第3話

 10年来の付き合いのあった組織でただ一人信頼できる男、楊義明が死んでひと月が経った頃、曹瑛の元に暗殺の依頼が飛び込んできた。依頼人は趙恩経という名の幹部だった。


「お前が曹瑛か、楊からよく話を聞いていた。かなりの腕利きらしいな」

 電話口の印象は正直気に入らなかった。明るい口調だが、ねっとりとした余韻を引き摺るような声だ。にやにや笑いながら話している気配も嫌悪感を覚える。


「用件は何だ」

「お前に仕事がある。詳しくはメールを確認しろ。久々の仕事だ、腕が鳴るだろう」

「後から確認しておく」

 曹瑛はそれだけ言い、一方的に電話を切った。


 何もないホテルの一室でベッドに身を投げた。窓の外から観光客のはしゃぎ声や物売りの喧噪が聞こえてくる。通りの向こうはハルビンの一大観光地、中央大街だ。曇りガラスの窓を照らすネオンがオレンジからピンクに切り替わっていく。曹瑛は明かりも点けず、すすで汚れた天井を見つめていた。

 人生は朝露のように短い。詩の一節が脳裏を過ぎる。楊は何を言いたかったのか。そして、自分は何をしたいのか。このまま組織の命じるまま人を殺め続けることが人生なのだろうか。


 暗闇にスマホの画面が光る。億劫だが、手を伸ばし、メッセージを確認する。

―魏秀永の殺害 ハルビン市郊外の別荘に滞在 期限は3日以内

 別荘の地図も送られてきていた。魏秀永という人物をスマホで調べてみる。地元の資産家で、ホテルやデパートを経営している。文化や教育の振興に熱心で、各方面への多額の寄付をしている。黒い噂は聞いたことがない。曹瑛は眉をしかめた。手にしたスマホが振動する。

「で、いつやるんだ?」

 趙恩経の声だ。

「明日の夜。なぜこの男がターゲットになる」

 曹瑛はこれまで暗殺の理由を楊に尋ねたことはなかった。下調べのときにも分かることだが現場でターゲットを見れば、相応の悪党だったからだ。


「お前が知る必要はねえよ、自分の仕事だけしてな」

 趙恩経は苛立っているのが分かった。しかし、曹瑛が無言なのに気が付くと、チッと舌打ちをした。

「こいつは民間の金持ちだが、敵対する組織へ資金提供をしている。それでボスが見せしめに殺せと言っている。これで気が済んだか」

「わかった」

 曹瑛は通話を終了した。


 夜10時、曹瑛は魏秀永の屋敷の敷地に降り立った。綺麗に手入れされた芝生、大理石の女神像が建つ噴水、広いテラスにはテーブルや椅子が並んでいる。庭の奥にはプールもあるようだ。二階のバルコニーから明かりが漏れている。魏秀永の書斎だ。曹瑛はロープをバルコニーの柱へ投げた。固定されたことを確認し、軽々とロープを登っていく。ガラス戸は開いていた。音も無く室内へ忍び込む。


 洋風アンティークに設えられた豪華な部屋だ。大きな書棚に革張りの応接セット、棚の上には明朝の見事な彩色の陶磁器が飾られている。臙脂色のビロードのカーテンの影から部屋の奥を覗けば、魏秀永が執務机で書き物をしていた。銀色の豊かな髪に銀縁眼鏡を掛けている。


 窓から吹き込む風にふと顔を上げれば、カーテンの影に人影を見つけた。魏秀永は椅子から立ち上がり、カーテンに近づいていく。不意に黒ずくめの長身の男が姿を現した。魏秀永はヒッと小さな悲鳴を上げる。黒いロングコートに、黒いスーツ、臙脂色のタイにサングラスを掛けている。男の只ならぬ雰囲気に魏秀永は立ちすくむ。


「ひとつ聞きたい。お前は裏社会の組織に資金提供をしているのか」

 男が静かな声で尋ねる。

「な、何の話だ」

 魏秀永は眉をひそめる。黒いスーツの男、曹瑛はその顔をじっと見つめている。コートの胸元からバヨネットを取り出した。握りの部分に赤い組紐を巻き付けた手に馴染んだナイフだ。魏秀永は黒光りするナイフを見て、震えている。


「私を殺すのか」

 魏秀永の問いに曹瑛は無表情のまま俯いている。

「…わからない」

 目の前の青年は逡巡している。しばしの沈黙の後、それだけぽつりと答えた。不意に部屋のドアが開いた。曹瑛がナイフを構える。小さな女の子がひょこひょこと部屋に入ってきた。

