第2話犬千代という少年

 犬千代には前世の記憶がある。とは言っても彼自身、その記憶の真偽は分からない。何故なら、曖昧かつ荒唐無稽な人生だったからだ。


『行くぞ、お前ら!』

『はい! リーダー!』


 犬千代は前世の名前を覚えていない。だが、自分が不良とかヤンキーとか、そんな風に呼ばれていたことは覚えているし、そういう風に生きていたことも覚えている。


『――――、きちんと学んでくるんですよ』

『分かったよ。母さん』


 幼い頃は両親の言うことを聞いて、習い事も通っていた、素直で良い子だった。


『はあ。兄さんたちも余計なもの残して死ぬなんて。迷惑だよ』

『…………』


 しかし両親が事故と病気でそれぞれ亡くなり、意地悪な叔父夫婦の家に引き取られて以来、彼は荒れ出した。


『はっはー! 俺が天辺獲るぜ!』

『な、なんだあの一年生は!?』


 地元で有名な不良高校に入学。その後、一年生の時点で不良たちの頂点に君臨して、他校の生徒との喧嘩三昧とバイクを乗り回す日々を過ごした。


『おい、救急車だ! 早くしろ!』

『リーダー! 死ぬなよ! 今来るから!』

『…………』

 

 そんなある日、彼は仲間を助けるためにたった一人で五十人以上の不良と戦い、結果として命を落とす。


 そんな記憶が彼の頭から離れない。追い出そうとしても、なかなか忘れられない。そのせいか、意地悪な叔父に似ていた父親との折り合いが悪かった。自分を心配し、気遣ってくれると分かっていても、反発してしまう――



◆◇◆◇



「犬千代。これから相撲するぞ、相撲」

「ああ、いいぜ」


 信長の家臣になって数日経った。彼は信長の居城、那古野城に通うことになった。ちなみに、彼の子分も一緒に召抱えられた。今では真面目に仕事をしているという。


 犬千代は元不良である。彼は教科書を開いて勉強したのは、小学校ぐらいである。ゆえに目の前で美味しそうに団子を頬張りながら、那古野城の庭先で行なわれている家臣たちの相撲を眺めている織田信長が、後の天下人であるとは思わなかった。


「よし! そこで投げろ! ……よくやった!」


 相撲を楽しそうに見ている信長。彼の貧困な語彙でなんと言えばいいのか分からないが――おそらく天真爛漫だろう――ぱっと思いつくのは、とても『自由』であることだった。


 やりたいことをやって、楽しいと思ったら素直に笑う。今まで接してきたどの武士よりも自由だった。何者も彼を縛れないと思わせるような――


「若様! またそのようなことをなさって!」

「おお、爺や!」


 困った顔をしながらこちらへ歩いてくる中年の男性を見て、信長は嬉しそうに笑った。犬千代は何度か那古野城に出入りしているが、信長はこんなに大人を歓迎するところは見たことがなかった。煙たがるか面倒な顔をいつもしていた。


