第3話
榊原の屋敷では結紀は坊ちゃんと呼ばれ、強面の男たちからも可愛がられた。実父の昭臣も、時には結紀を母屋に呼んで気まぐれにお菓子やケーキを食べさせてくれた。欲しい者は無いか?といつも尋ねられたが、お金で買えるものは充分なほど与えられていた。母親代わりの美沙子も、住み込みの春代さんも優しかった。
しかし、小さな結紀にとって、この狭い世界で一番心寄せられる人間は、年の離れた異母兄の英臣だった。普段、昼間はほとんど家にいない英臣だが、ときに結紀を遊びに連れ出してくれた。海や山、公園に博物館、彼と一緒ならどんな場所でも楽しかった。
夏休みが終わり、小学校が始まった。
「皆さん、新しいお友達の榊原結紀くんです」
若い男性教師は結紀に気を遣っていた。小田原の榊原と言えば極道の一大勢力だ。その息子の担任になると聞かされて、一体どんな子が来るのかと前日まで不眠が続いていた。会ってみれば、小柄で物静かな子だ。ぱっちりした目が可愛らしいが、どこか影のある子だった。同年代の子供より大人びているようにも思えた。榊原の家には高校生の一人息子しかいなかったはずだ。それが、突然小学生の息子を頼みます、と頭を下げられた。教員の間でも何か事情のある子に違いないという噂でもちきりだった。
結紀は新しい学校でも馴染めずにいた。悪気のない教師たちの遠慮が子供達にも敏感に響いたのだろう。ヤクザの子供だと噂されているのも知っていた。こんな扱いには慣れていた。友達もなく、放課後の遊びの約束がない結紀は図書館で本を借りて帰るのが日課になっていた。
その日も時間を忘れてずっと本棚を眺めていた。気が付けば校門が閉まる時間だ。慌てて手提げカバンに借りた本を入れ、学校を出た。
夕暮れの商店街を一人歩く。夕陽の色をした雲が海の方へ流れていく。夕市の活気、家路を急ぐサラリーマンや買い物帰りの主婦たち、いつもと違う景色を見上げながら足を速めようとしたそのとき、通りの向こうに学生服の英臣の姿を見つけた。周囲を同じ歩調で歩く5,6人の学生服の男たちは友達なのだろうか。髪の毛は金髪や坊主、潰した学生カバンに変形ズボン、赤いシャツを着ていたりと不良仲間のようだ。
結紀は距離を取って英臣の後を追った。商店街の外れにある廃業した映画館の横の空き地に入っていく。結紀は壁に隠れ、そっと空き地を覗き込んだ。英臣を不良達が囲んでいる。6人いた。一人が英臣の頬を叩いたのを見た。彼はポケットに手を入れたままだ。
どうしよう、英臣さんがあいつらにいじめられている。結紀は動揺した。周囲を見回すが、大人の気配はない。賑わいのある通りへ助けを求めて走り出した。道行くサラリーマンのカバンにすがり、助けてと声を上げる。
「君、どうしたの?親は?」
「お兄ちゃんがたくさんの人にいじめられているんです、助けに来て」
困ったなあ、とサラリーマンは眉根を寄せる。子供のケンカとはいえ面倒に巻き込まれたくはないのだ。そのとき、自転車に乗った警察官が通りかかった。
「どうしたの?」
「お兄ちゃんが怪我をしてるんです」
警官は驚いてどこだと尋ねた。そう言えばすぐに助けに来てくれる、結紀の知恵だった。結紀は映画館へ走った。空き地から英臣が一人で出てきた。唇から血を流している。白いカッターシャツは所々赤い染みがつき、黒い制服のズボンは土埃がついていた。警察官が慌てて駆け寄る。
「君、大丈夫か?」
そう言いながら空き地を見て目を見開いた。そこには6人の不良学生達が倒れていた。
「これは一体どういう・・・」
英臣は警官から距離を取りながら、結紀にこっちに来るよう手招きした。結紀は警官の自転車を倒して走り出した。
「あ、待ちなさい!」
英臣に手を引かれ、商店街を突っ走る。警官は自転車を起こすのに手間取りながら叫んでいる。しかし、彼らを追うよりも倒れている不良学生たちの方が優先だと思い直したのだろう。追っては来ないようだった。
「はあ・・・はあ・・・」
心臓のドキドキが止らない。
