第43話逃避と盗癖

「お前、成政と言ったな。先ほどはなかなかの動きと聡さを見せていた。褒めて使わす」


 美濃のまむし、斉藤利政に褒められる。義を重んずる者であれば内容がどうであれ、唾棄すべきことである。

 しかし成政は「もったいなきお言葉」と比較的素直に返答した。


 稲葉山城の謁見の間で成政は利政と話していた。

 この場には利家はいない。彼は信長に援軍が来ることを伝えに帰ってしまった。

 成政も利家と同じく那古野城へ帰還しようとしたが、利政に留め置かれたのだ。


 人質として拘束されたわけではない。

 客人として接待されるわけでもない。

 ただ話がしたいとのことだった。


 それは以前、信長に成政が紹介されたとき、利政に生意気な物言いをしたことが原因かと、若い成政は内心思ったが、それは違うようだった。

 彼の目の前に小さな杯が置かれて、なみなみと酒が注がれている。

 利政の前には御膳と酒が置かれていて、先ほどから飲み食いをして話を振っている。


「なんだ。先ほどから酒を飲まないな。ひょっとして下戸なのか?」

「……同盟しているとはいえ、他国の君主の前で酒など飲めません」

「ふふふ。折り目正しい若者といったところだな」


 含みを持たせるようなことを言う利政。

 成政は周りに刀を持った武士や小姓がいる状況では何もできないと断じていた。

 正徳寺のときの状況とはまるで違う。


「ま、演じるのは大変だと思うが、それなりに頑張っているようだ」


 成政の耳に、どきりとする言葉が入った。

 はっとして利政を見るが、当の本人は美味しそうに肴である川魚を食べていた。


「……演じるとは、どういうことですか?」


 成政自身、踏み込んではいけないと本能的に思っていた。

 しかしそれでも踏み込まざるを得なかった。


「そのままの意味だ。お前は――怖れている。本来の自分の弱さを」

「なっ――」

「強い己を演じているつもりだろうが、それは見せかけだ」


 利政は悪そうな笑みのまま、成政の核心に迫る。

 まるで――野鳥の卵を狙い、するすると忍び寄る蛇のように。


「お前の本質は逃避だ。緊迫した状況に立たされたとき、まず考えるのは逃げ道の確保。もしくは状況そのものを回避する方法だ」

「…………」

「先ほどのやりとりで分かった。お前は目の前にいるわしを殺そうとしなかった。何とかしてこの場を切り抜けようと考えた。わしを人質に取れば、交渉の余地があるかもしれないとは――考えなかった」


 そのとおりだと成政は思った。出口を塞がれたあの状況ならば、斉藤利政を人質に取るほうが、確実ではないものの助かる公算はあっただろう。現に利政を守る者は少なかった。自分と利家が協力すれば――可能だろう。


「無論、逃げることは悪いことではない。三十六計逃げるに如かずという言葉もある。だが真っ先に逃げを考える者は、はたして他の者に信頼を置かれるか?」

「……私を、臆病者と言うのですか?」

「先ほど酒を断ったときの言い訳も、逃げを考えたものだったな」


 そう言って、利政は川魚の身を贅沢に取って、一口で頬張り、そのまま酒で流し込む。

 成政は自分の性根を言い当てられたことに羞恥と憤怒を覚えていた。


「私は、逃げを第一に考える、臆病者ではありません」

「臆病というより、卑怯と言うべきだな。いや、それはそれで悪くないが」

「…………」

「お前と一つ、問答がしたい」


 利政は成政を睨みつけながら、たった一つの問いを放り投げる。


「お前は何故、逃げたいと思うのだ?」


 成政はその言葉で前世を思い出す。

 何者になれなかった、引きこもりの自分。

 誰にも期待されなかった、失敗した自分。


 そんな昔の自分が嫌で。

 自殺を選んでしまった。

 それは結果的に逃げたということだろうか?


