異聞ー東方伝奇

神崎あきら

光の海 ー高谷結紀

第1話

 高谷結紀には父親がいなかった。練馬にある祖母の家から小学校に通い、帰宅すると夕方から仕事に出掛ける間際の母親と少しだけ会話をする。

 母は品が良く美しい女性で、結紀に優しかった。小学校では友達はほとんどいなかった。周囲の子供達にはなじめなかった。それは父親がいないためだけではなく、子供らしい子供ではなかったからだと自分でも分かっていた。近所の子供だけでなく、大人たちも結紀の母は男に捨てられたこと、夜の街で働いていることを知っており、後ろ指をさされた。子供達は無邪気さゆえの残酷さで、大人達は同情という名の好奇心で結紀の小さな心を引き裂いた。


 ある夏の日。焼けるような日差しと蝉時雨の中、玄関のチャイムが鳴った。その日は母親が朝から薄化粧をして身なりを整えているのを不思議だと思っていた。もしかして、一緒に遊びに連れて行ってくれるのかと、結紀は淡い期待を抱いていた。扉を開けると、そこには黒いスーツの男が2人立っていた。


「結紀、これから榊原さんのお家に行くのよ。そこで良い子にして、よく面倒をみてもらいなさい」

 母親は膝をついて結紀の目を見て言った。その声は少し震えて、目は涙に潤んでいた。幼い結紀はそのときに見た母の顔が、これまでで一番母親らしい顔だと思った。


「別れはすんだか?」

 男の一人が低い声で言う。感情のこもらぬ声だ。母親は黙って首を振った。祖母が奥座敷に座ってじっとこちらを見ていた。結紀は男に手を引かれた。ああ、もうここには戻ることはないのだ、子供心にそう思った。

 黒いベンツがアパートの前に停まっていた。男が重いドアを開ける。結紀は理由も聞かずに車に乗り込んだ。車の中はクーラーがよく効いて涼しかった。男はバタン、とドアを閉める。結紀の胸がドクンと鳴った。ゆっくりと車が走り出す。結紀はアパートの“高谷”の表札を見送った。


「この子が親分の」

「そうらしい。まだ7歳だとか」

「早い内から予備の後継者を用意しようという肚だ」

「英臣さんは首を縦に振らないのか」

 ベンツの運転席と助手席の男がそんな会話をしている。小さな結紀には今自分に何が起きているのか分からず、不安でいっぱいだった。車は首都高速へ乗る。そのままスピードを上げて西へ向かっているようだ。夏の青空に大きな入道雲が浮かんでいる。車の後部座席にちょこんと座った結紀はただスモークガラスの向こうの空を見上げていた。


 かすかな海の匂いがした。ベンツが大きな和風の家の前に停まった。立派な門をくぐると手入れの行き届いた見事な日本庭園が広がっている。男に連れられて玄関の前に立つ。男が玄関の扉を開けると、和服の女性が正座していた。

「こんにちは」

「・・・こんにちは」

「さあ、上がって」

 母のような派手な美しさはないが、優しそうな女性だった。しかし、どこか憂いを帯びた笑顔がこちらを不安にさせるようなところがある。結紀は玄関に靴を脱いで小さな手で揃えた。祖母の教えだ。

 広い廊下を女性の後をついて歩く。背後には2人の黒服の男。ガラス戸からは先ほどの日本庭園が見渡せた。女性が失礼します、とあいさつして障子の扉を開いた。


 広い畳の部屋に紫色の座布団が置いてある。上座に和服の男が座っていた。剣呑な目つきのいかめしい髭を生やしたがっしりとした体格の男だった。結紀は怖くて部屋に入ることができなかった。

「来い、結紀」

 名を呼ばれた。女性に促されて座布団に正座した。膝の上に置いた手が震えているのが分かった。

「大きくなったのう、目元は母親にそっくりだ。しっかり食べているのか、ずいぶん細いぞ」

 男は厚めの唇を緩ませて笑う。脇に控える女性は黙って頭を垂れている。

「わしは榊原昭臣、お前の父親だ。これは美沙子という。お前の新しい母親だ。自分の母と思ってしっかり甘えるといい。今日からここがお前の家だ。足りないものは美沙子に言え」


 結紀ははい、と小さな声で返事をした。突然、知らない家に連れて来られ、自分は父親だという男と違う母親との顔見せだ。何の説明もない。しかし、聞き返すことができなかった。そういうものだ、と子供心に頭で理解したからだ。

「英臣さんは」

「呼んでおいたが、来やせん。まあ屋敷のどこかで会うこともあるだろう」


 お前には母親が違う年の離れた兄がいる、と教えられた。美沙子の子でも無いような口ぶりだった。父親との顔見せはそれで終わりだった。美沙子という女性に連れられて離れに案内された。1階の奥に子供部屋が用意されていた。ベッドに机、テレビ、本棚。アパートの部屋とは大違いで広い、綺麗な部屋だった。新品のランドセルもあった。練馬の家にまだ新しいランドセルがあるのにもったいない、と結紀は思った。


