第2話

 榊原組は関東一円を勢力範囲とする麒麟会の一次団体で構成員250名、神奈川県西部における一大勢力を誇る。組長を務める榊原昭臣は一代で組をここまで大きくした切れ者だ。主なシノギは地上げに債権回収、興行、用心棒など。小田原にある彼の邸宅には時に政治家や代議士が密かに訪れることもあるという。


 高谷結紀は実母のもとから突如引き離され、榊原昭臣の子として小田原の彼の邸宅に貰われてきた。結紀の母は都内の高級クラブのホステスだった。榊原の子を宿し、迷った末に産み落とした。望まぬ命だった。彼女なりに愛情を注いだが、限界を感じ始めていた。彼女の見え透いた愛情を映すような結紀の空虚な瞳に、いつも罪悪感を抱いていた。

 そんなとき、結紀を貰い受けたいと榊原組の若頭から話があった。結紀と引き換えにこれまでの養育費としてまとまった金を渡された。その代わり、結紀には二度と会わぬようにと、それが条件だった。結紀は7つだった。


 結紀は新しい広い家で暮らし始めた。榊原邸の離れにあたり、ここには結紀と住み込み家政婦の春代さん、腹違いの兄英臣しか住んでいないようだった。榊原の妻である美沙子は一緒に食事をしてくれるし、今日一日何があったか優しく聞いてもくれる。しかし、夜には離れからいなくなる。父である昭臣もここには顔を出さない。普通の家庭の団らんとはほど遠かった。


 高校3年生の兄の英臣は昼間ほとんど家にはおらず、夜中にふらりと帰ってくる。バイクの音でそれが分かった。玄関の扉を開け、トントンと階段を上がる足音。初めてこの家に来て会ったそれきり。頭を撫でてくれた手はとても温かかった。もっと話がしたいと思った。しかし、突然現れた母親の違う幼い弟を彼はきっと快くは思っていないだろう。そう考えると、顔を合わせる機会がないのは良いことのように思えた。


 ひどくうるさい蝉の声に目を覚ました。枕元の時計を見れば、朝の5時だった。汗ばむパジャマが肌にへばりつき、もう一度眠る気になれずに結紀は身体を起こした。冷たい水で顔を洗い、箪笥からきれいに畳まれた服を取り出し、着替える。そっと台所を覗いたが、まだ春代さんも起きてはいない。玄関を出て、庭を歩いていた。この家ではまだ他人の気分だ。いや、どこにだって自分の居場所などありはしないのかもしれない。そんなことを思いながら見上げた夜明けの空に、透明な月が溶けて行く。


 敷地の中には母屋と離れの他に、もうひとつ大きな建物があった。そこにはまだ行ったことはない。結紀は探検気分で建物に向かってみることにした。扉から灯りが漏れている。こんな早朝から誰かいるようだ。結紀はそっと扉を開け、中を覗き込んだ。広い建物の中は板張りの道場になっていた。汗臭いすえた匂いと木の匂いが鼻先をくすぐった。

 道着に袴姿の男が2人、竹刀を持って睨み合っている。その張り詰めた気迫に結紀は思わず息を呑んだ。1人は顎髭を生やした強面の男、もう一人は義理の兄、英臣だった。


 もっと近くで見たい。結紀は靴を脱いで揃え、音を立てないよう道場に上がり込んだ。結紀の侵入に気が付いたはずだが、二人は全く意識を逸らさず睨み合ったままだ。結紀は壁の隅で膝を抱えて座り、じっと二人の動きを見つめていた。

 英臣が動いた。高い位置から竹刀を振り下ろす。髭面の男がそれを避け、彼の腰を打った。英臣はぐ、と呻いて一瞬怯むが、再び竹刀を振り上げた。髭面の男の頬を切っ先が掠った。頬には赤い筋が走る。それから激しいせめぎ合いが続く。

 どちらも身体に何度も竹刀を受け、流れる汗が床にポタポタと流れ落ち染みを作った。結紀はその光景に呼吸を忘れて、目が離せない。

 男の突きが英臣の顔を狙う。英臣はそれをギリギリで交わし、男の肩口に竹刀を振り下ろした。男は崩れ落ち、膝をついた。


「強くなりましたね、若」

 髭面の男がニヤリと笑い、英臣を見上げる。負けたはずの男の表情は、爽やかだ。

「大塚、手加減は許さんと言っておいたはずだが」

 勝った英臣は不満げに大塚と呼んだ男に鋭い視線を向ける。

「いえ、本当に負けです。若は容赦というものがない。身体中が悲鳴を上げてますよ」

 英臣は顔をほころばせた。大塚が結紀に向かって愛想をする。英臣も振り返った。長い前髪から流れ落ちる汗、涼しげな切れ長の瞳、そして頬には一筋の血が流れていた。小学校のスポーツクラブで剣道の練習をする様子は見たことがある。しかし、それとは違い彼らは防具を着けていなかった。


