ママはサルトゥヌス

Meg

ママはサルトゥヌス

 我が子を食らうサルトゥヌスの絵。初めて見たのはどこだっただろう。

 

 夕暮れ時。中学生の少女、汐は、病室でスマホを片手に家にいる母と会話していた。汐は入院着を着ていた。

「汐、元気にしてる?」

 問いかけの形ではあるが、母は汐が

「うん、元気だよママ」

 と笑顔で返答する以外の態度、答えを拒否するだろうから、当然そう答えた。

「よかった。それにしてもみんなしてひどいわよね。汐を私から引き離して閉じ込めて」

 ため息をつく母に、汐は彼女の望み通りに答えを返す。

「そうだねママ。ひどいよね」

 母は悲痛な顔で仰々しく首をふるが、一方で汐の応対に満足しているのがなんとなく見てとれる。母は段々おしゃべりになっていく。

「この前ピアノ教室の先生に会ったわ。汐ちゃんうまくなりましたねって褒めてくれたのよ。嬉しかったわあ」

「ママが特訓したおかげだよ」

 これも母の望む答えだ。外れればどうなるかわかったものではない。

「そうね。がんばった甲斐があったわ。でもまだまだだわ。将来はピアニストなるんだもの」

「ああ、うん。でも実は私ピアノはもう……」

 思わず汐は母の望み以外の言葉を返しそうになった。ピアノのことだけは以前から本当にうんざりしていたからだ。

 突然、母の画面が変わった。

 闇の中、狂気じみた目の巨大な男が、頭から人間を食っている絵になった。我が子を食らうサルトゥヌスの絵だった。汐は驚かなかった。この光景は何度も見たからだ。これこそが、自分がこの病院に入れられた原因にほかならなかった。

 母は汐の言葉を遮るように矢継ぎ早に話す。

「ママは昔ピアニストになりたかったの。でもピアノはお金の関係で習えなくてねぇ。大人になってから独学でやってみたりしたけど、やっぱりピアニスト並にはなれなかったわ。やっと夢が叶う。次の発表会の衣装どうしよう。汐のお友達の春菜ちゃんにも声かけたからきっと来てくれると思うわ。楽しみ。早く退院して練習しないと」

 汐は一瞬黙った。そして冷静になり、適切な対応を取ることにした。すなわち、笑顔でこう答えた。

「うん。楽しみだね」

 母の画面が戻った。母は満足げにうなずいた。

「春菜は元気だった?この前会ったってラインで言ってたよね」

 汐は話を変えた。母は満面の笑顔になった。

「ええ。ドラマの話で盛り上がっちゃった。春菜ちゃん最新話で新しく出た男の子が好きなんだって」

「へえ、私まだ見てないや」

「その子ピアノが弾けるのよ。ママも好きになっちゃった。だから汐もその子を好きになるはずよ」

 母の画面が再びサルトゥヌスになった。汐はそのまま冷静に対応することにした。

「ああ、うん」

「でもピアノだけじゃなくて成績も良くしたいわ。この前の定期テスト、学年で四十位くらいだったわ。せめて二十位くらいにはなりたいわよね。もうすぐ受験もあることだし。帰ったらドリルやらなきゃ」

「うん、もっと成績上げなきゃね」

「あとあんたの部屋にあった漫画本、捨てといたから」

 汐は衝撃のあまり言葉が出なかった。

「漫画なんて受験にさしさわるからね。それにあれ男の子向けだったじゃない。せめてあんたは女の子なんだから女の子のものを読みなさい」

 それはきっと汐が大好きなあの漫画のことだ。クローゼットの奥に大事に隠していたのに。大切な漫画だったのに。人の部屋を勝手に漁って勝手に捨てて。

 汐は小刻みに震えた。怒りと悲しみが汐の全身をかけめぐった。

 だが何も言えなかった。今までどおり、どんなに屈辱でも、どうしても。

「……うん、ごめんママ」

「ねえ汐、少し痩せたんじゃない?」

 汐は考える。正しい答えを、適切な答えを、母を怒らせ悲しませない答えを。

「……そう?病院食のせいかな」

「冗談じゃないわ。女の子は少しふっくらしてた方が男の子にモテるのよ。もっと食べなきゃ」

「でも決まった量を食べるように言われてて」

「じゃあもっと食べさせるようにママが病院に言うからね。お嫁に行けなくなったらどうしてくれるのよ。結婚して孫の顔見せて親孝行するのが女の一番の幸せなんだからね」

 正しい答え、正しい答え、正しい答え。

「……うんママ」

 母の画面が元に戻った。母はやはり満足そうにニッコリ笑っていた。

 ふと母の画面に女性が現れ、慌てたように母に駆け寄った。

「また娘さんの連絡先を突き止めて脅したんですか?いい加減やめてください。裁判所と精神科から接近禁止令が出てるんですよ。娘さんの療養に差し支えます」

「うるさいうるさいうるさーい!汐は私の子だよ。私の子をどうしようと私の勝手でしょ」

 母が怒鳴った。汐は石のように硬直した。思考が停止した。家にいた時何度も何度も聞いた。いつの間にか突き止められる電話でも、ラインでも。あの声を前にすると汐になすすべは完全になくなる。

「汐さん、画面を切ってください!」

「汐、切るんじゃないよ!」

「離婚した旦那さんに連絡しますよ」

「ヒヒヒ。無駄よ。あの男は汐の世話も家のことも何もしなかったのよ。だから私ががんばるしかなかったのに。大っ嫌い」 

「ではあなたのお母様に電話します」

「いや!汐は私のものなの。誰にも渡すものか」

 母はヒステリックに叫んだ。母の画面がサルトゥヌスに切り替わった。汐の心はすでにどこにもなかった。裂かれ、ちぎられ、骨まで食い尽くされていた。

 汐の病室に異変に気づいた看護師たちがかけこんできた。かれらは汐からスマホを取り上げ、ためらうことなく接続を切った。

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