「お洋服はここ、サイズも合うはずよ」

 美沙子が衣装ダンスを開けると新しい洋服がぎっしりと詰め込まれていた。机の中には鉛筆やボールペンなど綺麗な筆記用具、ノートや教科書なども準備されている。夏休みがあけたらこの近くの新しい小学校に通うことになるのだ。


 昼ご飯を美沙子と一緒に食べた。冷たいそうめんだった。ガラスの器に氷を2つ入れてくれた。ひどく喉が渇いていた。麦茶を飲み干すと、すぐにお代わりを注いでくれた。

「何も聞かないのね」

 美沙子が微笑みながら結紀に尋ねる。

「え?」

「なぜここに連れてこられたのか」

「・・・僕にはどうしようもできないから」

 結紀は俯いてそれだけ答えた。夕食もここで食べるからね、と美沙子が教えてくれた。屋敷の中は自由に歩き回ってもいいと言い、美沙子は食器を片付け始めた。


 結紀は靴を履いて外に出た。広い庭を歩いてみた。大きな松の木に、池もある。橋の上から綺麗な錦鯉が泳いでいるのが見えた。紅葉に苔の生えた岩、まるで立派なお寺の庭のようだった。

 結紀がこれから住むことになる離れは、普通の一戸建ての家より大きな日本家屋だった。それよりも大きな母屋が手前にあり、そこには父と名乗った榊原昭臣が住んでいるのだろうか。狭いアパートの生活から一変して、立派な家に何でも欲しいものが手に入る環境の変化にも結紀は無感動だった。新しいランドセルも、ボールペンも別に欲しくはなかった。父も母も他人だ。でも、もとの家に帰りたいわけでもなかった。


 気が付けば、黒服の男が遠くに立ってこちらを見ていた。見張りだろうか。家の周りに何人か同じような黒服の男が立っていることに気が付いた。

 暑気にやられて部屋に戻った。クーラーがついていた。本棚を見れば、図鑑や小説などが並んでいる。どれも新しい。生き物図鑑を手に取った。ベッドに寝転がると、ふかふかのクッションに驚いた。図鑑を読みながらうとうとし始め、気が付けば眠っていた。


 肩を叩かれ、目を覚ました。美沙子ではなかった。60代くらいの女性が穏やかな笑顔を浮かべている。祖母と年の頃が近そうだ。夕食ですよ、と台所に案内された。テーブルには3人分の食事が用意されており、美沙子が麦茶を注いでくれた。


「さあ、食べましょう」

 結紀はいただきます、と言い隣の席をちらりと見た。同じように食事と箸が用意されているが、空席だ。

「英臣さんはいつ帰るか分からないから」

「あのう、英臣さんって・・・」

 英臣はこの家の長男で、高校3年生だという。家には帰ったり帰らなかったりで、遊び歩いているらしい。そのうち顔を見せるでしょう、と美沙子は感情の無い声で言った。食事はさきほど結紀を起こしてくれた女性、春代さんが作っているようだ。片付けも春代さんが始めた。春代さんはこの家に住み込みで雇われているらしい。


 食後は風呂に案内された。檜造りの大きな浴槽にたっぷりの熱い湯が張ってあった。木の良い香りがした。こんな贅沢な風呂に入ったことが無い。

 湯船に浸かって今日一日の出来事を考えていたら上せてしまった。歯磨きをして、部屋に戻る。電気を消して眠ろうとしたそのとき、荒々しい排気音が聞こえ、ハッと飛び起きた。


 部屋を出て、暗い廊下を歩く。この離れには誰もいないのだろうか。すべての部屋の電気が消えていた。玄関だけぼんやりとダウンライトが灯っている。そっと靴を履き、玄関を出た。離れの裏に回ると、広いガレージがあった。扉が開いて、明るい電灯の光が漏れていた。


 結紀が覗き込むと、そこには大きなバイクに跨がった男がいた。白いTシャツに黒のジーンズ、黒のショートブーツを履いている。男がヘルメットを脱いだ。大柄な男だから大人かと思ったが、ヘルメットの下の顔はずいぶんと若い。

「なんだお前は」

 思ったよりも低い声。男は長い前髪の奥から射貫くような鋭い眼光で結紀を睨み付けた。結紀はハッと息を呑んだ。怖かった。唇をきゅっと引き結び、怯えた表情を浮かべている。


「お前が親父の隠し子か」

 男はヘルメットを置き、こちらに歩いてきた。小さな結紀は彼を見上げる。結紀は怖くて足がすくみ、動くことができない。男がしゃがんだ。結紀の目線に男の顔があった。精悍で、整った顔立ちだ。昼間見た父親と言っていた男に口元が似ていると思った。


「俺は英臣、よろしくな」

 そう言って結紀の頭をくしゃくしゃと撫でて、笑った。胸がドキンと鳴った。英臣がこの家に来て初めて人間らしい扱いをしてくれたと感じた。美沙子も春代も優しかったが、どこか腫れ物に触るような扱いだった。父親はあれきり顔を見せにも来ない。

「英臣さん・・・僕は高谷・・・あっ、結紀です」

結紀は上目使いで答える。俺よりも賢そうな顔だ、と英臣はまた笑った。

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