二章 涙

 この奥に、いくつもの弱い魔力反応がある。


 一体どれだけの者がこの地下牢に捕らえられているんだろう。


 それが、人か魔族かまでは分からない。そのうちのどれかが、ミルメアの母親のものだろう。



 けれど、そこにたどり着くにはこの鉄の扉に仕掛けられた魔法障壁を解除する必要があった。


 僕が魔法陣をじっと見ている間、ミルメアはポケットから出て宙に浮かんでいた。この大きさで浮かぶくらいだと、結界に引っかかる程の魔力はいらないみたいだった。


 妖精というよりは大きな虫みたいだと思ったのはもちろん口に出さなかった。



 僕はため息をついた。


「ああ、これは――ダメそうだ」


 幾重にも幾重にも織り込まれたこの魔法陣は、魔法技術の粋を体現したような代物だった。


「え、嘘!? もう、もうそこまで来てるのに――」


 ミルメアは、母親の魔力そのものを感じているみたいだった。


「ほら、早くさっきみたいにこんな魔法なんて消しちゃいなさいよ!」


 ミルメアが叫んだ。どうやら勘違いをしているらしかった。


「消してるんじゃなくて、僕は壊してるの。だからできることとできないことがあるんだってば」

「……? 何よそれ、どう違うのよ」


 どう、って。

 全然違うんだけど。


 魔族も魔法陣の仕組みくらい分かっているもんだと思っていたけど、僕は改めて説明してあげた。



「はあ? そんなのできるわけないでしょ」


 結構丁寧に説明したつもりだったけど、この反応だった。僕の鼻を、その小さい手で突っついた。


「……なんで?」

「なんでって、そんなこと説明しないと分からないの?」


 あれ?

 どうして僕が説明される立場になってるんだろう。


「魔法陣なんて、発動する魔法がちょっと違えば術式なんて全然違うんだから。それに、高位の魔法になればなるほど魔力回路も複雑になるから解読もそれなりの時間が必要だし。あんた、あたしの最上位魔法だって打ち消してたじゃない」

「いや、そうなんだけど、別に複雑になるだけで仕組みが変わるわけじゃないし、どんな魔法陣にも『始点』と『終点』があるから――」

「あんた自分が何言ってるか分かってるの? だからそれを解読するなんてできない言ってるんじゃ――え、できるの!?」


 さっきからそう言ってるんだけど。


「魔法陣が展開されて発動するまで、早いものだと一秒もないのに、その間に解読して、それからその針の穴みたいな点を、壊す、なんて……」


 そもそも僕はその能力を買われてこうして隷属を受けたんだと思ってたんだけど、この子はあんまりよく分かってないみたいだった。


「なるほど、すごいのはすごいけど、そういう……ことだったのね」

 ミルメアは、大きく肩を落とした。

「せっかく、私は、あんたを手に入れたから、やっと、やっとママに会えると思ったのに……」


 声が、どんどん小さくなっていく。


「この魔法障壁までは、過去辿り着いたこともあったのに……破れなくて。でも、魔法をかき消せるあんたならって、思って、たのに……」


 途切れ途切れの言葉に、鼻をすするような音。俯いているから顔は見えないけれど、もしかして泣いているのかもしれない。


「あんたじゃ、この魔法陣は、解読できないから、壊せないって、言うのね。せっかく、ここまで……来た……のに……」



「あ、いや、壊せるのは壊せるんだけど」

「……え?」


 ミルメアが顔を上げた。

 思っていた通り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だった。この小さいサイズで良かったと思う。


「えっと、壊せるのは壊せるんだけど、どうしても警報が鳴っちゃうんだ。消すわけじゃないから、壊したっていう事実は残るわけで。この魔法陣には何か異常が発生した時に発動する術式が組み込まれてるみたいなんだけど、それを――」

「あんた、今、壊せるって、言った?」

「そうなんだけど、だから――」

「だったら」


 ずびっと鼻をすすって、アームカバーで涙にまみれた顔をぐいと拭った。


「命令!! さっさとこんな魔法陣なんか破壊して、ママを助けにいきなさい!!!」

「あ! ちょっと待ってまだ退路の確認とかが――」


 僕の右腕が何かに引っ張られるように持ち上がった。魔力が流れ、筋繊維のわずかな振動が伝わる。


 しゃらんとしなやかな音を立てて、僕の改造腕輪が発動した。


 繰絡ノソウラクノカナデ


 ローブの袖をまくって出てきたそれは、機構だけじゃなく髑髏とか蛇とかのモチーフであしらわれて見た目も全然変わってしまっていた。

 ワイヤーのように加工された太い一本のミスリルは、魔法陣の手前で投網のように弾けた。

 三十四の線に枝分かれしたそれは、魔法陣の弱点を的確に、同時に貫いた。


「退路!? そんなのママが何とかしてくれるからあんたが心配しないでいいの!」


 ミルメアはそう叫びながら僕の胸ポケットに潜り直した。確か南の島国にこんな動物がいた気がする。


 そして、魔法陣が壊れた。硝子のように割れて崩壊した直後、耳を劈く笛のような音が辺りに響き渡った。


「早く行けっ! 下僕っ!」

「なんで怒ってるの……」


 僕はただの鉄の塊になった扉を、革のブーツを履いた足で蹴破った。

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