「結紀はなかなか足が速いな」
そう言って笑う英臣も肩で息をしている。住宅地の中の公園のベンチに座り、二人呼吸を整えた。
「警官を呼んだの、結紀か?」
英臣に言われて結紀は黙ったまま頷いた。
「英臣さんが、危ないと思ったから・・・ごめんなさい」
「バカ、俺があんなのに負けるわけないだろ」
結紀は怒られたと思い、俯いた。英臣は結紀の小さな頭を撫でた。
「ありがとな」
英臣は笑っていた。結紀も彼を見上げて笑った。英臣の唇の端が切れてうっすらと血がにじんでいる。結紀はランドセルから絆創膏を取り出した。テープを剥がし、英臣の頬にそっと貼る。紫色に染まる空には星が瞬き始めていた。
英臣に手を引かれて自宅に帰ると、門の前にミニパトが停まっていた。警官が2人、英臣の帰りを待っていた。
「一応、お話をお聞きしたいのですが・・・」
彼らもヤクザの親分の息子に事情聴取などしたくはないだろう。渋い顔をこちらに向けている。玄関先で父の昭臣が息子の帰りを待っていた。
「6人に怪我を負わせたそうですが」
「正当防衛だ」
英臣は短く答える。相手は鼻骨や肋骨骨折の者もいるという。
「兄さんが大勢に連れて行かれて、最初に顔を殴られました。僕、怖かった」
英臣の横にいた結紀が怯えた声で警官に伝えた。これで最初に殴られたことが証明される。彼にもしものことがあったら、と怖かったのも事実だ。英臣の顔の絆創膏に目をやり、警官2人で顔を見合わせた。
「うちのも被害者だ、子供のケンカに親が出張る気はない」
やりとりを見届けた昭臣は屋敷に戻っていった。一通りの聞き取りを追え、警官たちは帰っていった。おそらく相手は何も言ってはこないだろう、結紀はなんとなくそれが分かった。
「お前の絆創膏が役に立ったな」
英臣はニヤリと笑った。絆創膏は怪我を治すために貼ってあげたものだ。結紀はくちびるをとがらせた。
翌年の冬、その日は朝からちらつく雪が庭に降り積もっていた。美しい雪化粧の日本庭園が見渡せる榊原邸の和室で、正座した英臣は父を前にして膝に置いた拳を握りしめている。
「育てていただいた恩は忘れません。だが、俺は自分の手で人生を掴みたい」
英臣の言葉は凜とした響きを帯びていた。父親に頭を下げながらも、その目はしっかりと父を見据えていた。父の昭臣も表情一つ替えず、英臣の目をじっと覗き込んでいる。
「それがお前の決断か」
「はい」
「離縁される覚悟はあるのか」
「はい、榊原の姓を捨てます。あなたの威光を笠に着るつもりはない」
「わかった、好きにしろ」
昭臣はそれだけ行ってタバコに火をつけた。英臣は失礼します、と深く頭を下げて部屋を出て行った。昭臣は静かに閉まる障子の音を聞き、がっくりと肩を落とした。
英臣は離れに戻り、最小限の荷物をまとめた。大学の合格通知と都内の安アパートの契約書をリュックに詰め込む。奨学金を借りる手続きも調べた。夜更けに台所で片付けをしていた春代に声をかけた。
「お世話になりました」
「英臣坊ちゃん、本当に出て行くのかい」
「はい、もう決めました」
「寂しくなるよ、私もだけど結紀坊ちゃんがね・・・」
春代の言葉に英臣は俯いた。お元気で、と春代は片付けを終えて部屋に戻っていった。振り向けば結紀が立っていた。
「英臣さん、どこかに行くの?」
「ああ、この家を出る」
「また戻って来る?」
「もう戻ることは無い」
英臣の言葉に、結紀はどうして、と聞こうとして言葉を飲み込んだ。英臣は自分の選んだ道をゆくのだ。それを子供心に何となく感じていた、引き留めてはいけないと頭では分かっていた。
「結紀、また我慢してるな・・・何か言いたいことがあるだろ?」
結紀は笑顔で英臣を見上げた。
「じゃあ、バイクに乗せて!」
「寒いぞ」