「おはようございます、坊ちゃん」

「おはようございます」

 強面に丁寧に頭を下げられて、結紀は萎縮する。

「大塚、お前の顔が怖いってよ」

 英臣が大塚をからかいながら道着を脱ぎ捨て、汗を拭いている。Tシャツとジャージに着替えて結紀を置いて道場を出ていく。結紀は英臣の後を追った。英臣は振り向きもせず離れに入っていく。結紀は少し寂しくなった。台所では春代さんが朝食の準備をしていた。

「おはようございます、早いですね、坊ちゃん」

 春代さんは優しく微笑みかける。味噌汁の湯気が立ち上り、魚の焼ける香ばしい匂いがした。  


 結紀は部屋に戻って、引き出しを開けた。たしかあったはずだ。筆記用具をひっくり返して見つけ出したのは絆創膏だった。あの傷をこれで塞げるだろうか。一枚持って台所へ戻った。英臣はシャワーを浴びて戻ってきた。そして春代さんの手伝いを始めた。結紀も春代さんに手を伸ばした。

「あら、坊ちゃんも手伝ってくれるの、ありがとう」

 箸とお皿をテーブルに並べた。炊きたてのご飯とお味噌汁、焼き魚に小さな冷や奴が並んだ。2人分の食事だ。春代さんは涼しいうちに庭で草むしりをしてくるから、と離れを出て行った。


 台所には英臣と二人きりになった。結紀は椅子に座った英臣に震える手で絆創膏を差し出した。

「なんだこれ、絆創膏か?」

 英臣はおかしそうに笑う。血はすでに止まっていた。結紀はうん、と頷いた。つぶらな瞳に見つめられて英臣は折れた。

「貼ってくれるか?」

 結紀は絆創膏のテープをゆっくりと剥がした。背伸びして英臣の頬の傷に慎重に絆創膏を貼った。ありがとな、と英臣は頭を撫でてくれた。結紀は嬉しくて顔を赤らめた。

「いただきます」

 手を合わせて朝食を食べる。初めて英臣と食事をする。何か話してみたい、けど何も思いつかない。ガタッ、と音がして驚いて顔を上げると英臣がご飯のお代わりをつぎに行っている。


「お前、細いな。しっかり食べてるのか?」

 ここに来たときに父親という男にも同じことを言われた。それがおかしかった。

「はい」

「ここでの暮らしは慣れたのか?」

「はい」

「寂しくないか?」

「はい、別に」

「ガキが別に、なんて言うなよ」

 英臣は複雑な表情を浮かべた。結紀はそれが何故か分からなかった。

「お前、今は夏休みか?」

「はい」

「どこか連れていってもらえよ」

「でも、何があるかわかりません」

 それに、誰に頼めばいいのだ。それも分からない。


「この近くに城がある、見に行くか?」

「・・・行きたい」

 結紀は実母の元で遊びに連れていってもらった記憶がほとんどない。時々、買い物やレストランに行ったくらいだ。城がどんなものか本で見たことしか無かった。少し興味はあった。なにより、英臣が連れて行ってくれることが嬉しかった。

「じゃあ、早く着替えろよ」

 そう言って食器を片付ける。結紀が流しに食べ終えた食器を持っていくと、英臣は手早く洗って片付けを済ませてしまった。


 もしかして、あのバイクで行くのだろうか、結紀は心のどこかで期待していたが、バスと電車を乗り継いで小田原城にやってきた。立派な堀と石垣、白い天守閣、初めて見る大きな城に結紀は心躍った。英臣は案内看板の前でひとつひとつ立ち止まり、書いてあることを易しくかいつまんで結紀に説明してくれた。


「お前は物わかりがいいな。・・・いつまでもお前じゃ悪いな、結紀という名前だったな」

「はい」

 結紀は名前を呼ばれて嬉しくなった。あの屋敷では大人達は自分を坊ちゃんと呼ぶ。まるで自分ではないような気がしていた。

 敷地内の遺跡を一周りして、天守閣へ向かう。城内には甲冑や刀剣、古文書などの展示が並ぶ。初めて見る実物に結紀は心躍っていた。

「英臣さんは剣道が強いですね」

 ふと、朝の道場での情景を思い出した。

「剣道じゃない、ケンカだな。剣道は一通り学んだ。だがそれは実戦では役に立たない」

 それで防具無しでやり合っていたのだ。まだ身体中が痛い、と笑っていた。


 天守の最上階からは相模湾が一望できた。真夏の晴れ渡った青空に大きな入道雲が浮かんでいる。結紀は背伸びして壮大な景色をずっと眺めていた。英臣は背後から結紀を抱き上げた。

「お前、あ、結紀は本当に軽いな」

 目の前の景色がまた広くなった。もしかしたら父親なら、こうやって抱き上げてくれたりするのかもしれない。英臣の腕はとても逞しく、優しかった。空の青さが目に染みるような気がして少し涙がにじんだ。


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