、俺は」

「いいのよ、ヤクザなんて所詮ろくでなしなんだから」

 そう言って、にっこり笑った。麗子は鷲尾のことを愛しているのだろう。榊は一礼して傘をさし、裏路地を歩いていく。鷲尾の荒唐無稽な言葉が頭から離れなかった。実力を試せる、その言葉が若い野心に突き刺さる。父の顔が浮かんだ。榊は自嘲した。


 3日間悩み、榊は鷲尾に連絡をした。鷲尾の組に入る決意を伝えるためだった。

「大学を卒業してこい」

 榊の返事を喜んだが、鷲尾はそれまで待つ、と言った。気が変わるならそれでもいい。いつでも待っている、と笑った。周囲の同級生はどんどん就職が決まる中、榊の心は落ち着いていた。


 桜舞う春、卒業証書を手にした榊は鳳凰会柳沢組の門をくぐった。組長の柳沢は50代半ばで恰幅が良く、白髪交じりの豊かな髪を後ろに撫でつけた一見人当たりの良さそうな男だ。組事務所で榊は柳沢の盃を受けた。

「鷲尾が見込んだ男だ、期待しておるぞ」

 そう言って豪気に笑った。鷲尾は組の若頭だった。彼の連れてきた者は皆よくやっている、と自慢げに語った。


 榊は鷲尾から極道のイロハを学んだ。主にシノギのやり方だ。今は用心棒や脅しで食っていける時代ではない、法の目をくぐり頭を使うのだという。小さな組がのし上がるチャンスはそこにあるというのが持論だった。


「だが、クスリはやらない。あれは外道のすることだ」

 非合法すれすれ、時には力で脅しをかけることはあっても、麻薬は扱わないというのが組の掟だという。榊はクラブの用心棒から始まり、すぐに倒産整理や店の経営にも関わるようになった。その手腕は見事なもので、上納金の額はゆうに毎月のノルマを越えた。


 28歳にして若頭補佐となった。鳳凰会の二次団体だった柳沢組は本部の幹部会で一次団体へ格上げの話が出ていた。柳沢組には勢いがあった。ちょうどその頃、同じ鳳凰会の二次団体の中で小競り合いが起き始めた。格上げの話が出ている柳沢は暗殺のターゲットになっていると専らの噂だった。


「オヤジ、夜遊びをしばらく控えてもらえませんか」

 組事務所で鷲尾が柳沢に頭を下げていた。

「お前たちがおるから何も怖くない」

 柳沢は話を聞く耳を持っていない様子だ。榊をはじめ、鷲尾以下の組員の活躍で上納金が増え、組にも力があり、傲慢になっていた。柳沢は毎夜組員を連れて飲み歩いていた。だいたい決まった店に向かうので、格好の的になる。鷲尾の忠告を聞かずに柳沢は側近を連れて事務所を出ていく。愚かな、内心榊は思った。


 事務所の前で黒塗りのベンツに乗り込もうとしたとき、銃を持った若い男が走り込んできた。叫び声を上げながら柳沢に向けて発砲する。ガードが腕を撃たれ、アスファルトに転がる。柳沢は怯えて動けない。鷲尾が柳沢の盾になった。若い男はさらに発砲する。銃声が続けて3発鳴り響いた。

 榊は若い男に飛びかかり、銃を抑えた。それに続いて他の組員も若い男の身体を押さえ込む。柳沢は鷲尾に導かれてベンツの車内に乗り込んだ。他にも鉄砲玉が潜んでいるかもしれない。車は勢いよく走り出した。


「鷲尾さん」

 榊が鷲尾に駆け寄る。鷲尾は崩れ落ち、膝をついた。見れば、白いシャツの胸元に赤い染みが広がっていく。鷲尾の身体を支えた榊の手にべっとりと血がついていた。

「撃たれたのか」

「かしら、大丈夫ですか!」

「おい、救急車だ、すぐ!」

 鷲尾の足元に血だまりができていく。おそらく、この出血では助からないだろう。

「榊、お前の成長する姿を見たかった・・・」

「鷲尾さん」

「すまねえな、俺はここまでだ。組を、頼む」


 崩れ落ちる鷲尾の身体。組員の怒号やサイレンの音は榊の耳には届かない。ただ、鷲尾の流す赤い血の色だけが目の奥に焼き付いていた。


 葬儀の日は雨が降っていた。まるで、鷲尾と初めて会った日のような霧雨だ。鷲尾は死んだ。柳沢は鷲尾の忠告に背いたことを悔いた。しかし、鷲尾は帰って来ない。喪服の麗子が参列者に丁寧に頭を下げている。彼女は内縁の妻だった。

 焼香を済ませ、榊は麗子に深くお辞儀をした。麗子は弱々しく微笑んでいた。雨に濡れていたい気分だった。傘も差さず、鷲尾の棺を見送った。


「鷲尾さん、残念やったな」

「ああ、あんなできた男、そうそういないぞ」

「しかし、柳沢さんもやりやすくなったんじゃないか」

「そうだろうな、鷲尾は道に外れることを嫌っていたからな」

 背後に参列する組幹部たちの声を潜めた会話が否応なく耳に入ってくる。数珠を握る榊の手から血がぽたりと垂れた。榊は無言でその場を去った。

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