赤い糸 ー曹瑛

第1話

 時折、兄の夢を見る。

 自分を守ろうと小さな手を精一杯広げた幼い兄を、黒い帽子の男の刃が切り裂いた。

 雪の降る、とても寒い日だった。鈍色の空と色を失った大地。灰色の世界で兄の流した血だけが鮮やかに小さな目に焼き付いた。

 兄の小さな身体は泥の中に横たわったまま動かない。泣き叫んだが、黒服の男に掴み上げられ、凍り付く畑に投げ飛ばされた。そのまま兄を呼びながら気を失った。


 親に売られた。それを後から知ることになった。親の記憶はほとんどない。ただ思い出せるのは畑の中を一緒に駆けた兄の、繋いだ手の温もりだった。

 同じ境遇の子供たちが集められていた。粗末な食べ物を与えられ、ただ命令を聞くよう躾られた。それを躾というにはあまりに厳しすぎた。小さな自尊心は打ち砕かれ、弱音を吐くことも許されない。

 物心ついた頃には厳しい鍛錬や、組み手を強いられた。体力や気力を失い、衰弱して死ぬ子供はそのまま捨て置かれた。


「お前らの名前なんぞ知らない。だが、お前らを識別する記号として必要だ。それがある方が便利だからな」

 そうして、子供たちにはそれぞれ名前が与えられた。

 

 ―曹瑛

 

 それが彼に与えられた名だった。両親や兄が呼んだ名前はいつしか記憶の彼方に薄れていった。

 曹瑛は自分に求められる役割を正しく認識した。それは組織に不利益な人間をこの世から消すこと。親に捨てられ、集められた子供たちはそれぞれに組織の求める人間に教育する。中国東北地方を拠点とする八虎連は、マフィアからごろつきまでの連合組織だった。

 曹瑛は八虎連の暗殺者として育てられた。無口で、感情を一切表に出さず、どんな苦しい鍛錬にも耐える彼は師からも一目置かれていた。


 初めての仕事は14歳のときだった。組み手の最中に呼び出された。鍛錬場の脇の古びた小屋に入ると、師の側に黒い詰襟の男が立っていた。長身でやや下がり気味の目尻、鼻筋は通っており、口元には薄い笑みを浮かべている。詰襟の男は曹瑛の姿を見て、目を細めた。紹介されたのは細身で、小柄な少年だ。前髪に隠れる目は暗い光を湛えていた。

「こんな子供に仕事ができるのか」

「初仕事だが、これでしくじるならこの先使えないだろう」

 写真を渡された。曹瑛はじっとそれを見つめ、詰襟の男に返した。

「持っておかないのか」

「顔は覚えた」

 曹瑛は呟くように答える。まだ声変わりの途中なのか、幼さの残るハスキーボイスだ。

「獲物は」

「目的地で調達する」

 師が詰襟の男に目配せした。詰襟は頷き、曹瑛を連れて小屋を出て行った。


「この男はな、王杉杜といって我々の指示するルートを外れた取引をしている。これまで二度警告したが、三度目はない」

 黒い外車に乗せられて、曹瑛は詰襟の男の話を黙って聞いている。

「俺は目的を果たすだけ、理由などどうでもいい」

 曹瑛はそれだけ言うと、スモークガラスの向こうに広がる景色を見つめている。


「しかし、気の毒なガキだな、うちの組織もえげつねえことをする」

 哀れむような顔で詰襟の男は曹瑛を見つめる。可哀想、そんなことを言われたことも無かったし、考えたこともなかった。おかしな男だ、と思った。

 ターゲットのいる村に到着した。車から降ろされ、黒い詰襟とともに王杉杜が闇取引を行う路地へ向かう。小さな村だ。埃っぽい商店の前で暇を持て余した老人たちが賭け麻雀に興じている。


 レンガ造りの粗末な家が並ぶ通りにターゲットを見つけた。Tシャツに短パン、ビールの箱に座り、タバコを吹かしている。2人連れの男が通りに入っていく。

 王杉杜に声をかけ、金を払った。王杉杜は何やら小さな袋を渡している。金をポケットにねじ込んでまたタバコを吹かし始めた。


「質の悪い“毒”だ。チンピラから仕入れて横流しをする。あんな小悪党はどこにでもいるが、この間は組織の扱う荷を掠め取った」

 曹瑛は商店の果物売り場に置いてあった小ぶりのナイフを手に取り、隠し持つ。路地に人影が無くなったのを確認し、歩き出した。その足取りは臆することなく、落ち着いたものだった。詰襟の男は曹瑛の小さな背を見つめている。


