第44話嵐の中の進軍
空から降り注ぐ大粒の雨、激しい風で荒れ狂う波。
尾張国の知多半島へ向かうには、この嵐の中を船で進まなければならない。
何故ならば村木砦への道は今川家に塞がれているからだ。
「殿! 無茶でございます! おやめくだされ!」
必死に止めようとする池田恒興を半ば無視して、信長は船に乗り込む。
他の者が尻込みしているのを見て、彼は言う。
「かの勇名轟く源義経公も、源平の戦の際、屋島でこのような大嵐に襲われたという」
「し、しかし――」
「火中の栗を拾うには、こちらも覚悟せねばならん」
信長はこの場にいる馬廻り衆や兵たちに笑いかけた。
それはとても死に行く者の笑みではなかった。
「必ず、生きて帰れる。俺を信じろ」
◆◇◆◇
美濃国からの援軍、安藤守就ら一千の兵が那古野城に入城した。
成政も従軍して帰還した。そして信長に報告した後、自身も戦の準備を始めた。
一人きりの部屋。鎧を着けていると、背後から声をかけられた。
「成政。斉藤利政様とお話したようですね」
森可成だった。彼は以前、美濃国の守護の土岐氏に仕えていたが、斉藤利政が国を盗ったことで、国を出て尾張国の織田弾正忠家に仕官した経緯がある。
「ええ。話しましたよ」
鎧を着け終わったらしい。腕周りをぐるぐる回しながら動きに不備がないか確かめる。
可成は一呼吸置いて「……どのような話をしましたか?」と問う。
「別に、大したことは話していませんよ」
成政が嘘をついたと、可成はこの時点で分かっていた。何故なら使者として向かったときと顔つきが違うからだ。
しかし根拠はない。そして指摘したところではぐらかされるのが落ちだった。
「そうですか。私はてっきり、あの人に何かされたのかと思いましたよ」
可成は敢えて真実を掠めるような曖昧なことを言った。
成政の反応を確かめるためだった。
「…………」
「あの人は――心を操るのが上手ですから」
沈黙を見て続けて言う可成に対し、成政は「よく知っていますね」と立ち上がって笑った。
「私が何かされたと思っているんですか?」
「……ええ。思っています」
その答えを聞いて、成政は舌打ちしたい気持ちだった。
はっきりと疑っていると言われては弁解の仕様もない。
「私はね、危惧しているのですよ。殿の覚えめでたいあなたが、斉藤利政の術数に嵌ってしまったら、どうなるのかとね」
「裏切りとか謀叛を起こすと?」
「そこまでは言いません。しかし成政、これだけは覚えていてください」
可成は無表情のまま、凄みを利かせて言う。
「あなたがもし、そのような行動を取ったのなら――私が潰します」
「……覚えておきます」
可成は成政の目をじっと見つめた後、そのまま立ち去ってしまった。
成政は自分の首に手を当てた。
じっとりと冷や汗をかいていた――
◆◇◆◇
「安藤殿。美濃国からご苦労であった」
「ははっ。我が主の代わりに着陣しました」
軽く頭を下げる安藤に信長は上座から満足そうに頷いた。
既に彼も戦仕度を済ませていた。
いつでも出陣できる準備は整っていた。
「それで、我らはどのように戦えば? 己の指揮で遊軍として?」
安藤の問いはとても重要だった。
従属している者の兵の指揮権は盟主に属する――わけではない。
あくまでも指揮権はその大名のものである。直接指示できるものではない。
だからあくまでも指揮者に対して「このように戦え」と言うことはできるが、細かい指揮は一任するのが常である。
ましてやこの場合、対等な立場の同盟者の家臣である。
利政からは「婿殿の指示にはできる限り従え」と言われているが、何が何でも聞くわけではない。たとえば『信長の兵を救援するために死地に向かえ』などの命令を拒否することができるのだ。
だからこそ、安藤は慎重に『遊軍として戦う』と明言したのだ。
尾張のうつけと呼ばれる、目の前の若い男にも分かりやすいように。
「ああ。安藤殿は戦う必要はない」
身構えていた安藤に対し、拍子抜けするようなことを言う信長。
