一章 死地
サーニャが事前に張っていた魔法障壁はいとも容易く破られた。強度不足だ。
試験官が僕たちを庇うようにして前方に飛び出し、いくつかの魔法を発動する。ドーランとケルンは、その後ろから援護魔法を放った。
そしてそのいずれもが、奴らの表皮に傷一つすら残すことができなかった。
それは、人ではなかった。
人によく似た何かだった。
僕が使った『六感強化』は、五感と魔力検知の感覚を研ぎ澄ますものだ。ケルンとドーランが使った『魔力検知』は、その後者に特化した魔法だ。そして、試験官が使った『響像探知』は、特定の方向に存在する物体の形を捉えるものだ。
そのいずれもが、『魔力を外に垂れ流さない、人のような形をした魔族』を捉え損ねた。それだけの話だった。
――この森には、Cクラス以下の魔物しかいない。
その前提も、これまでの『歪渦』消失時の経験則からの推測でしかなかった。
腕輪の方のロックしか解除していなかったことを後悔した。
左手指のロックを五つ全て解除し、ローブの下で腕から胴へと絡み付いている鎖を開放している間、ほとんどの出来事が終わった。
試験官が、逃げろとか、それに近い言葉を叫んだ。
その魔族が試験官に殴り掛かった。サーニャが三重の魔法障壁を展開した。
試験官もまた、それに被せるように二式の結界を張った。
そのいずれもが意味をなさなかった。
試験官の上半身と下半身が、離れた。
込み上げる嘔吐感、そして頭痛と耳鳴り。正常な思考ができていないように感じた。
敵は、次の標的をケルンに定めたように見えた。
僕は腰元の球状の魔法具を手に取り、放った。煙玉だ。簡単な目くらましに過ぎない。『六感強化』を使った僕は、その煙の中で唯一動ける人間になっていた。
「バ、『
神経ではなく、今度は筋繊維に沿わせるように展開した体内の魔法陣を発動する。
じゃら、と左の袖口から出てきた五本の鎖のうち一本を大木に絡み付け、僕は太い枝先に飛び上がる。
同時に、右の腕輪のチェーンを伸ばし、ケルンの腰元に巻き付ける。巨大魚を海から吊り上げるように、思いっきり後方に引き込んだ。
どう、と土ぼこりがさっきまでケルンがいた位置に上がる。間一髪だ。
「ケルン、大丈夫か! ドーランとサーニャを連れて早く――」
僕が後方に声を掛けると、全く想定外の言葉が返ってきた。
「ぐっ、お前が――俺に指図するな!!」
一瞬、何が起こったのかが分からなかった。
ぐらと僕の体が傾く。
バランスを崩して、枝から落ちる。
あまりの出来事に受け身も取れなかった僕は、地面にまともに激突した。
身体強化のおかげで痛みこそそれほど感じなかったものの、僕の思考は停止していた。
――嘘、でしょ。
あいつは、僕の鎖を力任せに引っ張ったんだ。
どうしてそんなことをしたのか、理解ができなかった。
右腕の感覚から、ケルンが鎖から離れたことが分かった。
六感強化はまだ生きていた。おかげで、三人がこの場から離れていくことが分かってしまった。
嘘だ、サーニャまで、僕を置いて――
がさ、と、嫌な音がした。
仰向けになった状態で音がの方向に目だけ向けると、試験官を吹き飛ばしたその魔族と目が合った。
恐怖より、命の危険に対する回避反応が勝った。
瞬時に右腕を鞭のようにしならせ、鎖を手繰る。それをまた別の木の幹に絡ませ、腕輪の中で魔力を弾く。巻き取られていく鎖がぎゃりぎゃりと軋む音を響かせながら、僕の体が引きずられるようにして地面を移動する――
丸太ほどもある大腕が、また土を大きく抉った。
爆風のような衝撃を受けながらも、僕は何とか回避し地面を転がる。
――繰絡ノ
この腕輪の鎖は、僕が最も信頼する武器だ。
武器と言っても、外部に魔力を帯びないこれは魔族にダメージを与えられる代物じゃあない。自由自在に動くロープのようなものだった。
僕はすぐに体勢を整え、目の前の敵と対峙する。
人の形をしているといっても、ちゃんと見るとその体長は熊ほどもある。それから、頭部には角。
ケルンはハイオークだと叫んだけれど、どう見てもこれは『鬼』だ。
足が、震えていた。
入学試験用の魔法木偶に一ダメージも入れることができなかった僕にとって、この試練は荷が重いどころの騒ぎじゃない。
僕は今日、ここで死ぬかもしれない。
森の奥からさらに数体の鬼がこちらに歩いて来るのが見えた。
「少年――」
「ぅわっ!!」
文字通り僕は飛び跳ねた。
一瞬、目の前の鬼が喋ったのかと思った。
「俺は、もう長くはない……」
足元に転がった上半身が、喋っていた。例の試験官だった。
長くないっていうか、どうしてその状態でまだ息があるの!
僕は目の前の敵から目を切らないように――それと断裂面を見てしまわないように――耳だけを傾け、そして言葉を返す。
「ぼ、僕も、もう長くないと思いますよ」
「ふっ、ぐふっ、それだけ余裕があれば十分だ」
笑ったのか何なのか、試験官はよく分からない呻き声を上げる。そして、何かの呪文を唱える。直後、僕の体の周囲に、薄紅色の靄(もや)がかかった。
「軍の駐屯地は、ここから、二時の、方、が――」
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