「爷爷…」

 目をこすりながら魏秀永に近づいていく。魏秀永は慌てて掛け寄り、その子を腕に抱く。

「どうか、この子だけは助けてもらえないか」

 魏秀永は曹瑛に背を向けて女の子の頭をかき抱いた。祖父の尋常ではない様子に女の子は驚いてぱっちりと目を開けた。目の前に立ち尽くす曹瑛を見上げる。


「おじいちゃんをいじめないで」

 魏秀永の孫なのだろう、女の子は目に涙を溜めながら小さな手を向けて、曹瑛を睨み付けている。

 曹瑛はその光景に息を呑んだ。目の前に遠い日の残像が浮かんだ。幼い兄の広げた小さな手、そしてきっと兄はこんな目をしていたに違いない。


「…大丈夫だ、何もしない」

 曹瑛はサングラスの奥の目を細めて唇を噛んだ。魏秀永に守られた女の子はじっと曹瑛を見上げている。大好きな祖父を守ろうと必死で泣くのを我慢している。

 不意に荒々しい足音がして、部屋に男たちが乱入してきた。曹瑛はバヨネットを構える。魏秀永は急展開する事態が飲み込めずに狼狽している。


「曹瑛、やはり裏切ったな」

 その声は趙だった。短髪につり上がった細い目、口から顎にかけて濃い髭を生やしている。その顔には下卑た笑みが浮かんでいる。黒い開襟シャツの男たち4人は自動小銃を手にしていた。

「楊はお前を随分贔屓して、えり好みして仕事をやっていたようだが、これからはそうはいかねえ。組織の命令は絶対だ。その男は薬物撲滅活動に莫大な資金援助をしてるのさ。今後の俺たちのシノギに邪魔になる」


 曹瑛はサングラスを胸にしまい、趙を見据えた。暗い瞳の奥には静かな怒りが宿っている。

「チャンスをやる、ここで魏秀永とそのガキを殺せ。できないならお前をヤク漬けにして廃人になるまで命令に従わせるまでだ。龍神といってな、組織に莫大な金を生む特別かヤクだ。お前はその実験台になれるぞ。どちらか好きな方を選べ」


 4人の男たちの銃口が曹瑛を狙っている。魏秀永は孫娘を強く抱きしめた。曹瑛は魏秀永の側に歩み寄る。そしてゆっくりとバヨネットを振り上げた。趙は黄色い歯を見せて笑っている。

 曹瑛が深く踏み込み、腕を薙いだ。その俊敏な動きに趙は何が起きたのか分からなかった。首筋から生暖かいものが流れ出ている。次の瞬間、噴水のように血の飛沫が飛んだ。それは天井を、壁を、床を赤く染め上げていく。


「き、貴様…!」

 趙は首から血を吹き出しながら、絨毯の上に倒れた。4人の男たちは銃で曹瑛を狙う。曹瑛はコートの内ポケットに仕込んだスローイングナイフを放った。男たちの腕にナイフが刺さる。弾は狙いを外して天井を撃った。

「早く外へ」

 曹瑛は男たちを牽制しながら魏秀永の腕を取り、部屋の外へ連れ出した。自分は再び部屋に入り、ドアを閉める。獣が喉笛を食い千切るように、男たちの首筋を次々とナイフで切り裂いていく。勢いよく吹き出した血は部屋を真っ赤に染めた。

 三分後、血だまりには無惨な男たちの死体が転がっていた。周囲には噎せ返るような鉄錆の匂いが漂う。曹瑛は頬に散った生暖かい血を拭った。


 部屋を出て、ドアを後ろ手に閉めた。魏秀永は震えながら曹瑛を見上げている。泣き疲れたのか、小さな孫娘は腕の中で眠っていた。

「お前は八虎連に狙われている、しばらく身を隠せ。この部屋の死体は片付けておく。誰の血か調べるのにしばらくかかるだろう。それで少しは時間稼ぎになる」

「わかった…君は…良い人間だな」

 魏秀永は穏やかな笑みを浮かべながら曹瑛をじっと見つめた。

「馬鹿なことを言う」

「今からでも遅くはない、君は正しい道を知っている。きっと、人生を取り戻せる」

 魏秀永は孫を抱きかかえながら階段を下りていく。曹瑛はその場に立ち尽くし、魏秀永の背を見守っていた。


 翌日の新聞で、魏秀永が邸宅で何者かに襲われ失踪したと記事が出ていた。現場は血の海で鑑識が手を焼いているという。それから裏社会で、「東方の紅い虎」の噂が囁かれ始めた。

 曹瑛はホテルの一室でベッドに身を投げ出し、煤けた天井を見上げていた。スマホのSIMカードを入れ替えて、組織とは連絡を絶っている。事実を知られるまで時間はあまりないだろう。


 趙の最後の言葉、「龍神」は依存性が高く、人間の凶暴性を引き出す恐ろしい“毒”だと分かった。八虎連に属する組織がそれを独占で扱おうとしている。まずは日本でのルートを作るという情報を得た。

 スマホにメッセージが届いた。日本での案内役が手配できたという内容だった。画面を見ればプロフィールと写真が表示される。

「宮野伊織…32歳」

 画面の温厚そうな男の顔に曹瑛は思わず口元を緩めた。日本の裏社会は随分平和のようだ。


「人生を取り戻す、か」

 曹瑛は荷物をスーツケースにまとめた。パスポートを確認し、コートのポケットに突っ込む。手に馴染んだナイフ、バヨネットに真新しい赤色の組紐を巻いた。そしてサングラスをかけ、薄暗い部屋を出て行った。

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