第2話

 曹瑛が18歳のとき、組織からまとまった金を渡された。これまでの暗殺の報酬という。どれほどピンハネされているか計算しようとも思わなかった。宿を借りて生活するには充分すぎるほどだった。

 組織から解放されることはないが、ある程度の自由を認められたということだ。


 仕事はコーディネーターの楊を通して入ってくる。それ以外は組織に敵対する行為でなければ自由。無論、裏切る素振りがあれば粛正される。春先に雪山から凍死体で発見されたり、用水路を流れていく溺死体になったりする者がいると聞かされた。


 定住できる家は持たなかった。仕事先で安宿を借りて過ごした。故郷に未練はない。拠点がハルビンなので現地仕事が多いが、要人の暗殺になれば西は甘粛省の外れや南は香港まで足を伸ばした。

 宿舎に押し込められていた少年期に比べれば、根無し草の生活は気楽だった。小さなキャリーケース一つで身軽に移動する。その土地の食べ物を食べ、時間があれば雄大な山や河を見た。

 本もよく読んだ。生きるための知恵から社会の仕組み、哲学、文学、科学、人と関わるのは組織からの伝達とターゲットとなる人間の命を奪うときだけ、本こそが良き師だった。


「来月、バイトのようなものだがちょっとした仕事がある。殺しではない」

 携帯へ、楊からの連絡だった。安宿のベッドに腰掛けた曹瑛は少し考えて返事をする。

「今のところ予定はない」

「友好関係を結んでいる日本の極道の親分がハルビンにやってくる。もし彼に何かあれば組織の顔は丸つぶれだ。お前にガードを依頼したい」

「あんたの頼みなら」

 曹瑛は短く答える。

「お前は影から見守っていればいいが、一応日本語の挨拶くらい勉強しておけ」

 それだけ言うと楊は電話を切った。


 ハルビン太平国際空港で日本からの客人を出迎えた。やってきたのは関東地方にある極道の一大組織、榊原組の組長で榊原昭臣といった。寡黙な黒服の側近を5名連れていた。榊原は剣呑な目つきに厳めしい髭を生やしたがっしりとした体格の男で、厚めの唇を引き結んでいた。頭に白いものが混じるところを見れば50代半ばくらいだろうか。

 エスコートを務めるのは楊義明。彼は八虎連の幹部だ。華やかに着飾った若い女性ガイド2名も同行した。曹瑛はその背後を影のように付き従う。

 

「ハルビンには戦争遺産があるそうだな」

 空港から市街地へ向かうベンツの後部座席で榊原が尋ねる。

「ええ、七三一部隊の残した施設跡が博物館として残されています」

 楊の答えに、榊原はまずはそこを見学したいという。予定を組んでいた楊は見るべきものはあまりないと伝えたが、榊原はどうしても行くと意思を曲げない。

 やむなくハルビン郊外の七三一部隊遺址へ向かうことになった。


 古びた博物館は人気がない。空には分厚い鉛色の雲が立ちこめ、今にも雨が降り出しそうだ。敷地へ入れば、3本の灰色の塔が天に向かって伸びている。終戦当時、証拠隠滅のために日本軍が破壊工作を行い、一部崩壊していた。榊原は塔を見上げる。

「日本はかつて愚かな戦争をした。この地はその爪痕の残る場所だ。歴史を知ることは大事だ。それに学ばなければならない」


 曹瑛はそれを黙って聞いていた。楊から話を聞いた1ヶ月前に独学で学び、日本語の意味はだいたい理解できた。近くには毒ガスの実験施設も残されている。

 榊原が説明看板に見入っていたそのとき、敷地内を散歩していた男がコートから銃を取り出すのが見えた。


 曹瑛は男の銃を握る手を狙い、スローイングナイフを投げる。それと同時に、走り出した。ナイフは男の手の甲に命中し、血が噴き出す。男は一度は怯んだが、銃を握り直した。曹瑛は男の銃を拳でたたき落とし、首を締め上げる。

 黒服の側近たちは榊原の前に立ち、盾となった。男が白目を剥いて落ちた。曹瑛は手を放すと男は地面に倒れる。銃を拾い上げ、楊に投げた。

 女性ガイドは怯えていたが、こういうこともあると聞いていたのだろう、最初に悲鳴を上げたきり、震えながら黙っていた。楊の部下が男の身体を運び去った。誰に雇われたのか聞き出すのだ。おそらく彼の命は保証されないだろう。


「先ほどは見事だった、名は何という」

 豪勢な中国東北料理が並ぶテーブルで、曹瑛は榊原の横に座るよう指示された。榊原は曹瑛の働きをいたく気に入ったようだ。予定では店の外で待機する手筈だったが、榊原の強い希望で会食の席に招かれた。

「曹瑛」

「男前だな、良い面構えをしている」

 榊原は料理を食べるよう勧める。酒も、というので仕事中だからと曹瑛は丁重に断った。


「曹瑛か、いい名だ。お前のような部下が欲しいものだ。どうだ、日本に来ないか」

 榊原の言葉に楊が慌てている。

「断る」

 曹瑛の言葉に榊原は残念そうな表情を浮かべる。それを聞いていた楊は、もう少しマシな断りようがあるだろうと頭を抱えた。

「お前ほどの男、組織が手放すはずもないだろうな。しかし、その目、ワシの利かん気の強い息子に似ている。おお、もう息子ではなかったな…」


 榊原組の一行は、取引とハルビンの観光を無事に終えて日本へ帰国した。

 榊原は市内観光途中に曹瑛をテーラーへ連れていき、オーダースーツをしつらえてくれた。

「極道はな、見栄が大事なんだ。お前は見目が良い。良いものを身につけろ」

 息子の成人式にしてやりたかったが、できなかったとぽつりと呟いた。スーツにシャツ、タイに靴、コートまで一式揃えてくれた。

「親分さんは絶賛していた。最後にも日本に連れて帰りたいと言っていたぞ。随分と気に入られたものだ」

 楊はただ驚いていた。接待の成功で楊も株を上げたようだった。


 時は流れ、八虎連で不穏な動きが持ち上がっていた。連合の一部が禁断とされている“毒”、つまりドラッグを主なシノギにしようとしている。組織内の均衡が崩れ始め、幹部の暗殺が横行した。

 曹瑛は一介の暗殺者であり、そうした動きに直接の関わりは無いように思えた。


 しかし、あるとき楊義明が失踪し、松花江の河岸に遺体で流れ着いた。頭と胸に銃弾の跡があったという。楊は曹瑛をよく気に掛けてくれた。10年近い付き合いだった。

 話を聞いたとき、涙は出なかった。気が付けば、唇の端から血が滲んで流れていた。


 仕事のため、宿泊していた寿春のホテルをチェックアウトしようとしたとき、フロントのホテルマンが厚みのある封筒を曹瑛に手渡した。そこには100元札の束と手紙が入っていた。手紙の差出人は楊義明。特徴のある力強い字で書かれている。


對酒當歌 人生幾何

譬如朝露 去日苦多


 三国時代の武将、曹操の詠んだ詩の一節だった。酒を前にして歌おう、人生は短い。例えるなら朝露のようだ。月日は過ぎ去ってゆく。そのような意味だった。曹瑛が酒を飲めないことを知ってこの句を送るのは楊らしい。

 金は曹瑛が少年期に請け負った仕事の報酬の一部だった。コーディネート料として組織から楊に支払われていたもので、それを返すということだった。何故だろう、文字が滲んでいく。違う、自分の目が涙で滲んでいたのだ。

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