二章 その母の力、淫魔の血
「魔物かと思って一瞬びっくりしたよ」
扉を抜けた後も、道のりは長かった。ここから先は地図が無いから、壁面に点々と灯る松明の明かりと微かな魔力反応を頼りに走り抜けるしかなかった。僕自身はミルメアの母親の魔力がどれか分からないから、指示に従って走るしかないんだけど――
「人間が魔族を操れるわけないでしょ。あれは全部ヒトよ」
「ミルメアがそう言うならそうなんだろうけど、ってうわ、まただ」
指差し確認をするように現れた標的を捉える。人差し指から伸びた鎖分銅が、その大腿部を打ち抜いた。前方に倒れ掛かるそれを大きく跨ぐように飛び越えて先を急ぐ。
この迷宮のような地下牢の区画には、予想に反して見張りが立っていた。
それは、見た目はまるで
ただ、魔族はその体が特殊な魔力で覆われている。それは人間が発するものとはまた違っていて、魔力を帯びるものでなければダメージを与えることができない。つまり、僕のこの改造武器は魔族に対しては一切の役に立たない。
それが、今の通りだ。
「罪人に対して、何らかの隷属魔法を掛けてここに縛り付けてるんだろうね」
考えたくはないことだった。
ここリリエラ共和国は随分前に王制を廃止し近代国家として成立した、と歴史では語られている。その実、こんな非人道的な行為が、刑罰の名のもとにかは知らないけれど、行われている。
「こんなの、生きてるのか死んでるのかも分からないよ」
魔力を感じるのは感じるけれどそれは隷属魔法の残滓だと思う。その姿を見る限りとても本人の魔力であるとは――本人が生きているとはとても思えない。
「生きてるって言えるんじゃない? 死霊使い《ネクロマンサー》じゃあるまいし、人間に死体を操る術(じゅつ)なんて使えないわよ」
「説明ありがとう」
聞きたくはなかったけど。
僕も分かってはいた。だから腐食した頭部を狙わずに足を狙って行動不能にしている。こんなのいくら加減しても砕いてしまうに決まってるから。
「もうすぐ、その角を曲がったとこ――止まって! ここ!」
これまで通り過ぎてきた牢よりも大きく、そして暗い。奥に何かがいるのは分かるけれど、その姿までははっきりと見えない。
「命令! この牢を開けなさい!」
ミルメアが有無を言わさず叫んだ。何かを学んだらしい。
僕の右腕が反応し、さっきと同じ要領で錠前と鉄格子に仕込まれた魔法陣を破壊した。
扉を開けるよりも早く、ミルメアは僕のポケットから抜け出し、その小さな体で鉄格子をすり抜けて奥に向かって飛んで行った。
「ママ!!」
錆びてしまって動かない扉の蝶番を砕き、引き剥がして僕も中に足を踏み入れた。
そこには、まるでミイラのようにしなびた、かろうじて人の形を保っているものが、壁の鎖に繋がれていた。
「めいれ――」
「いい、分かってる!」
僕は駆け寄りながら彼女の拘束具を速やかに破壊し、倒れ掛かる体を氷細工を扱うように慎重に抱きかかえ、地面に横たえる。
非常に弱弱しいものの、魔力反応は失われていない。生きてはいるみたいだった。ただ、予想していた状態とは全く違った。退路の心配はいらないと言われたけれど、退路どころかここから動かすことすら危ぶまれる。
「っ、ミルメア、どうしよう!」
状況は輪をかけて悪化していく。頭上の方で、多数の強い魔力反応。警報を聞いた魔法兵団がこちらに向かってきているみたいだった。
「命令! あんた、ママに――」
間髪入れず、ミルメアが僕に指示を出す。けれど、その指示は語尾が濁され聞き取れなかった。
「何!? 聞こえないんだけど!」
「――っ、ああ、もう! もう!」ミルメアが、宙で地団駄を踏んだ。「命令、よ! あんた、ママにキスしなさい!」
「えっ?」
この子バカじゃないの。
それとも、母親のこの憔悴しきった姿を見ておかしくなっちゃったんだろうか。
それでも、僕の心は落ち着いたものだった。どうせ、命令された以上は従う他ないし、どうしても体は勝手に動く。
男性とも女性とも分からないような、ミイラのようにしわがれたその唇に、僕は自分の口を重ねた。僕は礼儀というより単に直視できなくて目を閉じる。
水分の失われた傷んだリンゴのような感触。
まさか初めての口づけがミイラとなんて――
「ん、んっ――!?」
不意に、ぐっと後頭部を押さえつけられる感覚がした。それから、金縛りにもあったかのように全身の筋肉が硬直する。
目を開くこともできない状態で、口は例によって塞がっているため、声も上げられない。何かが吸割れる感覚がした。
舌、舌が――
「んっ、はあ――」細く、長い溜息が僕の顔にかかった。「生き返ったわぁ」
直後、体の自由が利くようになった。僕は支えを失って地面に倒れこむ。結構な時間固まっていた気がする。
「――はあっ」
手を付いて顔を上げると、そこには一人の女性の姿があった。細く、しなやかそうな体。それから、背には骨で編まれたような翼が生えていた。
さっきまで横たわっていた、あのミイラのような体は面影もなかった。胸元と太ももには、程よい肉付きまで見られる。
その女性は、僕の頬にそっと手を添えた。
「あなたね、私を助けてくれたのは。どこの誰かはしらないけれどお礼は後でたっぷりしてあげるわ」
綺麗な顔に、赤黒い瞳。体の自由が戻ったはずなのに、僕はその妖艶な表情に囚われるかのようにまた微動だにできなくなる。その瞳の奥に、小さな魔法陣が見えた気がした。
「って、あら、メアちゃんじゃない。どうしたのそんなちっちゃくなっちゃって」
「ママ……ママぁ」
ふらふらと飛んで、その女性の胸元にとまった。
「あらあら、まあまあ。そうなの、二人で――それじゃ、一度帰りましょうか」
僕が二の句を継げないでいる中、その女性はおもむろに立ち上がった。
「でも目覚めたばかりのこの体にあなたの魔力は濃すぎたみたいだから――」
僕のほうをちらと見た。
刹那。
バシッと、稲妻のような輝きが走り、深紅の魔法陣が展開される。それはあまりにも巨大で、視界に収まりきらない。
「ちょっとだけ、抜いちゃうわね」
直後、大砲のような音が響いた。
地の底からの突き上げるような衝撃に、僕の体は文字通り跳ねた。何が起きたかは分からない。ただ、周囲の魔力反応が一瞬にして無くなったのと、この地下の空間が崩れ始めたのだけが分かった。いや、地下だけじゃない。おそらく、この塔自体が崩壊し始めている。
それから、その女性はくると空中に円を描くと、空間が裂けるように歪み、漆黒の渦潮のようなものが出現した。それは徐々に大きく広がり、大人一人が通り抜けられるほどの穴になった。
「さ、お先にどうぞ」
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