「爺や。お前も相撲しろ」

「馬鹿なことを言いなさるな! ……うん? そちらの者は初顔ですね」


 寝そべっている信長の横で、犬千代は胡坐をかいていた。彼は信長が連れている小姓という名の少年たちは多いのに、一人一人記憶しているのかと少しだけ驚いた。


「……前田家四男、犬千代です」


 姿勢を正して己の所属と名を告げる犬千代。このくらいの礼儀作法は、母親のたつから習っていた。

 爺やと呼ばれた男は「今度の若者は最低限の礼儀はできるみたいですね」とホッとしていた。


「織田家家老、平手政秀だ。以後よろしく」


 犬千代は父親からその名を聞いていた。織田家の外交や内政を担う、凄腕の吏僚であると。

 よく見ると気弱そうな顔をしている。中年で円熟した大人だが、他の者と違ってこちらを見下したりしない。おそらく善人であると思った。


「そうだ。犬千代と相撲を取れ」

「そ、そんなことをおっしゃらないでください!」


 まあ子どもとはいえ、負けるのは武士の恥だからなと犬千代は思っていた。信長も無茶なことを言うものだと、のん気に思っていたが、次の一言で状況が一変した。


「子ども相手ですよ? 本気になれませんよ!」

「……ぁあ?」


 犬千代は弱そうな平手が自分を見下しているのが分かり、思わず立ち上がって睨みつける。


「おい、おっさん。ふざけたこと言うなよ? もしかして、勝てると思ってるのか?」

「な、なんだ急に……」

「ちょっと来い。勝負しろ」


 犬千代は上半身の着物を脱いで、信長が勝手に作った土俵の中に入る。そのとき、初対面から今まで口を利いていなかった内蔵助が「無茶しやがって」と話しかけた。


「平手様に喧嘩を売るなんて……」

「喧嘩じゃねえよ。相撲を取ろうって言ってんだ」

「後悔するぞ」


 内蔵助は顎をしゃくって犬千代に平手を見るように促した。


「やれやれ。頑迷な子どもに教育するのも、私の仕事ですか」


 平手はそう言うと、同じく上半身だけ着物をはだけた――犬千代はその身体を見て驚愕する。顔に似合わず、物凄い筋肉質な身体だったからだ。


「……へえ。凄いじゃん」


 少しだけ内蔵助の言っていた意味が分かった犬千代。平手はその言葉を無視して、犬千代と対するように土俵に入った。


「それでは――始め!」


 信長の合図で取組が始まった。犬千代は先手必勝とばかりに平手に迫り、腰を組んだ。

 だが、押そうとしてもびくともしない。こちらのほうが背が高いのに、まるで岩のように動かない。


「なかなか力強い。真っ直ぐな相撲だ。しかし――」


 平手は犬千代の腰を掴むと一気に持ち上げて――土俵の外に投げ飛ばした。


「――力だけでは、勝てぬこともある」


 土俵の外で大の字になった犬千代は、自分が負けたことを理解させられた。屈辱だった。前世も含めて負け知らずだった自分にとって、初めての敗北だった。


「あははは。相変わらず強いなあ! 天晴れ! 褒めて使わす!」

「だから子ども相手ですって」


 平手が土俵を下りて倒れている犬千代に手を差し伸べたとき、彼は自分の弱さに愕然とした。呆然としてその手を凝視する。


「うん? どうした? どこか打ったのか?」


 心配そうな顔で犬千代を見る平手。何故か彼は胸が熱くなるのを感じた。理由は優しくしてもらったのが久しぶりだったからだが、彼は気づかなかった。


「……おっさん! いや、平手様! 俺に、強くなる方法を教えてください!」


 気づいたら頭を地面に付けて、恥も外聞もなく教えを志願していた。


「…………」

「俺、もっと強くなりたいんです!」


 平手は困った顔で信長を見た。彼は肩を竦めるだけだった。


「えっと。犬千代。私が教えられることは少ない。だから別の人に頼みなさい」

「いいや、あんたが良いんだ!」

「……困ったなあ」


 再度、信長を見た平手。すると「犬千代。爺やよりも強い奴がいるぞ」と助け舟を出した。犬千代は顔を上げて「だ、誰だ!?」と詰問した。


「誰が織田家で一番強いんだ!?」

「そいつの名は――柴田勝家」


 信長はにやにや笑いながら「だが俺の弟、信行の家臣だ」と言う。


「だから、会う機会はないだろうな」

「そ、そんな……」

「犬千代。どうして強くなりたい?」


 平手が真剣な眼差しで犬千代に問う。彼は「もちろん、一番強くなりたいからだ!」と即答した。


「誰よりも強くなる! それだけだ!」

「……強くなって、何がしたい?」


 平手が着物を直しながら、犬千代の目的を問う。己が何を成し遂げたいのかを、心に問う。


「そ、それは――」

「それが見つからなければ、強くなる意味がない」


 それだけ言って、平手は信長に一礼して、去っていく。

 犬千代は平手に言われたことを噛み締めていた。


「流石、親父が選んだ教育係だ。見事に学ばせてくれたな」


 信長がうんうんと感心していると、平手が「ああ! 忘れていた!」と戻ってきた。


「なんだ。格好良く去ったと思ったら。そういうところ、直したほうが良いぞ」

「も、申し訳ございません……実は、お屋形様から若様に……」

「親父が? なんだ?」


 平手は背筋を伸ばして、信長に告げた。


「今川家の吉良大浜城を攻めよ――とのことです」

「…………」

「若様にとっては、初陣ですね」


 そのとき、犬千代は見逃さなかった。

 信長の不敵な笑みを――

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