 曹瑛が王杉杜の前に立つ。浅黒い肌に髭面、淀んだ目をしている。怪訝な顔で曹瑛を見た。

「何だ、お前も買いたいのか?」

 王杉杜の言葉に答えず、曹瑛は手にしたナイフを男の右脇腹に突き立てた。王杉杜は反射的に曹瑛を突き飛ばす。焼けるような激しい痛み、そして腹部に生暖かいものが流れるのを感じた。ドス黒い血がみるみる白いシャツを染めていく。

 失われていく意識の中で、少年の顔を見た。何の感情も宿さず、ただ唇を引き結んで絶命する自分を見つめる顔を。痩せこけているが、これまで自分が抱いてきたどの女よりも綺麗な顔だと思った。


「見事なものだ」

 車の後部座席の隣に座る詰襟の男がニヤリと笑う。

「初めて人を殺した奴は、だいたいその場で嘔吐するか、震えて泣き叫ぶ」

 曹瑛はただ無言で窓の外を眺めている。手には男の腹から吹き出した黒い血がついていた。曹瑛はそれをシャツで拭った。報告を受けた師はただ頷くだけだった。


「一体、どんな育て方をしたらあんなガキが育つんだ」

「あいつは特別だろうな、感情が無い。殺しを恐れて実戦で使えない奴もいるし、人を痛めつけることに快楽を見いだす奴もいる。曹瑛はそうしたブレがない。実戦でもそれが証明された。この先有能な暗殺者になれるだろう」

 曹瑛は師の言葉をただ黙って聞いていた。


 その夜、曹瑛は与えられた粗末な部屋のベッドに寝転がり、暗闇を見つめていた。男の腹を刺した時の肉の抵抗、吹き出した血の温度、そして失われていく命。何も感じなかった。男が何をしていたかを聞かされたが、それに対する正義感もない。悪が悪を裁いた、それだけだ。

 組織からは命令に一切背かず、ただ任務を遂行しろと叩き込まれた。それがここで生き残る唯一の術だった。


 生き残ったところでどうなる、そう考えたこともあった。両親に捨てられ、兄は殺された。ここには友と呼べる人間もいない。この先、組織の指示に従うだけの人生に価値などあるのか。しかし、生きていれば兄を殺した男たちを見つけることができる、それだけが心の支えだった。


 それから鍛錬の合間に仕事を請け負い始めた。仕事のレベルはコントロールされており、段階を追って困難なものが宛がわれた。一度、銃を与えられたことがある。銃の使い方は一通り習得していたので問題はなかった。

 しかし、機械制御によって放たれた鉛の弾が相手の身体を穿ち、命を奪う。その軽さが好きになれなかった。曹瑛はナイフを好んだ。

 王杉杜の件で出会った詰襟の男はそれからいつも曹瑛をターゲットの元へ連れて行った。名を楊義明といった。楊は曹瑛になぜ銃を使わないのか尋ねたことがあった。


「命を奪うことの重みを忘れたくない」

「お前はおかしな奴だな」

 楊はそれを聞いて苦笑した。普通なら銃による楽な殺しを好む。その方がリスクが低い。ナイフは接近戦となり、反撃により自分も命を落とす可能性がある。

 それでも自らと一体でもあるナイフで引導を渡し、失われていく命の様を間近に目に焼き付けることがまるで懺悔にでもなるかのように考えているようだった。


「お前はいつも現地調達だな、全く器用なものだ。だが、そろそろ得意武器を持っておいてもいいだろう」

 武器ブローカー3人の始末をつけた帰り道に、楊が取り出したのが、黒いステンレススティールのナイフだった。

「アメリカ軍が採用しているM9バヨネット、刃渡り17㎝、黒光りする刃は化学処理が施され、錆に強く、優れた機能性と強度を誇る。お前にやるよ」

 曹瑛はそれを無言で受け取り、片手で弄んでみる。重さ、扱いやすさともに申し分無さそうだ。

「気に入ったか」

「使えそうだ」


 楊は車の窓を開け、タバコに火を点けた。曹瑛はそれをじっと見つめている。

「吸うか?」

 赤いマルボロの箱から一本抜いて曹瑛に手渡し、火を点けてやる。曹瑛は煙を吸い込んで、咽せた。

「一気に吸うからだ、まずは煙を口の中に入れるんだよ、それを吐き出す。慣れたら肺に吸い込む。でも今から吸ってると背が伸びねえぞ」

「俺はもう18だ」

「フン、そういえばあの頃からしたらずいぶんでかくなったな」

 楊は笑う。曹瑛はゆっくりと煙を吐き出した。

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