「……逃げたいと思って、逃げる者などいません」


 認めたわけではない。今でも自分の性質が逃避だと思いたくない。

 それは一種の逃避であったけど、成政は気づかない。

 だが利政の言葉につられて、徐々に本音を吐露し始める。


「私は生きるために戦っています」

「ほう。生きるため」

「たまたま武の才に恵まれ、我が殿に目をかけていただいています。そんな自分にできることは、戦うことです。けれど――あっさりと死にたくはありません」


 成政は利政と見つめ合う。

 決して逸らさない。

 己の貫きたい思いを利政に伝える。


「私は恐ろしいのです。死んでしまって、何もかも無くなって消えてしまうのは。それが恐ろしくて仕方がありません。さらに言えば、無様な死に方もしたくありません」


 未来の知識どおりの死など、成政は真っ平御免だった。

 絶対に幸せになってやると誓ったのだ。


「だから、斉藤様のおっしゃるように『逃げ』を優先してしまうかもしれません。しかし仕える主のために、戦うのは自分の務めだと思っております」


 利政は顎に手を置いて「ふうむ……」と唸った。


「では、お前は犬死したくないと」

「はい、そのとおりです」

「だが、戦いは続けると?」

「それもそのとおりです」

「……わしには理解できん」


 逃げることを肯定する利政には分からないようだった。


「死にたくなければ、戦わなければ良い。生きたいのであれば、武士をやめるべきだ。特に野望もないようだしな」

「…………」

「わしは油売りから美濃国の守護代にまで成り上がった。それはひとえに野望や野心があったからだ」


 美濃のまむしは、尾張国の若武者に言う。

 前途ある若者に、老い先短い老人は言う。


「ただ生きたいだけならば、好き好んで戦う必要などない」


 そしてさらに続けて言った。


「お前が武士をやめないのは、現状維持という名の逃げだ。ただ流されるだけに生きているだけだ」

「……斉藤様」

「婿殿はお前を高く評価していたが、わしから見てみれば安く思えるぞ」


 真っ向から非難された成政だったが、案外傷ついたりしなかった。

 むしろ自分のことを真っ直ぐ見られるのは、快感でもあった。


「斉藤様。私からも一つ、問わせていただけますか?」

「なんだ? 言ってみよ」


 成政はすうっと深呼吸して。

 それから問う。


「自分では天下を望めぬと分かっています。そして己の主君が天下を狙える器量だとも分かっております」

「…………」

「その場合、あなた様なら何を目指しますか?」


 利政は即答した。


「己の主君を除いて、わしが天下を取る」

「…………」

「自分が天下を望めぬと決め付けるな。天の時、地の利、人の和。それらが揃わなくとも、天下を狙う気持ちがあれば、成せることもある」


 利政は続けて「お前に教えてやろう」と言った。


「成り上がりたいのであれば、何も考えずに目先のことをやればいい。だがな、天下を望むのであれば、どういう風に天下を盗るか、考えなければならん」


 利政は不敵に笑った。


「如何様にして、主君や同僚を出し抜くか。そして民にどう支持されるか。考えることは山積みだが、常に先のことを考え、先手を打つことが重要だ」

「先手を打つ……」

「後手に回るくらいならば、いっそのこと碁盤をひっくり返せ」


 成政の胸に熱いものが流れた。

 自分に足りないものは、先を読むこと――


「ま、逃げが性質をどうにかしないと、お前はそれ以上伸びないがな」

「……分かりました」


 成政は利政に深く頭を下げた。

 正徳寺の会見以後、信長の考えが少し変わった訳がようやく理解できた。

 斉藤利政と会話する前と後ではまるで違う。

 今までの自分ではないような感覚だった。


「斉藤様のお言葉、深く刻まれました」


 人を変えるほど、説得力のある言葉だった。

 これが美濃のまむしと呼ばれる男。

 一代で成り上がった梟雄、斉藤利政。


「参考にさせていただきます」

「うむ。励めよ」

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