1.(第1話:女優のアトリエ)

 眠りの底から徐々に浮かび上がった意識が、天井に当たる雨音を認識した。

 まぶたを開け、四回呼吸するあいだ目の前にあるバンク・ベッドの天井を見つめた後、二重に掛けていた毛布をたたんで梯子はしごを降りた。

 寒い。

 春先の長雨。

 東北の太平洋側。海ぞいの小さな町。

 マルチ・ルーム(トイレ兼シャワー室仕様)に入る時、リア・ベッドで眠る娘の姿をチラリと見た。

 紗代子さよこは毛布にくるまって向こう側を向いて寝ていた。

 なぜ女は朝寝が好きなのかと、時どき思うことがある。

 朝寝が好きなのか、それとも布団の中でゴロゴロしているのが好きなのだろうか。

 目がめてしまえば布団の中なんて退屈な場所だろうに。

 まあ紗代子はまだ十五歳だから、年齢的な理由ものかもしれない。

 私も十代の頃は、学校で居眠りばかりしていた。

 トイレで用を足し、いったんキャビンに戻ってFFヒーターを点け、着替えを出して再びマルチ・ルームに入りシャワーを浴びた。

 短時間、少ない湯量で効率的に頭と全身を洗う。

 キャンピング・カー暮らしで身に付けた生活の知恵だ。

 シャワーを終えて下着姿でマルチ・ルームから出ると、少しだけキャビン内が暖かくなっていた。

 服を着て、朝食の準備に取りかかる。

 湯を沸かし、豆をいて、コーヒーを落とし、IHアイエイチ対応のホットサンドメーカーに食パンを挟んで焼いた。

 具材はスライスチーズにケチャップ。手抜きも良いところだが、こういう朝もある。

 ダイネットのテーブルにホットサンドとコーヒーを置き、ソファに座って、窓のスクリーンを開けた。

 灰色の空と、水面みなもに灰色を映した太平洋が広がっている。

 このキャンピング・カーが駐車しているのは、小さな町の地方自治体が整備した小さな海水浴場に隣接する小さなキャンプ地の駐車場だ。

「キャンプ場」の看板はあっても、管理棟も無いし管理人も居ない。芝を貼った広場に、流しとトイレがあるだけ。使用料を払う必要もない。

「寝泊りしたけりゃ、勝手に来てテント張れ」式の、小さな地方自治体によくある放置型のキャンプ場だった。

 昨日より少し雨足が強まっているように感じた。

 ホットサンドを食べ終えて皿を洗い、アイパッドをテーブルの上に立てて二杯目のコーヒーを飲みながら天気予報を見る。

 雨は明日の朝まで続くらしい。

 今日の取材は屋内だから、あまり関係が無い。

 雨の日は気が滅入るから嫌だという人も多いが、たまになら雨も良い。仕事や遊びの予定に支障がない限りは、だが。

 ビジネス・メッセージ・アプリにログインして編集部からのメッセージをチェックしていると、リア・ベッドの紗代子がモゾモゾと動き、立ち上がって目をこすりながら「お……はよ……」と言った。

 私も「おはよう」と返す。

 眠そうな顔のまま、彼女はマルチ・ルームのドアを開け、中に入り、ドアを閉めた。

 父親である私の目から見ても、紗代子の美しさは並外れていると思う。

 しかも、その美しさは彼女の成長に合わせて年ごとに……いや、月ごと日ごとにどんどん増している。

 父親の私でさえ、ふとした瞬間、輝くばかりの彼女の美しさをまぶしいと感じることがある。

 年末になると海外のウェブ・メディアが『世界の美女百選』などという馬鹿げた記事を上げるが、そこに並んだ美女たちの写真を見るたび「まったく紗代子の足元にも及ばない」とつぶやいてしまう。

 一年前、成り行きで、私と紗代子はある会社のウェブCMに出演した。

 CMが動画投稿サイトにアップされるやいなや、一部の若者たちの間でちょっとした騒ぎが起きた。『マイナーCM動画に、とんでもない美少女が出演しているぞ』と。

 そのとき彼らが娘に付けた渾名あだなは確か……〈一億年に一人の美少女〉……だったか。

 どうやって探り当てたのか、一週間もしないうちに何人もの芸能関係者が私を訪ねて来て「ぜひ娘さんを映画女優に」「アイドル歌手に」などと口説き文句を並べた。

 ……が、実際に紗代子と会ったとたん困惑したような表情を浮かべ、いかにも残念そうにガックリと肩を落として帰っていくのだった。

 もともと紗代子にはエンターテイメント業界への関心が全く無かった。

 しかし仮に彼女がそれを望んだとしても、また彼女がどれほど美しくても、業界で生きていくのは難しかっただろうと思う。

 生まれつき、紗代子は他の多くの人間とは違う声帯を持っていた。

 特殊な声帯のせいで、彼女は言葉を上手く発することが出来ない。

 仮に女優になったとしてもスムースに台詞せりふを言えないし、歌手になりたくても歌えない。

 脳の言語能力には問題が無いから読み書きは普通に出来る。聴覚も正常だから相手の言っている事は聞き取れる。しかし、自ら言葉を発する時には非常な努力を要した。

 服を着替えた紗代子が自分の朝食を作り始めた。

 目玉焼きに、トースト。

 私はアイパッドをテーブルの隅にけて、彼女のためにスペースを空けた。

 テーブルの空いたスペースに紗代子が皿を並べ、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぎ、皿の横に置いた。

 それから私の相向いに座り「い……ただ……き……ま……」と手を合わせた。

 トーストをかじり牛乳を飲む娘を、私は黙って見つめた。

 見つめながら、我が子の幸せのためならどんな代償も惜しくないと思い、この子の幸せのために何をすれば良いのかと考えた。

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