血に濡れる盃 ー榊 英臣

第1話

「なんだ、この店は。気色悪いぜ」

「ここにいるのはホモ野郎ばかりかよ」

 ムーディなブルーのライトが灯る店内で、突然下品な大声が上がる。振り返れば黒いスーツに柄物の開襟シャツ、金のネックレスをつけた明らかに筋者という雰囲気の男だ。無理に整えた細い眉に意地の悪そうな目、口元は憎悪に歪んでいる。もう一人も同じ風体でシャツの色が違う、団子鼻の男だ。隣で大人しくカクテルを楽しんでいた男性同士のカップルを突き飛ばした。


「気分が悪い、金は払わねえぜ」

 そう言って立ち上がり、2人とも伝票を置いて店を出て行こうとする。同じような手口で何かしらいちゃもんをつけ、無銭飲食を繰り返しているのだろう、手慣れたものだった。


「飲んだ分は払ってください」

 ドアの前にバーテンが立ちはだかった。その長身と、鋭い眼光に2人組の男は本能的な恐れを感じて後ずさる。バーテンはまだ若い、バイトだろうか。思わず怯んだものの、バーテンに気圧されたプライドが傷つけられた男たちは再び大声を出す。

「こんな店と知ってたら入らなかったぜ、金は払わねえ」

「ビール2杯、ハイボールにウイスキー。チャージと迷惑料込みで2万円です」

 若いバーテンは全く怯む様子はない。

「何だとこら」

 男たちは2人で息巻いている。今にも殴りかかりそうな勢いだ。

「表出ろや」

「分かりました」


 少ししてバーテンが店に戻ってきた。顔を知る者たちはホッと胸をなで下ろす。白髪頭のマスターが慌てて駆けつけてきた。

「榊君、大丈夫か」

「はい、店を空けてすみませんでした」

 チンピラと共に店を出て行ったが、ものの5分で榊は店に戻ってきた。衣服の乱れはない。拳に着いた血をおしぼりで拭っている。

「聞けば、あの男たちは組筋じゃないか」

 店に出てきたばかりのマスターは常連客に話を聞いたようだ。

「ただのチンピラです」

「君がいてくれてとても助かっているが、君が奴らに仕返しされないか心配だよ」

「ご心配には及びません」

 そう言って、榊はカウンターへ戻り、注文の入っているカクテルを作り始めた。店長はやれやれ、とため息をついた。


 榊英臣、大学4回生で夜だけこのバーGOLD HEARTにバイトに入っている。最初は注文を聞いて酒や料理を運ぶだけのウエイターだったが、酒に興味があることを知ったマスターがカクテル作りを教えたところ熱心に学び、バーテンダーもこなせるようになった。


 寡黙な榊は店の雰囲気にも合っていた。この店は落ち着いた客層が多く、性的マイノリティの客にも好まれている。そういった客にも偏見を持たず、誰にでも礼儀正しく接する榊は客からも評判が良かった。しばしば客からアフターの声がかかることもあり、丁重に断る姿を見かけた。


 この一帯を仕切る組にみかじめ料を払ってはいるが、実際に小競り合いが起きても大して役には立たない。しかし、榊が来てからは迷惑客の対応に苦慮することが無くなった。榊は全く物怖じしない。ほとんどの迷惑客が榊のその射貫くような鋭い視線を恐れて大人しく帰っていく。今回のように物わかりの悪い連中は、今頃路地でのびているだろう。


 関東一円を支配する麒麟会、その一次団体で構成員250名、神奈川県西部における一大勢力を誇る榊原組。組長を務める榊原昭臣は一代で組をここまで大きくした切れ者だ。榊英臣はその榊原昭臣の長男だった。18歳のとき、大学進学とともに昭臣と離縁した。昭臣の大きくした組を継ぐことに疑問があったからだ。

 

 地盤が確かな榊原組はこれからも大きくなるだろう。榊にはそうする自信はあった。しかし、自分の手で一から何かを成し遂げたい、その気持ちに揺れた。自分が為すべきことは何か、そう考えた結果の離縁だった。榊原の姓を捨て、榊と名乗った。


 大学進学とともに都内にアパート借りた。大学は法学部へ進んだ。経済学の授業も熱心に受講した。奨学金を貰いながら、生活費は講義の合間のバイトで稼いだ。バイトは司法書士事務所や法律事務所、不動産会社など、社会の仕組みを学べる場所に限定した。