「……戦う必要はない? それは一体――」
「安藤殿には、この城を守っていただきたい」
あまりに予想外な言葉に安藤は驚いていた。
自分の城を、同盟国とはいえ、他人に預けるなど聞いたことがない。
「正気ですか!? 万が一、私が城を乗っ取るとは思いませんか!?」
「なんだ。城を奪うのか?」
「い、いえ、そのようなことは……」
信長は無邪気に笑った。
「もし乗っ取るつもりなら、そのようなことは言わない。黙って頷くか、即答で引き受けるだろう」
「…………」
「安藤殿は信用できるお方のようだ。安心して城を任せられる」
真実を言ってしまえば、安藤にそのような度胸はなかった。
利政の命令で『乗っ取ってしまえ』と言われたらそうするが、使者を送って確認することも頭になかった。それに利政は信長を気に入っている。もしそのような使者を出したら自分が処分されてしまうかもしれない。
安藤は利家と成政が使者として訪れる前に「少し脅かしてやるか」と利政に言われていた。要は信長に対して本気で攻めるつもりなどなかったのだ。
「わ、分かりました。城を守ります……」
「で、あるか。補佐に丹羽を付ける。城のことは何でも聞くがいい」
信長は立ち上がり「これより出陣いたす」と宣言した。
「陸路ではなく海路で向かうゆえ、少々時間がかかる。辛抱なされよ」
「……この天気で、向かうのですか?」
安藤が外を見た。雨天で風も強い。とても船を出せる天候ではない。
信長は「まあ悪天候ではあるな」と応じた。
「しかし、それしか道はない。ならばそれを歩むのみ」
そう言って足早にその場を立ち去った信長。
入れ替わるように丹羽長秀が入ってくる。
「丹羽長秀にございます。安藤殿の指示に従うようにと、殿から命じられました」
「……あのお方は、私を信じると言った。会ったばかりの私を」
安藤の胸中にあるのは、複雑な思いだった。
丹羽は「それが我が殿なのです」と苦笑した。
「あの方は人を信じている。いや、疑うこともあるが、結局は信じてしまうのでしょう」
「……危ういな」
「ええ。常に見てないとどんなことをするのか。ほっとけない人です」
そして丹羽は自分の不安を吐露した。
「いつか裏切られなければ良いが……」
◆◇◆◇
嵐の中、船は進む。
大波、大風。そんな悪天候で船を出すのは無謀だと地元の漁師は言っていた。
「殿! 甲板に出ちゃ危ないですって! 中に入りましょう!」
利家が甲板の上で座っている信長に言う。
彼は座禅を組んで真っ直ぐ進路を見据えていた。
「殿!」
「なあ利家。今川家はどう出るかな?」
雨粒が顔に降り注ぐ。
利家は「そりゃあ、虚を突かれたと思いますよ」と答えた。
「こんな嵐の中、船で来るとは思いませんし」
「ああ、そうだな」
「……殿。それが狙いだってわけじゃないでしょう?」
利家が疑わしい目で信長を見る。
信長は笑いながら「どうしてそう思う?」と問う。
「嵐の中、船を進めて奇襲する。こんな面白いことはありませんからね」
「……はははは! 利家、分かっておるではないか!」
信長の大笑いにつられて利家も笑う。
それを見ていた兵たちは会話の内容は聞こえないものの、嵐の中笑っている信長を見て、畏敬の念を覚えることになる。そしてこの光景は噂となり、信長の豪胆さを表す逸話として語られた。
大嵐の中、信長の兵は無事、知多半島に着き、村木砦をわずかの刻限で攻め落とした。出陣して三日のことである。
この戦で知多半島から今川家を追い出せたのだが、これによって信長を脅威と考える者がいた。
今川家の軍師、太原雪斎である。彼は信長を自分の主、今川義元と同等の英雄であると確信した。
ゆえに彼は成政が利家に仄めかした、ある計画を急速に進めることとなる。
それは、甲斐国の武田家と相模国の北条家らとの三国同盟である――
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