加害妄想

「本日未明、会社員の照間未亜さん(25)が首を吊って亡くなっているのが――」

 知った名前がどうしてニュースに出ているのか、いや、続く言葉、首を吊って亡くなって、

 そこまで聞いて私は朝食全てを胃から床へぶちまけていた。

 視界が滲む。涙の根拠が悲しみ・動揺・胃酸のいずれかわからない。全てのような気がしてきた。

 走る。ゲロを踏み転びそうになりながら風呂へと駆け込む。

 空の湯舟に飛び込み蓋を占め、世界を密封する。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー!!」

 胃酸に焼かれ、溶けかけの白米が滞在する喉を貫いて、くぐもった叫びが水の代わりに満ちてゆく。

 心臓から全身へ零度の痛みが広まってゆく。鰓呼吸になったように呼吸ができない。

 汗を噴き出しながらガクガクと震える肉体を抱きしめる手が、次第に頭皮へと移る。髪を掻き毟る。

 照間さん。私の同僚だった。首を吊った?

 どうして。理由は。そう考えるのが怖い。

 もしかして。

 もしかして、が、消えない。

 キャップを開けた炭酸のように次々と浮かび上がってくる。

 どれが原因だ?

 昨日の会話を思い出す。

「あれ、腕にアザあるけど、どうしたの?」

「ああ、これ転んじゃって……」

「あはは、ドジだねー」

 後悔の波が押し寄せる。入れ替わりに脳から血の気が引いてゆく。

 これか?

 私が彼女の怪我を笑い飛ばしたから。自殺をするほど心が追い詰められているだなんてあの時はわからなかった。いやよくよく考えれば、いつもより覇気がなかったかもしれない。顔色も悪かった。髪のセットも、少し崩れていたような気がしてきた。追い詰められていた。では何に? お局の久留米さんに嫌味を言われていた気がする。いや、でも、それは彼女に限った話ではない。でも人それぞれ傷つき方は、度合いは全く異なる。これが原因じゃないだなんて断定、あまりにも無神経だ。もしかしたらあの怪我は彼女のSOSだったんじゃないか。とんでもなく辛い状況を気が付いて欲しくて、それで私の目につくように左隣に座ったのではないか。右腕の怪我をアピールするため。きっとそうだ。自傷行為……いやアザということは、DVの可能性が高いかもしれない。彼氏の話を聞いた。そういえば酒を飲むと少し荒れると愚痴っていた。だとするとやはりDVだ。そうに違いない。本当は正直に伝え、誰かにヘルプを求めていたのかもしれない。ああああなのに私はドジだと、よりにもよって、ドジだなんて罵倒をしてしまった。求めていたのはそんな言葉じゃない。「転んだくらいでそんな怪我をする? もしかして、誰か……暴力を振るわれたんじゃないの? ひょっとして、彼氏に? ねえ、力になれるかわからないけど、私で良ければ話を聞くよ」と答えるべきだったんだ。それを私は、どうした? ドジだと言った。侮蔑したんだ! ドジだなんて!! 助けを求める人間を、よりにもよって嘲笑したんだ!! 人の心がある者の行いではない。我が子を食い殺す畜生にも劣る、人がこれまで社会において培ってきた善性や思いやり、道徳の時間で散々習った「人に優しくしましょう」という教育の一切合切を無碍にし、唾を吐き、ただただ照間さんを不注意で間抜けなドジだと!! レッテルを貼ってしまったんだ!! 救いを求め差し出されていた手を踏みつけたんだ!! 私が彼女を追い詰めた。助けてくれという無言のメッセージに気が付くことなく、ついさっきまで何一つ知らないまま、いつも通りにご飯と鮭フレーク、インスタントの味噌汁を飲んでいた。その時には既に絶望を感じた照間さんが、ニューヘイム竹田坂上203号室で、私の心無い一言を引き金にして死を決意してこの世を去っていたというのに。遊びに行ったことがある。あの部屋で首を吊ると考えた場合、照間さんは147センチと小柄だったから、高い場所よりはトイレか玄関のドアノブを利用したのだろう。私が、ドジだなんて言葉をかけたばかりに!!!

 照間さんを殺したのは、私かもしれない。そんな気持ちが強く、強く強く、圧し掛かる。

 記憶が次々と蘇る。

 そういえば。照間さんがまだ新入社員だった頃。飲み会の席だからと気が大きくなった私は、彼女が何かジョークを言った時に……ジョークだったかな。面白い話をしたのかもしれない。記憶が定かじゃない。酒が入っていたから? いや違う。そもそも私の照間さんに対する態度が粗雑だったんだ。彼女の話に対する真剣さ、誠実さが足りていなかった。だから彼女が何を話したのかも覚えていないのだ。いや、それで、彼女が私にとって笑いを誘うようなことを言った時、つい、酒も入っていたから――自己弁護をしてどうする? そんなことを己に対して行ったところで、罪が軽くなるというのか? 現実に彼女は命を絶ったんだ。そう、私はあの時、笑いながら彼女の肩をバシバシと叩いてしまった。ひょっとすると彼女を死へと誘うストレスは、あの頃から始まっていたのかもしれない。可能性としてはあり得る。もし他人との物理的な接触に対して多大なストレスを抱えるタイプだとしたら、あの私の軽率な行いは、ひょっとして彼女の精神に過剰な負荷を与えていたんじゃないか? きっかけなんて一体どこにあるか、地雷がどこにあるのか、それは誰にもわからない。他者の気持ちを覗き見ることは不可能だ。私の軽はずみの行いが、一体どれほど照間さんを追い詰めていたのだろう。いつも彼女は笑っていた。あははと。だから、私は、自分の行いがそんな、まさか、死を決意させるほどの何かを孕んでいただなんて、考えもよらなかった。違う! 目を逸らしていただけなんだ。きっとこれまでも彼女は何かサインを、拒絶の意思を見せていたんじゃないか? 奥ゆかしい性格だから直接言葉にしなかったというだけで。そういえば。前に「野田部長、なんか挨拶ついでに肩とか触ってくるの、嫌なんですよね」と言っていた。額面通りの言葉と受け取っていたが、あれは、今思えば、遠回しに私の行いを拒絶していたんじゃないか? 同性だからと気にしなかった。しかしもうずぅぅぅぅぅぅっと彼女は、私のこうした偏見に依存した振る舞いに辟易していたのだ。言い出せなかっただけで、兆候は見せていたんだ。そうだ。そういえば、照間さんの家に遊びに行った時。彼女の部屋に飾ってあったぬいぐるみに勝手に触ったことを思い出す。「それ、すっごい可愛いでしょー? 抱き心地もいいんですよ」と言っていたので「へぇー。ぎゅ~うっ。あ、ほんとうにふわふわしてる!」と、てっきり勧められたものと勘違いして抱きしめてしまったが、あれは彼女にとって、大事なものを汚すような振る舞いだったんじゃないか? 神棚に小便をかけるような、精神的拠り所を凌辱せしめる鬼畜の所業を、全く悪意と自覚なく行うという、一番救えないことをしてしまっていたんじゃないか。いや、他にも思い当たることがある……


『照間さん、気づいてあげられなくて、ごめんなさい。宗谷八重』


「本日昼頃、会社員の宗谷八重さん(28)が、自宅アパートの浴室内で溺死しているのを――」

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怪奇歓談 やを・ばーど @yawobird

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