 親の援助は一切ない。生活する場所もひた隠しにした。自分が跡を継がないことを悟った昭臣が無理矢理引き取った年の離れた異母弟の結紀のことは気がかりで、ほとぼりが冷めてから時々密かに会っていた。


 雨の降る夜だった。深夜2時、榊はGOLD-HEARTでのバイトを終え、裏口の鍵を閉めた。小雨に煙る薄暗い路地裏に人影が見えた。5人、ゆっくりと榊の方に近づいてくる。先頭に立っているのは先日のしたチンピラの2人だ。榊の拳をまともに受けた顔にはガーゼが貼ってある。団子鼻はもっと低くなったことだろう。もう一人の細目も左の頬骨の周囲の内出血と腫れがまだ引いていないようだ。背後の男たちはいかにも腕っ節に自信があるガタイの大きな者ばかりだ。


「ガキが、この前は世話になったな」

 仲間を連れて豪気になっているチンピラがニヤニヤ笑いながら話かける。榊は拳を静かに握り絞める。

「兄貴、こいつですか、生意気なバーテンは」

「気にいらねえ目をしてやがる」

 男たちは榊を取り囲む。一人が榊の頬を殴った。口元からうっすらと血が滲んでいる。


「こいつ、怖くて動けねえみたいだ」

 一人が笑い出し、他の男たちも下品な笑い声を上げる。榊は血の滲む口元を歪め、笑っている。

「お前、怖くて気が触れたのか?」

 ソフトモヒカンの血気に逸る男が榊を狙い、拳を繰り出した。榊はそれを軽々と避け、間合いに踏み込んで鳩尾に重い拳をめり込ませる。男はぐっと呻くと血反吐を吐いて倒れた。

「おお、何しやがる」

「やれ、一気に潰せ!」


 残った4人が榊に襲いかかる。避けるついでに一人の頭を壁にぶつけて落とした。残るは3人。榊の腰を一人が掴む。団子鼻と細目が顔と体幹めがけて殴りかかってくる。軽そうな一人の拳を手の平で受け流した。もう一人の腹への攻撃は甘んじて受ける。榊はぐ、と呻くが、体幹を捻りダメージを軽減していた。腰にしがみつく男の頭に肘鉄を食らわせた。自由になった榊は団子鼻の顔にもう一度拳を見舞った。

「ぎゃああ」

 ガーゼが血まみれになり、水たまりの路地を転げ回る。その様子に怯んだ細目に2段蹴りを放つ。顔。そして腹、仕上げにボディブローで吹っ飛ばされた細目はゴミ箱に激突して気絶した。頭からゴミをかぶった様は無様極まりない。


 ソフトモヒカンがナイフを手に立ち上がった。怒りに任せ、ナイフを縦横無尽に振り回す。榊の二の腕をナイフが裂いた。白いシャツブラウスが血で染まる。

「えぐってやる」

 ソフトモヒカンが榊の腹を狙い、重心を落として飛び込んできた。榊はそれを避けない。ドン、と衝撃があった。ソフトモヒカンのナイフを持つ腕は榊に封じられていた。


「どこを狙うか分かれば防御するのは造作も無い」

 榊はその腕を捻り上げた。軋む腕、ソフトモヒカンは悲鳴を上げる。そのまま関節が粉砕される鈍い音が鳴る。榊が腕を放すと、ソフトモヒカンはその場に倒れ込んだ。


「このガキが」

 団子鼻が地面に転がったまま榊に銃を向けていた。撃鉄を下ろす音。銃声は続かなかった。団子鼻の顔を何者かが踏み潰していた。また鼻にダメージを受け、団子鼻は絶叫する。


「お前ら、カタギの、しかもこんなガキに本気出してんじゃねえ」

 そこに黒いスーツに黒シャツの男が立っていた。髭面で、頬には一筋の傷があった。見るからに極道だ。髪に白いものが混じっているところを見れば50台前後だろうか。すらりと佇む姿を、榊は息を呑んで呆然と見つめている。


 表通りが騒がしくなってきた。誰かが騒ぎを聞きつけて通報したようだ。男は榊に来い、と合図し、通りの奥に消えてゆく。表へ出れば事情を聞かれるだろう。榊は小さく舌打ちをして、男の後を追った。

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