第2話 ひとりの朝

 部屋を出て階段をくだっていく。

 15段の階段を下りて、2階建ての我が家の1階に到達し、廊下の右手方向に向かう。

 途中、通り過ぎた玄関で、担いでいた鞄を下ろし、突き当たりの正面にある扉を開けた。


 すると、ブレザー型の制服を着た、仏頂面の人物と対面することになった。

 クセのついた少し長めの黒髪と、髪に少し隠れて覗く眠たげなアーモンド型の目、そして、薄っすらと目元にできたクマが、不愛想な表情と相まって、気だるげな雰囲気を醸し出していた。


 物心ついてからずっと見続けてきた、自分の現在いまの姿が、洗面台に設置された大きめの鏡に映し出されている。


 更に鏡に歩み寄ると、鏡の向こうの自分もこちらに歩み寄って来て、視界いっぱいに自分の顔が広がる。


 ――椅子で寝たせいか、いつもよりクマが濃いな……。


 そんな事を考えながら、手早く洗顔と歯磨きを済ませる。

 最後に、寝癖が目立たなくなるように軽く髪をかして、洗面所での用を終えた。


 ●


 洗面所を出て廊下を直進し、今度は、反対の突き当りにある扉を開ける。

 扉の先には、明るい木目調のテーブルと、一面の白い壁が特徴的なダイニングキッチンが広がっていた。


 部屋は照明が付いておらず、シンと静まり返っている。

 視線を左に流して、畳の敷かれたリビングルームに目をやったが、こちらにも人影はない。


 ――もうみんな出かけたのかな?


 ほんの数秒、そのままの姿勢で立ち尽くしていると、突然、キッチンに置かれているワイヤレススピーカーから声が発せられた。

ひろし様宛に、三橋 結衣みつはし ゆい様からボイスメッセージが届いています。」 

「母さんから?」

 声のぬしは、先程、自室で会話をしていたコンシェルジュである。


 2010年代前半から始まった、様々なモノをインターネットに接続し、情報交換や相互に制御を行うIoT――Internet of Things――の概念は、その便利さから、現代では広く受け入れられ、一般家庭に普及している。

 いまや、洗濯機やエアコン等の生活家電だけでなく、家の鍵までもが電動化され、"いつでも、どこからでも操作できる"ことが当たり前になっている。

 その普及率たるや、"ネットワークに接続されていない家電は家電ではない"と評される程だ。


 最も、ここまでIoTの概念が広く普及し、生活に密着するようになったのは、2080年代に入ってからだったらしい。


 普及するまで約80年もかかった理由は単純明快――、

 ――人が情報を管理しきれなかったのだ。


 "いつでも、どこからでも、情報交換や機器の制御ができるネットワーク"は、接続される機器が増えれば増えるほど複雑になり、取り扱う情報が増え、加速度的に操作性を欠いていった。

 その結果、どの機器同士が接続されているのか分からなくなり、

「ポットのお湯を沸かそうとして、お風呂を沸かしてしまった。」

 などという、嘘か本当かわからないような失敗談が、世の中にあふれかえった。

 こういったネガティブなイメージは、瞬く間に広がり、IoT化の流れは大きく後退することを余儀なくされた。


 この状況を打破するきっかけになったのが、2070年代後半に発売された、情報を一括管理する家庭用の安価なサーバと、その専用OSだ。

 最新のAIや技術を惜しみなく投入され、"IoTのネットワークをとにかく使いやすく!”ということに特化して開発されたこれらは、その役割を十分に果たした。

 AIがネットワークを管理、運営することによって、ユーザは、ネットワーク全体の構造を把握することなく、所望の操作を行えるようになったのである。

 そして今日こんにち、IoTは誰でも扱える非常に便利なものとして、日常生活に溶け込んでいる。

 

 そんな見知らぬ誰かの努力の賜物によって、我がコンシェルジュは、様々な場所で、あるじの要望に応えたり、要件を伝えることができるのである。


 その恩恵を賜るべく、コンシェルジュに指示を出す。

「とりあえず、メッセージを再生して。」

「かしこまりました。」

 途端に、慌ただしい音がスピーカーから発せられる。

「このメッセージを何時に聞いてるかわからないけど、おはよう!急に職場からヘルプを頼まれたから、もう出ます。朝食は冷蔵庫に入ってるから、時間があるなら食べるように。お父さんと隼人はやとも、もう出てるから、アンタが最後ね!この前みたいに、照明付けっ放しにして出掛けないように!じゃあ、後はヨロシク!」

 用件だけを矢継ぎ早にまくし立てた後、ブツッ、と音がしてスピーカーが沈黙する。

 余程急いでいたのだろう。

 音声には、バタバタとした足音や、ガサガサという、物を鞄に詰め込んだらしい音が混じっていた。

「以上です。」

 コンシェルジュが、メッセージの終了を宣言する。


 どうやら、先ほどの予想通り、他の家族はもう家を後にしたらしい。


 ――まだ7時半にもなっていないのに、みんな元気だなぁ。


 朝早くから仕事に向かった両親と、部活の朝練に邁進する弟に対して、どこか遠い他人事ひとごとのような感想を抱きながら、キッチンに入り、入り口付近にある冷蔵庫を開ける。