結紀にジャンパーを二枚重ねに着せ、マフラーを巻いてやる。英臣もセーターの上に厚手のファー付きジャケットを着た。ガレージにあった古いヘルメットの埃を拭き取って結紀の頭にかぶせ、しっかりと紐を締めた。ガレージのライトにホンダシャドウのシルバーの車体が光っている。英臣が日々手入れを欠かさず、大事に乗っていたのを知っている。このバイクは英臣がアルバイトで貯金した金で買ったのだと春代さんがこっそり教えてくれた。おそらく、父に頼めばバイクだって買ってもらえただろう。しかし、彼はそうしなかった。
英臣は結紀の身体を持ち上げ、後部座席に座らせた。足を大股で開かないといけなくて、バランスを崩しそうだ。英臣がバイクに跨がる。革の手袋をはめ、エンジンをかけた。エグゾーストの重低音が身体に響いてくる。
「しっかり掴まってろよ、振り落とされるぞ」
結紀が背中にしがみついたのを確認し、英臣はアクセルを吹かした。朝方降っていた雪は止んでいたが、寒さが厳しい。結紀は英臣の背中にしっかり抱きつく。広い背中から温もりが伝わってくる。
徐々にスピードを上げ、湾岸線を流していく。結紀も自然と体重移動に慣れてきたようだ。背中にしがみつく手からストレスが減ってきた。
「そういえば、どこに行きたい?」
「遠くに」
結紀は英臣の身体にしがみつく手に力を込めた。
波止場の手前にバイクを止めて、桟橋の先まで歩く。
「お前は思ったよりタフだな」
1時間近くの寒空の下でのツーリングにも、結紀は疲れている様子は無かった。桟橋の先には目映いネオンが見えた。高層ビルの灯りに、色を変えてゆく観覧車のイルミネーション、レトロな面影を残す倉庫の街灯の優しい光。いろいろな光が結紀の目に飛び込んできた。
「わあ、きれい!」
結紀は思わず声を上げた。そのままじっと立ち尽くし、美しい夜景を眺めている。
「こんなの初めて見た」
「良かったか?」
「うん、ありがとう英臣さん」
英臣を見上げた結紀の瞳には涙が零れていた。英臣はその顔を見て、目を細める。結紀ははっとしてまた前を向いた。陸の光が海の水面に反射してキラキラ輝いて揺れている。涙で目の前が滲んで、まるでそれは美しい光の海のように見えた。
「行っちゃうの?」
「・・・ああ」
英臣は低い声で短く答える。結紀は俯いたまま、英臣の方を向いた。
「行かないで、兄さん」
結紀が英臣の足元に抱きついた。英臣は涙が零れないよう空を見上げた。ぎゅっと目を閉じ涙を振り払い、膝をついて結紀の目を見つめた。
「お前には時々会いにくる。都内の大学に通うんだ」
「何で、家からじゃ駄目なの?」
「俺は榊原の姓を捨てる。お前にもいつか分かるときがくる。そのときは自分の信じた道を行け」
英臣の目には強い光があった。結紀は涙を拭い、頷いた。英臣は分かっていた。父は自分が後を継ぐ気がないことを感じ取っており、そのために血の繋がった結紀を無理矢理引き取ったことも。結紀の人生を狂わせてしまった。それは英臣の負い目だった。
「それなら、大丈夫」
結紀は笑った。彼はどのような選択をするのだろうか。榊原組を継ぐのか、それとも。英臣は結紀の賢さと強さを知っていた。その笑顔に救われた気がした。結紀の小さな頭を優しく撫でた。
―10年後
結紀は桟橋の柵にもたれ、携帯電話をかけていた。目の前には輝くイルミネーションが広がっている。
「元気だよ。うん、受かったんだ、都内の大学」
水面は陸の光を反射して輝いている。それを懐かしい目で見ている。
「大学の近くのアパートを借りる。親父は、ちょっとがっかりしてたけど、まだまだ現役でいくって。新しい後継者はもう考えてるみたい。春代さんも元気そうだよ」
それから笑い声。
「榊さん、今度食事でも行こう。合格祝いにおごってくれる?」
じゃあね、と電話を切った。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。結紀はホンダシャドウに跨がり、ヘルメットをかぶる。エンジンをかけた。昔と変わらぬエグゾーストだ。アクセルを吹かし、桟橋を後にした。
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