 中には、平皿に乗った1枚のトーストが、ラップに包まれた状態で入っていた。

これが、今日の朝食のようだ。

 皿を手に取ると、ひんやりとした感触が手に伝わる。

温度から察するに、少なくない時間、冷蔵庫に入っていたらしい。


 ――時間もあるし、温め直すか。


 そう判断して、キッチン奥にある電子レンジに、そのまま放り込む。

 そして、再び、コンシェルジュに指示を出した。

あたため、1分。ついでに、照明とテレビも付けて。」

「かしこまりました。」

 すぐさま命令が実行され、部屋が明るくなり、レンジの駆動音と、ニュースキャスターと思われる声が、部屋に響く。


 トーストを温めている間に、食器棚から自分用のマグカップを手に取り、手早く飲み物の準備を始める。

 開いたままになっている冷蔵庫から、アイスコーヒーのボトルを取り出し、手に持ったままのマグカップに、容器の中身をなみなみと注ぐ。

 途中で、のどの渇きを自覚し、コーヒーを注いだばかりのマグカップに口をつけた。

 1口、2口とコーヒーを飲んで、のどの渇きを解消し、減った分だけ、ボトルからコーヒーを追加する。

「――ふぅ。」

乾いた体に、水分がしみ込んだような気がして、自然と吐息が漏れた。

 コーヒーのボトルを冷蔵庫に仕舞うのと、ほぼ同じタイミングで、電子レンジから

温め完了を示すベルの音が鳴った。

 レンジから皿を取り出し、ラップを剥がすと、ほんのりとバターの香りが鼻をくすぐった。


 トーストを乗せた皿と、マグカップを手に、リビングスペースに移動する。

テレビの真正面、リビングスペースの中央に設置されたテーブルに、持ってきたものを置いて、畳に腰を下ろした。

 トーストをかじりつきながら、テレビに目をやると、どこかの大学教授のインタビューが映っている。

 朝の報道番組が、話題になっている項目を、毎日変わる変わる特集する企画だ。

 番組のテロップによると、今日の特集は、"AIは、感情を持つことができるか!?"と、いう内容らしい。

 インタビューを受けている、白髪交じりの50代くらいの男性教授が、AIが感情を持つことの意義を熱く語っている。

 研究テーマとしては、2030年代から存在しているようだが、2109年の現在に至っても、感情を持ったAIという代物は登場していない。

 その背景には、研究としての難しさ以上に、"AIに感情を持たせることで発生するデメリット"を気にする、大人の事情があるように思えた。


 ――もし、そんなことになったら、間違いなく、AIに対して、俺の頭は上がらなくなるな。


 そんな感想を抱きながら、ぼんやりとテレビを眺める。

 特集は、インタビューを受けていた教授が、最後に、

「必ず、感情を持ったAIを実現して見せます!」

と、力強く語って終了した。


 その後は、ニュース、天気、スポーツ、芸能と、話題が移り変わっていく。

 特に目を引く話題がないまま、垂れ流される情報を受け流していると、再び、キッチンのスピーカーから発せられた声で、現実に引き戻された。

「そろそろお時間です。」

 いつの間にか、そんな時間になっていたらしい。

 時刻が、8時近くになったことを、コンシェルジュが告げる。

「了解。了解。」

 軽口で答えながら、空になった平皿とマグカップを持って席を立つ。

 シンクで食器を軽く洗い、流し台の上に設置された乾燥棚に、濡れたままの食器を置く。

「片付けも終わり、と。証明とテレビ、消しておいて。」

「かしこまりました。」

 途端に、部屋が暗くなり、テレビの音声が消失する。

 最後に、テレビがしっかり消えていることを確認して、リビングスペースを後にした。

 

 ●


 廊下を歩いて、玄関に向かう。

 愛用の運動靴を履き、放り出されていた鞄を担げば、登校準備が完了する。

 最後にもう1度、忘れ物がないか確認し――、ひとつの懸念事項が頭をよぎった。

「そう言えば、部屋の照明とディスプレイ消してない気がする……。」

「はい。お部屋の照明もディスプレイも、電源が入ったままになっております。」

 漏らした独り言に対して、玄関に置かれたスピーカーから、的確な回答があった。

「あ、やっぱり……。危ないところだった……。両方、消しておいてくれる?」

 自分の過失が大きかったので、思わず、へりくだった言い方で指示を出してしまう。

「かしこまりました。」

 それを意に介することなく、コンシェルジュからは、いつもの調子で返答がきた。


 ――まだ小言を言わるまでには至っていないらしいな……。


 胸に浮かんだ謎の安堵感と、"もしも、小言を言うようになったらどうしよう"という一抹の不安を振り払って、扉を開ける。

「出た後に施錠よろしく。」

「かしこまりました。いってらっしゃいませ。」

 コンシェルジュの見送りの言葉を背に、後ろ手に扉を閉めた。


 ふと、見上げると、よく晴れた春の空が広がっている。


 ――また、今日も一日が始まるのか……。


 そう思うだけで、心なしか、空がくすんで見えた。

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